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ループ・ループ  作者:
2/4

 それからの10年間で僕は完全に堕落した。

 引っ越した先の高校の授業の異常な進展速度と希薄に過ぎる人間関係についていけず、高校をサボリがちになり、大学受験に失敗。一浪の後そこそこの名前の通った大学に入ったはいいが勉強が全くおもしろく感じられずに、いくつものアルバイトを掛け持ちして労働に明け暮れる日々。アルバイトそのものは特におもしろくもなかったが、そこから広がった人間関係と得られたお金が自分の世界を広げていってくれるようで期待を膨らませることができた。この先にはもしかしたら僕の求めるものがあるかもしれないと思った。

 が、気づいたら必修の語学の単位が大幅に足りずに、二度目の二年生をしていた。せっかくできた数少ない友人とも講義が違うので疎遠になっていった。

 高校時代に人間関係で失敗した経験から深い人間関係を作ることが怖かった。そのためサークルにも所属せず、仲良くなったアルバイト先の人の告白も断ってしまった。その人はアルバイト先を辞め、僕が同性愛者だという噂だけが残った。条件は非常によかったのだが、結局そのアルバイトは続けることが苦痛となったので辞めてしまった。

 期待は簡単に萎んだ。

 大学は大学で、後輩の同じ講義の受講者に「いいか、語学の単位の取り方はだな」と率先垂範する一浪一留の二歳年上の上級生。

 後輩の僕を見る目は完全にダメな人を見る目だった。ときどきいるそんなこと気にしていませんよという態度の後輩からは、優しさが残酷なこともあると僕は学んだ。

 親からの学費以外の仕送りが止められたのもこの頃だった。もう一度留年したら学費も止めるという最終通告と共に母親が僕のアパートにやって来た。「勉強に集中するために仕送りを下さい。せめて家賃分だけでも」という僕の土下座と泣き落としを交えた交渉は、「甘えるなこのバカ」という言葉とともに一刀両断にされた。

 代返やノートを取ってくれる友達が同じ講義内にいないため大学も休めず、純粋に生存するために生活費も稼がなければならなかった。必然的にアルバイトは夜間から深夜にかけてのアルバイトだけになった。この時期に肉体労働のものや、接客のものなど、いくつかのアルバイトをしたが、できるだけ長期で働かなければならなかったので一番シフトに入れてもらえるお店のバーテン一本に絞った。

 生きていくために、ますますアルバイトにかける比重が大きくなっていった。理由が遊ぶためから食住のためになって行ったところなんて今思い出しても涙なしでは語れない。

 そんな生活をしていたので、卒業するために書かなければいけない膨大な量の追加レポートと、夏季・冬季休業期間中の集中講義の単位が卒業のための絶対必要条件となってしまい、企業就職への最も有利な新卒という権利を行使することができなくなった。

 卒業だけはできた。完全単位制の卒業論文がない学部で本当によかった。

 完全なるフリーターとなった後は、なし崩し的にアルバイトの時間が増え、店長代理という肩書きが付、時給が100円だけあがった代わりにシフト作成を始めとした人務管理や、店で起きる苦情の処理等の面倒ごとが増えた。いろいろなお客が来るが、大きく見ればなにも変わらない。そんな、ただだらだらとなにもない日々を過ごしていた。この間に見に付けたものはカクテルの作り方と上辺だけで他人とそれなりに関わる方法だけだった。

 昨日のことも明日のことも考えることはめんどうくさかった。だけど、これでいいと、完全に開き直ることもできなかった。

 僕は全てに中途半端なままだらだらと時間を浪費していた。




 大学卒業後もバーテンとしてアルバイトを続けていた僕に転機が訪れたのは常連のお客さんと雑談をしているときだった。

 このお客さんはある程度を飲むといつも愚痴を言い出し説教を始める。部下らしい人と一緒であれば部下の方に全て向いていくのだが、最近は一人で店を訪れることが増えた。そのせいで説教はカウンターの中にいる僕にその全てが向けられることになる。社会の最底辺に位置するフリーターの僕にはさぞ説教のしがいがあることだろう。

 お客さんに気持ちよく飲んでもらうことが僕の仕事であるので、流し流しではあるがちゃんと話は聞く。ある程度、内容が頭に残るように、だけど理解はしないように。それがこの仕事を長く続けるコツだと知っていた。常連さんと会話ができないのは問題外だが、深入りされることを基本的にお客さんは求めていないのだ。この店から外に出れば、誰もがそれなりに社会的地位を持ち、それぞれに生活がある。立ち入られたくない領分を誰もが抱えている。その部分を少しだけ見せることで、彼らは日常からほんのわずかだけ解放される。しかし、あくまでも見せる部分は当人が意図的に選んだものに限られる。本当に不都合なものは誰も見せない。深入りすればそのあえて見せないようにした部分にどうしてもぶつかってしまうのだ。アルバイトに入りたての頃、僕は何度か失敗をした。そのお客さんは二度とこの店に来ることはなかった。

