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ループ・ループ  作者:
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幼馴染とお絵かき帳

 線香が全て燃えたことを確認し位牌だけがない仏壇に最後に手を合わせ、仏壇の扉を閉じる。

 三ヶ月前の冬の特に寒かった日に死んだばあちゃんを思い出してしまうから、線香の煙も香りも最後まで好きにはなれなかった。

 いつも笑顔で優しかったばあちゃんの人格を吹き飛ばす程の痛みの中で、ばあちゃんは死んだ。肺癌だった。いつもうまそうに吸っていたタバコが原因なのだろう。

 僕はばあちゃんが好きだった。両親は仕事でずっと家にいなかったから、僕はばあちゃんに半分以上育てられたようなもんだ。それでも僕の腕を痣が残るほど握り締めながら逝った最後の顔が思い出せない。

 そんな僕が嫌いだ。

 ばあちゃんの死後、両親は都会に引っ越すことを決めた。元々じいちゃんが亡くなり、一人になったばあちゃんのために僕たち一家はこの村に越してきたのだから、引越しは当然と言えた。

 僕も特に文句は言わなかった。この村を離たくない気持ちは確かにあったが諦められないものなんて何一つなかったし、現実的に中学生に過ぎない僕が一人で残れないことはわかりきっていた。

 そして、この村から職場への片道3時間の通勤をずっと続けてきた両親の済まなそうな言葉に文句なんて言えるはずもなかった。僕の中学卒業まで引越しを待ってくれただけでも感謝していた。

 都会での仕事を抱えた両親は僕よりも先に新しい家に引越し、僕は春休みのほんの少しの間だけこの家に一人で残った。今回の引越しについて僕が両親に願ったたった一つのわがままだった。

 カーテンを引戻しながら戸締まりの最終確認をしてブレーカーを落とした。

 靴を履いて、鍬や鎌が置かれたままの広い三和土を抜ける。ずっと使われていない竈の横にはこれからも使われることのない薪の杉と柴が積み上げられている。これは捨てるべきだったのかな。何も言われなかったけど。

 玄関の引き戸に鍵をかけ、引き戸を一度動かしてみて鍵が確実にかかっていることを確認した。

 これだけの動きで家全体が軋むような音を立てるボロボロの家。

 4歳から今までずっと住んできた家。

 昼も夜もほとんど鍵なんてかけることはなかった僕たちの家。

 鍵のかけられた扉が僕を拒絶しているようで、ふいに涙がこみ上げてきた。

 もうこの家に帰ってくることはないと、出発する朝僕はようやく実感した。

 暦の上ではもう春だというのに、山から吹き降ろす風は冷たかった。



 それから先に外に出ていた幼馴染の縁と長い長い駅までの坂道を歩いた。

 いつも学校に向かって歩いていくみたいに。

 いつもと違っていることは。

 何も話さなかったこと。

 大きなボストンバックをぶら下げていること。

 坂の途中から縁が手を握ってきたこと。

 そして――――帰り道で縁が一人になることを、お互いが知っていることだけだった。

 僕は何も話さなかった。

 縁も何も話さなかった。

 話すべきこと話したいこと話さなければならないことなんていくらでもあったはずなのに。

 僕は何も話せなかった。

 縁はただ僕の手を握っていた。

 二人でただ歩いた。

 昔、まだ僕たちが本当に小さかった頃、夜が来るまで二人でそうしたように。

 二人ならどんなことでも叶えられると信じて歩いていた頃のように。

 縁の手はとても冷たかった。





 駅のホームで僕はベンチに座り直し、乗るはずだった列車を見送り目を閉じた。

 次に列車が来るのは1時間半ほど後のことになる。

 握った手を放さないというそれだけの、幼馴染のささやかで絶対的な妨害の結果だった。

 振りきって行くことは簡単だった。田舎の列車は運行の間隔がバカみたいに長い分、都会のように単純に時間で出発するということをしない。ホームに人が残っていれば最低限、乗車意思の確認程度の言葉はかけてから発車させるのが常だった。

