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ループ・ループ  作者:
4/4

再会

 結局予定よりも一時間半遅く目的の駅に着いた。10年前よりも、もっと老朽化が進んだ無人駅のホームに降りたのは不安定なままの僕一人だった。

 雲の厚みがさらに増し、色濃くなった灰色の空からはいつの間にかに雪が降り出していた。

 自分の中にある激しく狂っている部分と酷く冷静な部分を自覚している。

 縁の右手への執着はまだある。それが異常な考えだという自覚もある。

 いっそどちらかに振りきれてしまえばいい。

 列車内で温められていた身体が休息に冷やされ、むき出しの頬と首に刺すような痛みを覚えた。

海抜300メートルくらいの山の中にある村の冬は厳しく、長い。立春を過ぎてもまだまだ真冬の身を切るような寒さが続いていた。

 昔はこんなに厚着しなくても寒さなんて感じなかったんだけどな。今着ているフライトジャケットは古着屋で買ったはいいが、住んでいる街の気候では着ると暑すぎるのでお蔵入りしていたものだ。防寒対策としてはこの上ないものだが、それを着ていても骨が凍るように寒い。歯の根が合わない。こんなに寒さを感じるようでは暖房なしの家で一週間近くを過ごすのは厳しいかもしれない。土間で火でも起こせるように一斗缶とか残ってればいいけど。

 震えながらホーム備え付けの椅子に座り、時計を確認すると時刻はもう13時に近い。陽が落ちるまで5時間ほどしか残されていないことに気づいて舌打ちをした。失敗したな。バスにうまく乗れればいいんだけど。

 荷物を椅子に置きっぱなしにしたまま、少し歩き、バス亭にくっついていた時刻表を確認しようとホームの外に目を向けるが何も見つからない。記憶の中であったはずの場所にバス亭そのものがない。駅の右側に張り出すようにあった待合室もシャッターが降ろされ閉鎖されていた。張り紙などは特にない。シャッターが風に吹かれてガタガタと音を立てている。移転したのか廃線になったのかは分からないが、バスは使えないことだけ分かった。つまりは歩くしかないのか。

 視界に入る場所のどこもかしこも完全に凍っている。家までは、道が普通の状態でも歩いて40分くらいかかるはずだから、1時間以上を見ておかなければならない。行動に使える陽のある時間がどんどん限定されていく。ため息をつきながら荷物を置いた椅子まで戻った。

 朝買ったパンの最後の一つであるメロンパンを齧りながら、キャリーケースから今着ているベージュのフライトジャケットと同系色の革手袋と黒と茶の千鳥格子柄のマフラー、使い捨てのカイロを取り出す。マフラーを首に巻き付けながら、10年前のこの場所には縁が座っていたことに気づいて、少し気が重くなった。あの日コーヒーの缶が転がったのはそこら辺か。10年前はあった自動販売機も、その横に置かれていた分別をまったくしないゴミ箱ももうないようだった。さっさと行くか。あまりここに座っていても悪いことしか思い浮かばなそうだ。

 あの別れの日を過去にできていない僕にはこの場所での思い出は今と直に結びついている苦いものでしかない。乗り越えるべき時期に目を逸らし続けた代償はあまりにも大きく、ただ苦しい思いだけが残されている。あの日をもう少しうまく立ちまわっていたら、僕はもう少しでもマシな人間になれていただろうか。

 立ち上がり、フライトジャケットのポケットから切符を取り出した。代わりに手袋とカイロの包装をしていたビニールのゴミをポケットに入れ、出口へ向かって歩き出す。

 切符入れに切符を入れようとして思いとどまった。せっかくだから記念品として持っておこうか。たぶんもうこの先どれだけ生きようとも、この村に来ることはないのだから。

 切符を再度ポケットに戻しながら、ゲートも柵もなにもない、あってないような駅の出口を通り抜けた瞬間。

 ぷつん。と薄い皮膜を破り抜けたような音を聞いたような気がした。



 開封したカイロを左手で揉みほぐしながら、右手でキャリーケースを引いて歩く。歩く度に踏みつけられた凍った雪がザリザリと硬質な音を立てる。雪の抵抗にあい、キャリーケースがうまく走らない。少し苛立つ。

