孤独は天才の証明
その人間は才能に満ちていた。
走り始めれば、誰よりも速く走る事が出来た。
数式を見れば、誰よりも早く正確に解く事が出来た。
顔立ちは整い、清潔感があり、愛嬌があり、誠実で、おおらかで、自信に満ち溢れていた。
その人間が弦楽器を片手に、ベランダに出ると、目が眩むほど眩しい太陽が出迎えてくれた。
隣を見ると、縦に長細い建物は、緑のうねうねで覆われ、眼下の地面はひび割れている。
自分とは違う形をした生き物の鳴き声が聞こえ、同じ形をした生き物がいる気配は感じられない。
遠くからさざ波が聞こえ、持ち出してきた弦楽器を指で弾いてみた。
出鱈目な音の連なりは、理論に裏打ちされた素晴らしい旋律の様にも聞こえた。
しかし、その人間はなんでも出来る自分を顧みて、悲しい気持ちになった。
自分には何が出来ないのだろう。
人間は知りたかったのだ。
自分に何の才能が無いのか。
階下で横たわる、恐らく同じ生き物だと思われる何かは知っていたのだろうか。
数日前にこの部屋で目覚めた人間には記憶がなかった。
自分は何者で、どうしてここにいるのか、何もわからなかったのだ。
そのせいか、知りたいと思う気持ちが強かった。
その人間は、誰よりも好奇心が旺盛だったのだ。
弦を何回か弾くと、同じ音ばかりが繰り返され、人間は虚しくなって、楽器を空へ投げ捨てた。
落下して遠い地面にぶつかると、別の名曲が生まれた。
その旋律は、先程自分が鳴らした音よりも、自分の中に強く響き渡り、人間は興味深そうに下を覗き込んだ。
暫く、地上でバラバラになった楽器を眺めていると、空を自由に動く生き物が目の前を通り過ぎた。
その生き物の腕は自分の者とは違う形をしていたが、なんとも気持ちよさそうに、太陽に向けて舞い上がっていく。
自分よりも優れた音を出す楽器に、羨望してしまう別の生き物の動作。
その人間は何かを思いついた様に、手すりによじ登った。
同じ形をしていなくても、いいのではないか。
そしてその人間は宙を舞い、誰よりも遠くへ飛べる事を証明した。
しかし、鳥の様に飛べるわけでもなく、楽器の様に音色を奏でられるわけでもなかった。
意識の遠のく中、地面に横たわった人間は空を見上げ、分かり切っていた事実を悟った。
ああ、既にこの世には、自分を知る術は残されていないのだ。