 僕の仕事はカクテルを作ることと、彼らの日常でどうしようもなく溜まってしまうストレスを吐き出させ少しだけ緩和することだ。それ以上のことはしないし、してはいけない。問題の解決を求めるならカウンセラーや法律家の元にそれなりにお金を払って行くべきなのだ。

 それがこの店に勤める僕の保ってきたスタイルであるし、そんな僕に会いに来てくれるお客もそれなりについてきている。新店を開く計画を常に持っているオーナー兼店長からは、次期店長をやらないかという声もかけてもらっている。近い内にフリーターからの脱出はできるかもしれない。

 でもそれでいいんだろうか。その先に何があるんだろうか。そんな思いを抱えているときに丁度そのお客さんが説教を始めた。最初は聞き流していたが、心に何か淀んでいくのを感じていた。

残った言葉は「早く就職しろ」「今はどん底だろうけど」「甘えすぎ」「今が良ければそれでいいのか?」。

 その日の営業が終わり、店の裏のゴミ集積場にまとめた店中のゴミを出しながら、僕はお客さんの言葉を反覆していた。

 就職。は一応している。アルバイトの身ではあるけど。どん底。その人の価値観に過ぎない気もする。社会的に低い立場なのは確か。甘え。否定するつもりはない。もっと大学時代に努力していれば別の道もあっただろう。もう全ては遅い。今が良ければ――――。

 僕は今を良しとしているだろうか。不満はあるが小さいものだ。この先もある程度見える。

 将来設計もある程度はできる。だけど楽しくない。ここに僕のシアワセはないように思えてならない。

 なんとなく生きてなんとなく死ぬ。その先にあるものはこれだけだった。

 ただ――――僕がシアワセと思えるモノがこの世界のどこを探しても見つけられないのではないのかという恐怖そのものの思いは、僕の心の一番深い場所に淀んで澱をなしていた。場所や状況や他人との良好な関係が僕のシアワセに全く影響していないとしたら。結局問題は僕自身に過ぎないとしたら。ならば僕は。これ以上はもう。

 心が波立つ度に僕の中でゆらゆらと漂うその澱にいつまでも慣れることができない。あれから10年経ったというのに、僕は僕が嫌いなままだった。

 帰り道を吐いた真っ白な息が後ろに流れて行く。特に理由も無く全力で走ってみた。アーッと大きな声で叫んでもみた。ろくに運動らしい運動をさせていない身体はその行動の代償として、足をもつれさせて思い切り地面を転がることになった。息が止まり脳が軽いパニック状態に陥る。脳は酸素を求め続けるが、肺はストライキを決行したままだ。苦しくて苦しくて涙が流れた。そのまましばらく起き上がれなかった。身体はどんどんと冷えていく。このまま死んだら楽になれるのかなぁ…。脳でないどこかでそんなことを考えた。

 たぶん時間にしたら30秒かそこらだったろうが、そのまま一時間も呼吸のできないまま横になっていたような気がした。

 寝転んだままで見上げた月がとても高く見えた。そんな空が澄んでいた冬の日。走っても叫んでも転んでも、何も振り切れも拾えもしなかった。前に進んでいる気が全くしない。出口のない狭い部屋の中に一人残されたような閉塞感だけがあった。

 止まらないまま流れる涙はもう身体の痛みのせいだけではなかった。



 砂まみれになって帰宅したマンションで最上階の5階で止まったままになっていたエレベーターを待つ間に、いつものように郵便受けを確認した。入っていた分譲マンションやデリバリーヘルス、宅配ピザのチラシ等を内容を一瞬だけ確認しながら、郵便受けの側に備え付けて有るゴミ箱に放り込んで行く。

 全く地球環境に優しくないことで。などとエコロジストのようなことを思ってみた。ゴミの分別さえも怪しいこの僕にそんな資格はきっとないが考えるだけなら自由だ。何かを考え続けていないと何かに追いつかれてしまいそうな焦燥感。こんなことなら。あの客の言葉なんて完全に聞き流しておけばよかった。こんなことを、まだなにも始めてもいない内から考えるべきことではないとわかっていた。こんなことは何かに失敗してから、誰かに責任を押し付けるときに考えればいいことだ。それでも弱った心はどこかに逃げ場所を探さずにはいられなかった。

 エレベーターが到着したので手に残っているチラシのをまとめて捨てようとしたところで、白い封筒が間に挟まっていることに気づいた。表側には速達を示す赤い印と、細くキレイな文字で僕の名前とこのマンションの住所が書かれていた。間違いなく僕宛。しかし封筒で送ってくるような知り合いに心当たりはない。住所を正確に覚えている知り合いなんて何人もいないはずだ。誰だろう?と不思議に思いながら封筒は裏返してみた。一瞬思考が止まった感じがした。差出人の名前には山村縁と書かれていた。

 エレベーターのドアの閉まる音が遠く聞こえた。



 縁?縁だって?