 右側に張り出したバスの待合所に遮られてさっきは見えなかった部分にポツンと立っている黒い影が見えた。見渡す限りの真っ白な世界の中でその影は目立っていた。影の正体は一台のスクーターと人らしい。黒と白のスクーターが一台止められていて、茶色のシートに跨っている人がいる。ずっと同じ場所で待っていたらしく、着ている黒のトレンチコートにも落ち着いた茶色の長い髪にもうっすらと雪が積もっている。エンジンは切っているようで何も音はしない。俯いているのと距離がそれなりに遠いので表情はわからない。

 この寒いのにご苦労なことで。

 視界の中で動くものがお互いの姿しかないので、なんとなく眺め合うような格好になった。長い髪に隠れていてやはり表情は見えないが、まるで観察するようにこちらをじっと見ている感じがする。

 誰待ってるのか知らんが、この時間僕しか降りてないぞ。内心そんなことを思い、声をかけてみようかと少しだけ思ったが、若干距離が遠い。こんなところで大きな声を出す気にはなれない。近づいてみても良かったが凍結した道の上を歩くのが久しぶり過ぎて、下手に歩いて転びでもしたらカッコ悪いのでやめた。

 誰とも連絡を取らずに村に来たので僕の迎えということはありえない。まぁ僕には関係ないか。

 スクーターの人に背を向けて、ぞんざいに除雪された道を踏み出し、駅の側の公衆トイレへとまっすぐに向かう。公衆トイレは男女の別さえもない簡易な作りのものだ。

 さぁ、先ずすべきことは水の確保だ。掃除にも生活にも水は最優先で必要だ。水道が完備されて いて蛇口を捻れば水が得られるなどという現代日本で当たり前の機能はあの家にはない。ここで確保していかないと誰かの家でもらうか、人と関わりたくなければ学校までこそこそと水を汲みに行かなければならない。しかも夜間は水道管から水を抜いてしまうはずなので、授業が行われている目立つ日中に。そう考えればここで手に入れて行くのがベストだ。

 水道が凍っている、もしくは冬季で公衆トイレが閉鎖されていたらアウトだが、幸いトイレには入ることができた。少しずつ水を流して凍結を防いでいるようで、水滴の落ちる音がしている。「凍結防止のため蛇口を締め切らないで下さい」と張り紙が貼ってある。あまり清潔な感じはしないが贅沢は言えない。

 備え付けの蛇口からボウルまでは狭い間隔しか空いていないので、2リットルのペットボトルが直接は入りそうにない。仕方がないので、背中のワンショルダーバックから1リットルのペットボトルを取り出し中に少しだけ残っていたお茶を捨てた。中身を軽く濯いで、水が溜まるようにペットボトルをセットし、蛇口を捻った。金具も水もものすごく冷たくて泣きたくなった。ポケットのカイロがようやく暖まってきているのが救いだった。溜まっていく水を目で確認しながら外に置いたままにしておいたキャリーケースまで戻り、2リットルのペットボトルを2本とそれを入れるための大型のゴミ袋1枚取り出した。

 ふと視線を上げると身体から雪を払い落としながら、スクーターから離れてこちらに向かって歩いてくる人の姿が見えた。後ろからブシュッっと1リットルのペットボトルから勢い良く溢れ吹き出した音が聞こえ、トイレの中を水浸しにしないように慌ててトイレの中へと戻った。

 1本目の2リットルペットボトルを満たんにしたところで、外でザリっという足音がした。あぁあの人普通にトイレを使うのかと判断し、補給作業を中断し、全ての荷物を持って外に出る。少し時間を潰してこなきゃならないか。やってることけっこう不審だもんな。大急ぎで寒さに強張った表情を営業用の自然な愛想笑いに作り変える。

