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精神病院

他の従業員がすべて帰った、夜のオフィス。


「どうして、こうなったんだろう」


 二千二十五年の今年で三十二歳になる、新谷健司は愚痴をこぼす。白を基調とした生地に青のストライプが入ったユニフォームに身を包み、モニター画面を見つめながら電子カルテにデータを打ち込んでいく。


 学生時代、努力はしてきたつもりだった。だが大学四年、次々と送られてくる不採用の通知を見るたびに努力が無になることもあると学んだ。


一年近い就職浪人の後、妥協に妥協を重ね、かろうじて入れたブラック企業ではパワハラと過労が日常茶飯事。


さらに絶え間ない書類作成による腱鞘炎の痛みと不定期に襲う動悸、不安発作。


それらに耐えながら必死にお金を貯めて専門学校に入り直し、医療系の資格をとって再就職した。


 新谷は大学時代の失敗を踏まえ、あらゆる手段で就職先の情報をかき集め。比較的ホワイトな病院に入社する。有給消化しても、定時で帰っても、飲み会を断っても文句も嫌味もない。「自分、騙されてるんじゃ……」と初めの頃は不安になったほどだった。


 仕事先はデイケアを中心とした精神科の病院。九時五時で業務が終わることも多いからここを選択したという同僚の看護師も多い中、新谷は「作業療法士」という資格でリハビリを行っている。


精神的な不安を和らげるため作品作りや軽いスポーツを行ったり、悩みを聞いたり、就労支援をするのが仕事だ。


患者は精神的な発作を起こすことも多く、色々と大変な仕事だがやりがいも多い。


何より、患者さんや家族から感謝されるのが嬉しい。普通の会社勤めより性に合っていると思える。


担当していた患者の一人は、うつによりずっと引きこもりで自殺未遂で入院してきた。だがリハビリを経てアルバイトをしながら社会復帰を目指し、正社員への登用試験に合格する。


『両親がすっごく喜んでくれてました』


 そう涙ながらに報告に来てくれた女性の表情は、今も目に焼き付いている。


 中途採用だったので他のスタッフとうまくやれるか不安だったが、杞憂だった。医療職は社会人経験者も多く、年齢も前職もバラバラで。サラリーマン出身もいれば大学の院生で就職がない、という理由で資格を取りに来た人もいた。


やりがいがあって、同僚にも恵まれた新谷はさらに上を目指す。


スキルアップのための講習会は欠かさず出席し、外部の病院との交流の場にも進んで参加して。入職して

数年で科長にまでなった。


一般企業でオフィスと呼ぶ、スタッフルームの一番奥に彼の席がある。ひときわ大きなデスクトップのパソコンの脇には、山と積まれた資料、勉強会の申込書類、大学からの学生実習の書類があった。


 これらを整理し、担当スタッフに引き継ぐのも彼の仕事だ。


 だが受験と就職と、安定した勤務のためだけに努力してきたツケに三十を過ぎて気が付いた。先輩も同期も後輩も、ほとんどが結婚しているのに新谷には異性の影がない。


 見た目が最悪というわけでもないし、言動がキモイというわけでもない。最低限のマナーと身だしなみは身についている。と、自負している。


 だが女性が従業員の七、八割を占める医療現場に身を置いたというのに、付き合うことは一切なかった。


 生きることに必死だったころは異性に関心がなかったが、今思うとなぜもっと積極的にならなかったのかと考えてしまう。


 女性に飲みに誘われても、仕事上の付き合いとしか思わなかった。


 職場の懇親会にも、スキルアップの時間を作るため最小限しか行かなかった。


 とある女性に好みの異性を聞かれても、休日の過ごし方を聞かれても、趣味が何なのかを聞かれても。その他大勢と同じ返事と態度しか返さなかった。


 メインのパソコンをシャットダウンし、仕事を終えると時計の針は八時五十五分を指していた。


「帰る前に一息つくか……」


 スタッフルームの戸締りを終えると備え付けのポットでコーヒーを淹れる。


 コーヒーフィルターに円を描くようにお湯を注ぎ、じっくりと蒸らした後で軽く牛乳を注いだ。


 空腹時にブラックを飲むと胃を荒らしてしまう。ストレスで過敏性腸症候群になったことがあるので、飲み物には気を使っていた。


 神経を和らげるドリップコーヒーの香りと、胃に優しい牛乳の味が鼻に抜けて心身が穏やかになる。


 男子たるもの三十歳で女を知らないと魔法が使えるという。


 もし魔法が使えるのなら。どんな願いも叶うのなら。


 十代のころから繰り返し妄想してきた、魔法や奇跡。もうそれらすべてが偽物か科学のまがいものとは

知りながらも、祈ってしまう。


 あの頃に戻れるのなら、と。


『―――』


 新谷の頭の中に、突如聞いたこともない声が鳴り響く。だが精神病院という職場上、患者の悲鳴や病院

あらしの不審者という可能性が真っ先に頭に浮かんだ。


 内線で病棟全体に連絡、さすまたや防犯スプレーを取り出して、各部署との連携を……


 だが電話に手を伸ばそうとした新谷の視界が、溶けた飴のようにぐにゃりと歪んでいく。


 緊急事態のマニュアルを懸命に思い返しながら、新谷は意識が急速に闇の中に落ちていくのを感じた。


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