「すみません、次の列車を待ちます」

 僕はそう確かに言ったのだ。

「そう、わかった。なんか知らないけど、本当に大事なことは男から言ってやるもんだ。がんばれ若人」

 車掌さんは微笑ましいものを見るように目を細め、優しい口調で僕に告げると、はっはっはと笑いながらすぐに職務に戻っていった。

 列車の音も、他の人間の見送りに来ていた数人の村人の車も遠ざかっていく音がして、風と川の音だけが聞こえるいつもの寂しい無人駅へと戻る。

 坂の下にあるそれぞれの家に戻って行く人達を思う。僕もその中に戻れたらどれだけいいだろう。

 前に人の立つ気配に閉じていた目を開けると、両手に一本ずつ缶コーヒーを持った縁がバツが悪そうな顔をして立っていた。

 構内にはもう僕と縁しかいない。

「はいくーちゃん」

 左手の缶コーヒーを僕に押し付けるように渡して少し距離を取る。上半身だけ着膨れた姿がゆらゆらと動いていく。今日初めて聞いた縁の声は少しだけかすれていた。

「冷たっ。ちょっとでも離れるとすぐに冷えちゃうわね。やっぱり冬は嫌い」

 個別のイスが4っつ並んだベンチの右端に腰掛けながら言う。

 左端に座る僕からできるだけ遠くに座ったのはたぶん、僕からの文句を聞きたくないからだ。文句なんて言わない。次の電車が来る一時間半先までこの場所にいられることを感謝したいくらいだ。調子に乗るだろうから絶対に言ってはやらないけれど。

 こんな風に心の中でだけ何度となく感謝していることを縁は気づいているのだろうか。何度も何度も何度も。僕はこいつに助けられて来た。

「同じとこに座ってなきゃ当たり前だろ。冬関係ねぇよ」

「あれ?そうだっけ?」

 たはは、と笑いながら椅子を一つずつ移動してくる縁。

 移動する度にベンチの冷たさを実感しているらしく表情がくるくると変わる。縁の頭の中はきっと液状でゆるい。脳にもシワなどは刻まれていないに違いない。そんなどうでもいい確信を深めた。

 寒さに本当に弱い縁らしくかじかんだ指先で二度ほど開封に失敗した後、カシュっと硬質の音を立ててようやくブルタブを上げる。

「それに寒いんならスカートはやめとけよ。足真っ赤になってるじゃないか。スカートにするんなら今日歩きだったんだからあのでかいコートでも良かったし、いつもの手袋も」

 そのコートは青いロングダッフルコートなのだが大きすぎて一度自転車走行中に巻き込まれて大惨事になったことがあり、封印された経緯がある。正直こいつに良く似合っていてもう一度着ているところを見たかった。アレはなによりも初めてこいつにした、まともに金をかけたプレゼントだったのだ。

「スカートの方が喜ぶかと思って」

「痛々しいんだよ。ここでこんなに待つことになるとは思わなかったし」

「…かんぱーい」

 話の逸らし方が白々しい。こいつはこの先対人関係で決定的に苦労するときがきっとくると思う。そのときに側にいてやれたら本当に良かったんだけど。

 縁が持ち出してきたのは、二人の間にだけ通用するいくつかの約束の中の一つ。飲み物を手にしたらとりあえず乾杯。両親の真似をしていたおままごと。食事の前にはまず手を洗い次に乾杯をするのがルールだった。本当に泥の団子や草を食べされられたこともあったっけ。

「はいはい、かんぱいな」

 僕の方はまだ開封さえしてないコーヒー缶を軽くぶつけ合う。ゴッっとくぐもった音がする。こんなことで縁の機嫌を損ねて先に帰られてしまうのもつまらないので素直に従っておく。

 次にいつ会えるかはわからないし、もしかしたらもうその「次」は永遠に訪れないのかも知れないのだ。

「…良かったの?」

 心底悪いことをしたって顔をしないで欲しい。決めたのはあくまでも僕だから。

 怒っていないことを示すために笑って頷いて見せる。いつものように笑えているかはわからない。縁をだますのは息をするよりも簡単だが、嘘をつき通すのはとても難しいのを僕は知っている。

「ありがとう」

 こいつは昔から謝らない。謝ったとこを見たことがない。

 いつだって一人で強がって精一杯の虚勢を張って、全力で走ってあの森の奥の朽ちた社で一人泣くのだ。初めて会ったときのように。こいつの泣き顔を知っているのはきっと僕だけ。できるだけ縁が泣くことのないようにしてきたのだけど。

 縁は手にした缶コーヒーを一口飲んで一瞬だけ感情の消えた素の顔になった。すぐに表情に戻ったのは僕が一番嫌いな吐き気を催すような不細工な笑顔だった。僕の前では、それだけは止めろと何度も言ったのに。約束したのに。