 そのまま通り過ぎようとして、相手の顔を見た。見てしまった。僕の表情を見た直後に一瞬だけ見せたその傷ついた顔を。

 思わず立ち止まった僕の真正面に相手も止まり、寂しそうな顔で笑い、僕の胸を軽く三度小突いた。

 一度目はまるで、触れれば消えてしまう幻に触れるように、本当に弱々しく。

 二度目は溜まりに溜まった複雑な感情をぶつける様に少しだけ強く。

 三度目には一番強い衝撃が来た。頭で。そのまま胸に顔を押し付けるようにもたれかかったまま離れないで。胸がジンジンと痛み、呼吸が止まった。

「――――遅いよ」

 女がそう呟いたのが聞こえた。とても懐かしく、優しい声で。

 髪型も、服装の趣味も、使っているシャンプーの匂いも違っていて。声だけが僕の知っている縁だった。

 縁との10年ぶりの再開は、縁が最も嫌がったであろう形で成されてしまった。

 僕が縁の顔を忘れてしまったことがいきなりばれてしまった。

 こんな風に再会するのなら、「死んじゃった方が幸せ」と、たしかに10年前に縁は言ったのだ。

 手に持っていたもの全てが地面に落ち、くぐもった鈍い音や妙に軽く快活な音を発して転がった。

 最悪だ。

 やっぱり来なきゃ良かった。縁にこんな顔をさせるくらいなら。

 何かを言わなければと言葉を探すが、何も出てきやしない。

 10年前に別れたあの駅のホームで何も言えなかった僕と何も変わっていない僕。

 やっぱり。どうしたって。僕は自分が嫌いだ。

 それでも言葉にして聞かなければならない。そうしなければ確定できない。

 「縁、か?」

 と。

 消えてしまいたくなった。



「そうだよ」

 そう呟くように言って顔を離した縁はもうなんでもない顔をしていた。そして小動物のように身体や頭を振り雪を振り落とし始めた。髪から溶けかけた雪が飛んできて冷たい。

「いやー寒かった。ありえないくらい寒かった。死んじゃうかと思ったよ」

 縁はたははと笑いながら僕の方を向き直そうとして少しふらついていた。

「あー頭振り過ぎた」

「相変わらずだな」

 縁は言葉でも態度でも僕を責めなかった。だからようやく言葉を発することができた。 

「どういう意味よ。まぁ人なんてそんなに変わるもんじゃないからね」

「バカはバカのままか」

「相変わらずだね。くーちゃんもいじわるで口悪いままだ」

 にやり、とそんな擬音が聞こえてきそうな顔で縁が笑う。

 まるで10年前のようなやりとり。少しだけ安堵した。縁が生きていることに。遺書なんて嘘だ。

「久しぶり、くーちゃん。来てくれて嬉しいよ。ありがとう」

「うん、久しぶり。縁」

 結婚おめでとう。そう続けようとしたが言葉にならなかった。

 バカはバカのまま。それは9割方、何の成長も自制もなくこの場所に立っている自分に向けての言葉だった。



「お前なんであんなとこにいたんだ?というかよく僕だってわかったな」

 出していた荷物を全てキャリーケースの中にしまい、駅から家に向けての坂を下り始めながらながら、僕からしたら当然の疑問を聞いてみた。内面はともかくとして、見た目はだいぶ変わっているはずだ。引越し先の高校時代に遅い成長期を迎えたらしく、縁よりも少しだけ低くコンプレックスだった身長もだいぶ伸びた。