 懐かしい名前に記憶が呼び覚まされ、少し心が浮き立った。懐かしい。本当に懐かしい。

 直後に愕然とした。

 浮き上がった心は真っ逆さまに落ちていった。

 森の社。ボロボロの古い家。二人で歩いた長い坂道。繋がれた手の先にいる―――――顔のない誰か。

 あぁ、そうか。もう僕には。縁の顔を思い出すことさえできないのか。

 視界がぶれる。ついさっきまで泣いていたせいもあっただろう。涙腺がゆるくなりすぎていた。

 手を繋いでくれる相手が欲しかった。暖かい手で握り返してくれる相手が欲しかった。

 記憶の中で、その暖かい手を持つただ一人の幼馴染の顔を僕は永遠に失ってしまったと知った。

 全てが無性に悲しかった。

 思考せずとも身体は動くものらしい。歩いた記憶などは一切残っていなかったが、気づいたら僕は自室のソファに手紙の入ったままの封筒を握りしめたまま座っていた。少しよれた封筒には変わらずに山村縁の名前と僕の記憶の中にある住所が記されたままだった。

 緩慢な動きで封筒の封を千切った。

 緑の手紙は短かった。

「やっぱりくーちゃんのこと忘れられなかったよ。でもくーちゃんは私のことなんて忘れちゃってると思うから謝ってなんてあげません。おあいこです。突然ですが、私は結婚することになりました。式は2月16日。私の誕生日です。旦那さんになる人のことは教えてあげません。直接見に来て下さい。私は大丈夫だから。大丈夫だってくーちゃんに見せたいから。来てくれないと泣きます。」

 結婚という言葉の意味を脳が理解するまでかなりの時間を要した。手紙の結婚と書かれた文字の部分を何度も指でなぞった。

 結婚、結婚か。縁が。あの縁が。結婚、か。

 結婚という言葉を呟く度に、細い糸が何重にも首にかかっていくような気がして息苦しくなった。

意識して足に力を入れなんとか立ち上がり、窓辺に向かって歩いた。4歩も歩けば着く窓辺がやたら遠く感じた。

 窓を開けると冷たい冬の風が吹き込んで来た。部屋から漏れた光が打ち捨てられたサビだらけの自転車を照らしていた。

 頭を冷やそうと深呼吸を3度した。

 しばらくそのままでいたので頭も体温も冷えてきた。手に持ったままだった手紙をもう一度読み直した。

 結婚、か。

 縁の顔を忘れたことを思い知った以上の喪失感が急速に全身を包んだ。

 僕を好きになれるかもしれない最後のつながりが、音を立てて切れたような気がした。

 正直なところ、縁が誰かのものになるところなど絶対に見たくはない。

 縁からの手紙は単に手紙であり、こちらから出欠の意思表示を示す部分はない。無視してしまえばそれでいい。それだけで僕は元の生活に戻ることができる。客の一人に過ぎない男の言葉などきっとすぐに忘れられる。僕はそういう人間だから。シアワセなどどこを探しても見つからない。そう諦めるだけで。それだけでいい。それだけで生きていける。こんな風に泣くこともなく。こんな風に落ちることもなく。生きていける。

 諦めよう。全てを。僕は変えられない。それでいい。僕は僕を嫌いなままでいい。このまま生きていこう。そう決めた。僕には理想ではないとしても居場所があり、そこにいる限り、一人でもきっと生きていける。

 最後に気持ちを整理するために、二人の約束の証であるお絵かき帳を処分しようと思った。そうすることが自分を諦めるために決定的に必要であると思った。

 処分と言っても、そのままゴミに出すのはなんとなく嫌だったので燃やそうと思った。どこか適当な場所を考えながら、なんとなくめくったお絵かき帳のページにあるはずのない記述を見つけた。

 自分の目を疑い、次に頭を疑った。頭がおかしくなったかと思った。お絵かき帳の表紙を確認し、もう一度その記述を眺めた。文字は文字としてなにも変わらずにそこにあり、これが現実であると僕に教えていた。


 その記述の内容は、有り体に言えば――――縁の遺書だった。

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