「あ、こーちゃん。携帯切ってくれるかな?最後だもん。邪魔されたくない」

「はいはい、わかったよ」

 携帯の電源を切る。AM10:04分を示していたディスプレイがブラックアウトした。




 それから僕たちはいつものように他愛もないことを話し始めた。

 縁が沈黙を恐れるように豊富に話題を振り、僕がそれに答える。いつもの僕たちの距離で。いつもの僕たちのやり方で。いつもと違う顔をして。

 今までの話とこれからの話を。二人が当たり前に一緒にいる未来の話を。

 列車に乗って二人で遊びに行った、少しだけ都会な街に夏頃完成するらしいショッピングモールの話をし始めたところで縁は言葉を詰まらせた。

「…こんな話してもしょうがないね。くーちゃんにはもうなかったことになっちゃう場所だもんね」

 縁は不細工に笑ったままだった。僕は何を言うべきかわからずに、ただ縁の気に障る笑顔を見ていた。

「もう何を話していいのかわからないよくーちゃん。くーちゃん困らせないって決めてたのに。いつもどおりになんてできない…できないよ……くーちゃんが行っちゃった後一人で泣けばいいと思ってたのに。それで終わらせられるって思ってたんのに」

 縁は今の話をし始めた。たぶん、永遠に口にするはずではなかった話を。

「いつもどおりなんて無理だったんだよ!変わっちゃうんだから!くーちゃんいなくなっちゃうんだから!―――――これで全部終わりなんだから!」

 縁は手にした缶コーヒーを叩きつけ叫んだ。中に残っていたコーヒーがこぼれホームに広がっていく。

「味がしないんだよ!何の味もわかんないんだよ!一緒にいても治らないんだよ!」

 さっきのコーヒーを飲んでの顔はそれか、と変なところで納得する。一緒にいれば大丈夫。そんな最後の砦すらも簡単に壊れてしまったのか。

「もうわかんないんだよ!何も!何も何も!なーんにも!あはははは!こんなのなら!くーちゃんなんて最初からいなければ良かったんだよっ!くーちゃんなんて大っ嫌いだっ!さっきの列車に乗って行っちゃえば良かったのにね!」

 不細工に笑う縁のことをこのまま抱きしめられたらどれだけ幸せだろう。

 その笑顔を僕の大好きな笑顔に変えられたらどれだけ幸せだろう。

 縁の望むことだけを叶えるためだけに生きれたらどれだけ幸せだろう。

 自分の意思で、せめて自分に関わることだけでも決められる程度に大人だったらどれだけ幸せだったろう。

 僕がシアワセを感じられる人間であったらどれだけ――――。

「くーちゃん。―――――行かないで。どこにも。ずっと側にいて。終わりにしないで」

 縁はもう笑ってはいなかった。別れが決まってから縁の初めての本音が胸に痛い。

「僕たちは何も始まっちゃいなかった」

 その言葉は決定的に僕たちの関係を破壊するものだった。伸ばした手を拒絶され、傷ついた顔をした縁を見ると心が死んでいく気がした。それでいいと思った。

 痛みも傷も受け止める。それが僕たちの自然な関係なはずだったから。

 それが、一歩踏み込んだら、壊れてしまうような脆く儚い関係だったとしても。

「うん、くーちゃんが私のこと好きじゃないのは知ってた」

 側にいて。ときどき優しくして。ときどき優しくされて。僕はそれだけで良かったのに。

「でもね、私はずっと好きだった。くーちゃんしか好きじゃなかった」

「僕にもお前しかいなかったさ」

 それでも、この感情は恋ではない。僕は悲しいくらいに理解していた。

 一番側に。一番長く。一番自然に。いたのが縁だった。それだけのこと。そう思ってしまう自分が嫌いだ。

 僕は一度だって縁を抱きたいと感じたことはなかった。

 この先、時間をかけてゆっくりと恋に変えていけたかもしれない気持ちだったけど。

 この先はもう、ない。

「ほら、誰も見送りに来てくれてない。みんな薄情だよな」

 こみ上げてくる悲しみをどうにか薄れさせようと自嘲的な軽口を叩く。それ自体は別に悲しくも思わない。他の誰よりも見送って欲しい人はもうここにいる。

「それはね、みんなくーちゃんが行くの明日だと思っているからだよ。みんなには明日謝らなきゃならないけど。私はくーちゃんと二人きりで話したかったから」

「お前ときどきすげーことするよな。橋本とか泉とか怒らせるとすげーめんどくさいのに。まぁお前が謝ったら意外とそれだけで大丈夫かもな」

 苦笑しかでてこない。

 縁のこういった意外性は嫌いじゃない。いつもなら「ばっかでー」と心から笑えるようなことにも、心は沸き上がってはこなかった。

「まぁお前がいればいいかな」

「それ、嘘じゃないと思う。けどホントでもないよね。くーちゃんは誰のことも好きじゃなかった。誰のことも嫌いじゃなかった。くーちゃんが嫌いなのは自分だけ。くーちゃんは誰がいてもいいし、誰がいなくてもいい。そうでしょ?くーちゃんはどこか壊れてるんだと思う」