 道に積もった雪は完全に凍結しているので少しでも気を抜くと滑って転びそうで怖いので、縁に視線を向けることさえできない。全ての意識を自分の足と凍結路面に向ける。

 縁の話によれば、やはりバスは全路線が廃線になってしまったらしい。これで完全に村の中の移動手段は自分の足しかない。滞在中に凍結した雪が溶けることはなさそうであるし、溶けたら溶けたで舗装されていない道は泥の海のようになる。それならば凍っていてくれた方がまだ動きやすい。いくら滞在期間が短くても雪道や凍結路面を歩くことにある程度は慣れなくてはならない。

 少し先にはスクーターを押して歩く縁がいる。動きが制限される状況だと言うのに、ツルツルの凍結路面も慣れたものらしく淀みなく歩いて行く縁に少しずつ離されていく。

「私がくーちゃんを間違えるはずがないじゃない」

 少しの間を置いて返された縁からの返事に立ち止まり、縁に視線を向ける。横を転がすように動かしていたキャリーケースが慣性に従い僕の手を引いた。

 決まってるじゃない、そんな自信に満ちた表情で振り返った縁が眩しく見えた。

 一つ目の質問の答えを待ってみたが帰ってくる気配はない。まぁいいか。こいつは昔からよくわからない行動を取ることがあった。

 立ち止まって待っていてくれた縁に追いつき、二人でまた歩き出す。

「くーちゃん泊まるとことかご飯とかどうするの?」

「泊まりはあの家。飯は大量のパンがある。後はタブショーでなんか買えればそんでいい」

 キャリーケースの中にはバゲットが4本入っている。これだけあれば一週間くらい余裕だ。もともと普段からろくなものを食べてはいない。

 ちなみにタブショーは田伏商店の略で、村にあった雑貨屋の名前だ。こども相手のおもちゃ、農業資材や日用品を主に売っていた店だが、夕飯どきに少しだけだが天ぷらや唐揚げのような揚げ物惣菜も売っていた。村の中で宴会の仕出しがあればその半分を引き受けていた。そんな店だ。

 縁の結婚式は村の中でやるのだろうし、おそらくは縁の結婚式の料理を作るのもこの店の仕事となる。

「へー。あの家に泊まるの。苦労することになるねぇ。うんうん。がんばれくーちゃん」

「苦労ってなんだよ」

「すぐにわかるよ。私に言えるのはがんばれって言葉だけだよ」

「なんだよそれ」

「ふふふふふ。あ、あととりあえず言っておくけどタブショーはもうないよ。おじいちゃん死んじゃって店閉めちゃったから」

「そうなのか」

「うん。さらに言うと越川さんちも金森さんちももうないよ」

「ホントかよ。なんにもなくなってんだな」

 これは越川鮮魚店と金森精肉店のことで、両方とも村の食生活を長年支えてきた家族経営の店だったはずだ。ガキの頃はばーちゃんに連れられて何度も行ったことがあった。村の人間の大半は自分の畑に野菜を作っているので村の中に八百屋はない。自分で作った分とおすそ分けで賄えてしまうから。

「うん。だから買い物するんなら町まででないとなんにも買えない。お酒は買えるけどね。あとてっぽー」

「まだあるのかあのてっぽー屋。妖怪ジジィホントに妖怪だったりするんじゃねーの」

 稲森銃砲火薬店。通称てっぽー屋。銃とナイフのコレクターである年齢不詳の老店主が一人でやっている店で、主に狩猟用の弾丸と害獣用の罠とタバコを売っている。見た目と趣味と売っているものが異常に怪しいので、こどもに恐れられていた。泣く子には「泣いてると稲森のじーさまが来るぞ」と言えばピタっと泣き止むと言われていた。村で育った人間は大人も子供も男も女も例外なく妖怪ジジィという共通の認識を持っている。

