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吾輩は赤子である。名前はまだない。
なんてしょーもないこと、言っている場合じゃない。これはなんだ?夢なのか?声を出そうにも赤ん坊の泣き声。正確には「オギャー」と「バブー」以外の発声が出来ないっぽい。ぽい、と言うのは、事態を正確に把握できないのだ。何しろ目もよく見えない。明るい、暗いの判別は出来るのだが、それだけだ。外からの音も上手く聞き取れない。首も動かない。ただ、周りに人がいることは理解できる。泣けば抱きかかえられる感覚だけはある。謎だ。
なのに、記憶だけは妙にしっかりしている。
会社帰り、来月の嫁さんの誕生日プレゼント何にすれば良いかな?今日、息子は部活だったかな?とか考え事しながら、スマホで数独をやっていた。駐車場に向かっていた。交差点で信号が変ったので歩き始めた。トラックが信号変ったことに気づかず突っ込んできた。俺の前で動き始めた電動キックボードを助けようと思わず吹っ飛ばしたら、自分がトラックに吹っ飛ばされたんだ。
そうか、ここはICUとか病院か。まだ俺は動けないんだ。嫁さんに心配かけたかな?反抗期の息子もちょっとは親父を心配してるかな?会社にもあまり迷惑かけるのもなぁ。
ん?でもそうなるとおかしい。発声はしている、つもり。でも、頭の中で響く音は「オギャー」とか「バブー」だ。この音は明らかに変だ。そもそも、なぜ抱き上げられる?上半身だけ抱えられる感覚ではない。全身が浮く感覚だ。どういうことだ?
そんなことを考えていたら、そのうちに少しずつ見え始め、聞こえ始めた。何日経過したのか分からない。1週間かもしれないし、1カ月かもしれない。はたまた3カ月かもしれない。なんせ時間感覚も覚束ない。不快になって泣き叫ぶ。考えてると腹が減る。腹が減って泣き叫ぶ。それ以外やることがないのだから。やれることがないのだから。
見える。聞こえる。ただそれだけ。でも、それだけでも得られる情報はそれなりにある。
泣いて一番多く来てくれるのは、新卒の子よりも若い女の子。そんな子がおっぱいをくれるのだ。無条件に嬉しい。決してスケベな気持ちはない。セクハラ?いやいや、本人が喜んで出してくれるんだ。比較対象になる若い子なんて、40過ぎのオッサンには新卒か、アラサーか、それより上か、くらいしか判別方法ないんだ。仕方ない。
次に来るのは嫁さんくらいに見える女性だ。嫁さんより若いのか、上なのかよく分からん。ヘタに首を突っ込むと危険だってことくらい、経験で知っている。それくらいの分別はある。最近のハラスメント研修でもやった。
あとは、息子よりも明らかに小さい男の子。大きく見えるが、しゃべり方、動き方から考えると2、3歳位か。息子もこれくらいの時期は可愛かった。目に入れても痛くないとは、正にこのこと。真剣にそう思ってた。今はだいぶ生意気になったけど、あの頃の可愛さを思い出せばなんてことない。
そして、これまた新卒の子よりも若そうな男性。垂れた目でニヤニヤしながらこっちを見てる。そうだよな、一度父親になると、こういうだらしない顔になるんだよな、きっと。
この状況から考えると、自分は赤子。何せまだ自分で動けない。何もできない。男の子は兄。それだと若い二人は父母、同い年くらいの中年女性が祖母なのだろう。祖父らしき人物は見ていない。だがそれでいい。自分と同じ年くらいの男性に抱き上げられるなんて、考えるだけで気分的にイヤだ。懐ける気がしない。
この状況を受け入れるならば、俺はきっとあの事故で死んだんだろう。平均寿命からすればだいぶ早い。これに困惑すると、泣くしかない。泣けば母が来る。決しておっぱいが欲しいわけではない。でも、出れば咥える。スケベ心ではない。断じて。いわば条件反射みたいなものだ。何せ頭の中は食欲と睡眠欲で文字通り支配されているのだから。だいたい咥えながら、前世のオッサンだった頃を憂うなんてシュールでしかない。
最初からこんな落ち着いてたわけじゃない。嫁さんのことも、これから更に学費がかかるであろう息子のことも、なかなか会う機会どころか連絡すらも途切れ気味になっていた友人達のことも、先立ってしまい残してしまった親のことも。でもさ、どんだけ悲しんでも、どんだけ憂いても、最終的に「オギャー」からのおっぱいだよ。そんなこと続けてれば受け入れるしかないじゃん。
そういえば息子の本棚にあった転生の文字。「そんな願望あるのか?」会話の糸口にと、そう声を掛けたことがある。一瞥して「別に」。そんな出来事を会社で話したら、「異世界転生ものって流行ってるんですよ」と優しく教えてくれたのは、確か去年の新卒の子だったか。「スキルとかレベルとか魔法とか、ゲーム的な世界に記憶を持ったまま転生するっていうベタな設定なんですけど、今多いですよ。無双するとか成り上がるとか」。そんなことを教えてもらった気がする。手に取ることはなかったけど。
死んじゃったのは仕方ない。転生したなら仕方ない。あの氷河期をもう一度やり直すのは、流石にちょっとしんどいし。かといってあの令和の日本で少子化の中生まれ変わるのも、この記憶を持ちながらだとさすがにヘビーだ。憂いて状況が変わるならいくらでも憂うが、憂いたとて来るのは結局のところおっぱいだけだ。
ただ、これだけは言わせてほしい。転生って異世界じゃなかったのか?ここ、昔の日本っぽいぞ。着物、建物、食い物。電気もない。水道もない。今でこそ大河くらいしかないが、テレビでやっていた時代劇の環境そっくりだ。なんかそのうち、印籠持った旅人とか出てくるのか?それとも桜吹雪の入れ墨が入った町人を装った人とか、はたまた融通利かなそうだけど実は情に厚いお代官様とか、歌の上手い火消しとか、あとは・・・。
そんなことを考えているとまた眠くなる。寝る→腹減る→「オギャー」→おっぱい。その繰り返しだ。自分で動けるようになるまで、飽きもせず本当に同じことの繰り返しだ。早く動けるようになって、自分でいろいろ確認したいなぁ。
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