「そうだな」

 縁はきっと僕よりも僕のことを知っている。僕が見ないようにしてきた僕に一番触れていたのは間違いなく縁なのだから。

「それでも私はくーちゃんのことが好きだった。私ならくーちゃんを変えられるって思ってた。こんなに早くいなくなっちゃうなんて考えてもみなかった。…行っちゃうんだね」

 縁が泣いていた。打ちのめされた顔で、しゃくりあげながら、それでも僕から目を離さずに。

「くーちゃんがいなくなっちゃうってわかってからずっと考えてたの。くーちゃんはきっと私のことなんて忘れちゃう。いつかくーちゃんにもし会いに行って、くーちゃんから知らない人を見る目で見られたくない。そんな目で見られるくらいなら私死んじゃった方が幸せ。遠くに行っちゃっても今までどおり幼馴染で仲良くなんて無理。だから、だからね。今日行っちゃうんなら一つだけ約束して。私たちはもう二度と会わないって」

 僕の中で何かが確かに砕けた音がした。欠けた部分は永遠に失われ、塞がらず、これから先ずっと渇き続けるのだろう。

 それでもきっと縁の言うことは正しいのだ。縁のことを思い出さなくなる日はきっと僕に来る。

 僕の答えを待たずに縁は言葉を続けた。幼馴染の声はまるで初めて聞く異国の言葉のように遠く聞こえた。

「私はくーちゃんを忘れる。ちゃんと忘れるから。これさえなければちゃんと忘れられると思うから」

 そう言って縁がカバンから取り出したのは古いお絵かき帳だった。縁の手は震えていた。

「これ、覚えてる?」

 涙がお絵かき帳の表紙に落ちて、「ゆかり」とへたくそな平仮名で書かれた文字が滲んだ。

「八代のおねーちゃんが神社で結婚式したときの絵。本当にキレイで。キラキラして見えたの。私もいつかあんな風にキレイになりたいとずっと思ってた」

 覚えている。

 結婚式当日のことも。大好きな八代のおねーちゃんがキレイで幸せそうで。どこか遠くに行ってしまいそうな気がして大泣きしていたら縁に森の中の社へと連れ出されて。

「わたしがいるからだいじょうぶだよくーちゃん」

 そう言って笑ったこいつのことも。八代のおねーちゃんの結婚式の隣のページに二人で「ゆかりとくーちゃんのけっこんしき」とタイトルをつけた絵を描いたことも。結婚を約束したことも。神社から突然いなくなったことをものすごく怒られて拳骨をもらったことも。

 それは、僕らが初めて手を繋いで歩いた日のこと。

 それからずっと僕らは手を繋いで歩いて来た。

 シアワセ探しと称して二人で。見つからない何かを探して、ずっと。

 全部覚えている。忘れるはずがない。

 忘れられるはずがないのに。

 きっと僕は思い出さなくなる。縁と。この大切な幼馴染と離れてしまえば。きっと。

 記憶の中の縁の手はとても暖かかった。

「私とくーちゃんの一番最初の約束。私の宝物。くーちゃんにあげる」

 縁の強張って震える手から力が抜け、お絵かき帳が押し付けられるように渡された。

 僕は手にうまく力を入れられなかったからものすごく重いものを渡されたような気がしていた。

 実際にこれはきっと重いものだ。僕と縁にとって。

「私は忘れるから。くーちゃんは覚えてて」

「なんだよそれ。お互い忘れようってそういう話じゃないのかよ」

 いつものいたずらを思いついたときの笑顔は、涙で見れたものじゃなかったけど。

 僕は浅ましくも最後の最後まで幼馴染でいようとしていた。

「くーちゃんにはいっぱい泣かされたからね。最後くらいいじわるさせてよ」

 遠くで列車の動く音が聞こえてくる。

「くーちゃん、バイバイ」

 縁は一度も振り返らずに歩いて行った。






 僕は時間通りに発車した列車の中で、からっぽになった手を握り締めながら。ドアの窓を流れていく景色の中に。

 一人で帰り道を歩く縁の姿をずっと探している。

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