「うん。限りなく怪しいよ。ってそうじゃないでしょ。話を変な方向に持っていかないでよ」

「言い出したのお前じゃねーか。まぁ飯はなんとかなるよ。そんなに長いこといる訳でもないしな」

「そっか」

 言葉の途切れた僕たちを一台の軽トラックが追い越していった。

「けっこう変わっちまったんだなこの村も」

「そうだね。やっぱり10年って長いよ。くーちゃんなんにも知らないんだね?誰かと連絡取ったりしてなかったの?橋本君とか仲良かったじゃない」

「携帯ぶっ壊れちまってな。バックアップもないから連絡も取れなかったんだよ。卒業アルバムとかもどっか行っちまったしなっ!?」

 ついに足が滑りバランスを崩した。なんとかバランスを取ろうとするが、持ち直すこともできずに無様に転んだ。ケツが痛い。

「歩くの下手になったねぇ。大丈夫?」

 スクーターを右手一本で支えながら縁が僕に左手を差し伸べる。

 いてぇよちくしょう、と悪態をつきながら一人で立ち上がり、服に付いた雪を払い落とす。

 意識的に差し伸べられた手を見ないようにした。僕にこの手は取れない。縁の好意を宙に浮かせてしまうことになっても。

 縁はなにも言わずに手をスクーターに戻した。

「いろんなものがなくなって、いろんな人がいなくなっちゃったよくーちゃん」

 まっすぐ前を見て坂の下の村を見る縁。縁の視線の先を辿るように僕も村を見る。同じものを見ようとして。

 縁の見ている景色は僕が今見ている景色とは全く違うもので、過去そのものを見ている。そんな気がした。

「昔は楽しかったねなんてさ、すごい年齢取ったみたいで嫌だけどさ。懐かしい人と会うとどうしても思い出しちゃうんだよ。思い出すのは楽しいことばっかり。だからほんのちょっとだけしかこっちにいてくれなくても、くーちゃんに会えて私はすごい嬉しいよ」

 そんな目で見ないで欲しい。また直視できなくなる。

 縁は僕を責めなかった。

 だから縁と話すことができた。

 だけど、僕は僕を責めていた。

 来るべきじゃなかった。今もそんなことを考えていた。

 縁を見ていても思い出すのは別れの日のことばかりだ。

 そして、気を抜くと無意識に縁の手を目で追ってしまう自分が怖かった。

 回りに誰もいないという状況も。



 結局家までの所要時間は昔の倍近く、73分もかかった。家の前で腕組みをして立ち止まる。

 そこには疲れも懐かしい家を見た感慨も完全に吹き飛ばしてしまうような、大きなインパクトを持つものがあった。

「なるほど。がんばれって言うのはこれのことか」

 盛大に納得した。なるほどこれはがんばらねばなるまい。

「うん。大変そうでしょ。スクーター置いてくるついでにスコップ持ってくるからちょっと待っててね」

 門も生垣も屋根もなにもない細い生活道に剥き出しで面した家の玄関の前には、屋根から落ちてきたらしい雪が完全に凍りついた状態で小山のように鎮座し、玄関を完全に塞いでいた。

 縁を待つ間に手持ち無沙汰になり、家の周りを一周してみた。

 生活道に面した玄関のある北面の窓は汚れてはいるが割れたりはしていないようだった。締め切られたカーテンの隙間から覗いた板間の部屋は積もったホコリで茶色く変色しているようだった。

 西側の壁面は枯れたツタがまとわりついていた。風呂・トイレの水回りの部分に使われている剥き出しのコンクリートの部分には細かいヒビが無数に入っている。他には風呂とトイレの小さな採光窓と薪で沸かす風呂の釜と突き出した煙突の残骸があるだけだが、やはりそこも枯れた植物の侵食を受けている。煙突は半ばから折れてしまっていて雪に埋もれているようだった。

 南側の畑であった場所には昔登って遊んだ柿の木がまだあった。枯れたススキが雪の中に立っているのが見える。家に近い部分はやはりツタに侵食されている。足元には鉢のようなものが放置されていて中で茶色い枯れた葉と茶色い水が凍っている。家の中の居間である部分は曇りガラスとカーテンに遮られて中は見えない。庭に面した勝手口は壊そうと思えば簡単に壊せそうな錆びた南京錠の鍵がかかっていた。こっちの鍵も持ってくるべきだったかな。勝手口の中には鍬や鎌がまとめて置いてあるのが見える。

 東面は台所に面したところに曇りガラスが二枚あるだけで、後はトタンの壁が打ち付けてあるだけだ。こっちにはツタが伸びてきていない。昔はここにプロパンガスのボンベがあったなと思った。

 10年経っても、誰も住んではいなくても、家はまだ形を保って建っていた。

 生活感のない家はどこか寒々しく、無性に不安になった。何かを間違いなく落としているのに、何を落としたのかがまるでわからない、そんな不安だった。

 一人でいたくなくて、急いで玄関まで戻ると、縁がスコップと何かの袋を持って立っていた。

「どう久しぶりのくーちゃんちを見た感想は」

「意外と原型を保っててびっくりだ」

「この村の中で数少ない変わらないものだね。もう変わりようがないものだけど。それでどっちがいい?がんばるか、がんばらないでゆっくり待つか。時間かかってもいいなら塩カルあげるけど」

 縁が手に持ったものを両方共僕に差し出しながら聞いた。塩カル。塩化カルシウム。水に溶けるときに発熱する性質を利用して融雪剤として使われている。塩化ナトリウム、要は塩よりも環境への被害がまだ少ないので村では昔からよく使われていた。塩害は畑にはわりと深刻な被害を出すので使いすぎると昔はよく大人に叩かれた。

「塩カルとか久しぶりに見たよ。なんか懐かしい。どのくらいかかるんだ?」

 雪の小山に視線を向けながら聞いてみる。

「2時間くらい?もうちょっとかかるかも」

 同じように雪の小山に視線を向けながら自信がなさそう縁が答えた。僕は無言でスコップに手を伸ばした。それは選択肢がないも同じことだ。寝る部分だけでも掃除をしなければ今日寝るところさえないのだ。もう陽が落ちるまで3時間強しかない。

「よーしがんばれ男の子。じゃあ私は寒いから一旦家に戻るよ」

「あぁ、薄情者め。ありがとう」

 雪の小山に何度も突き立てたスコップを弾かれながら、少しずつ砕いて横に捨てる。砕く。捨てる。砕く。捨てる捨てる。砕く。捨てる捨てる捨てる。そうして。30分ほど小山と格闘をした結果、ようやく鍵穴が見える程度までには小山を減らすことができた。手にしたスコップを標高の低くなった頭頂部に突き立てる。

 ガツンガツンしてた音が途絶えたからか、縁がいいタイミングで戻ってきた。片手にビニール袋を持っている。

「お疲れ様ー」

 おぅと返事しながら、極寒の中で大汗をかきながら、ようやく見えた鍵穴に10年ぶりに鍵を差し込む。何とも言えないムダな達成感がある。少し右に傾け力を込めるのがこのクセのある鍵を開けるコツだ。5度ほど試したところでカチリと音がして鍵が開いた。ようやく辿り着いた感じがした。

 鍵を引き抜き、中に入ろうとする僕を押しとどめ、縁が先に家の中に入ってわざわざ家の引き戸の玄関を閉めた。何が目的かよくわからなかったのでしばらく待ってみたが特になにもない。内側から鍵を閉めようとする音が聞こえ出したので慌てて戸を開け、中に入った。

 「おかえりなさいくーちゃん」

 そこには照れてはにかんだ今日一番の縁の笑顔があった。

 そこで初めて、今ありのままの縁を見ることができた。別れの日の縁を忘れることができた。

「ただいま縁」

 帰ってきた実感がようやく湧いた。

 帰るべき家。僕を待ち、受け入れてくれる人。僕にだけ向けられる言葉。もしかしたらあったかもしれない未来の姿。

 


 苦しいよ。縁。

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