聞こえる近景、望む遠景
私、保坂歩美は二年前の春にここ明治音楽大学に入学した。
受験した理由は単純で、将来、大好きな音楽に携わる何らかの仕事がしたかったこと、そして通っていた高校からの指定校推薦の枠があったからだ。
まともに受験していたら合格は危うかったかもしれない。なにせ、私は特に幼少期から音楽教育を受けてきたわけではないのだ。入試試験の科目である聴音(※聴いた音を楽譜に起こす)や新曲視唱(※その場で渡された楽譜を歌う)を好成績で突破できる自信は、今でもない。
そんな私であるから、実技科目の授業についていくのは日々一杯一杯である。
それでも、座学でいくらでも巻き返せる和声法や楽曲分析の科目では努力が実を結び、上位の成績を維持できている。いや、他の科目で成績を残せないのなら、こういった科目で挽回しなければ私の立場がないのだ。
そうして今日も必死に思考を巡らしていると、白髪の教授がメガネの位置を直しながら私を覗き込む。
「さて、第十八変奏の主題となっているこのモチーフですが、これは脈絡無く出てきたわけではありません。あなたならどう分析しますか、歩美さん」
「はい。これは冒頭で提示される第一主題に対する鏡の主題かと思います。ちょうど上下に並べてみれば、音列の運びが逆行しているのが分かります」
「お見事です、さすが歩美さんですね」
さすが。
こんな言葉は大学に入るまでかけてもらったことはなかったし、今でも、こと実技科目にあってはほど遠い言葉だ。
音大に入ってから必死で勉強して、唯一自身の存在証明とできたのが音楽理論だ。
今日もなんとか勉強の成果を確かめられ胸を撫で下ろしていると、私の二の腕を柔らかな感触が小突く。
「やるじゃん。わたしはさっぱりだったよ。アナリーゼって、なんだか眠くなるし」
「音羽は感覚で演奏しすぎなのよ。いや、それがすごいんだけど」
後ろで一つに纏めた黒髪を揺らし、まぶしい笑顔を向ける。
こんな私と仲良くしてくれる数少ない友人、神野音羽。
同年代でトランペット奏者を志す学徒で彼女を知らない人はいないと言っても過言ではないほど、彼女が残してきた賞歴は華々しい。
正に私とは正反対と言っていい存在感を放つ彼女は、不思議と私を気にかけてくれた。
……いや、座学が苦手な彼女にとって、試験を突破するためのアドバイザーの存在を欲することは、然もありなん、か。
教授が私の回答を元に講義のまとめに入っていると、ちょうどチャイムの音が鳴る。
教授がテキストをたたみ、学生たちも各々席を立つ中、音羽は明るい瞳をより際立たせて私の支度が整うのを待つ。
「ね、歩美。学食に新しいメニューが増えたんだって。一緒にいこ」
「それを頼むかどうかはものと値段次第だけれど……いいよ、いこっか」
入学してから卑屈さに磨きがかかっていた私にとって、彼女の存在は救いになっていた。
大学三年目ともなると、実技試験で求められる楽曲の難易度も高くなる。
私が今度演奏する〝レジェンド〟は、使い慣れたB♭管からC管に持ち替えての演奏が必要となる。
トランペット奏者にとって演奏が難しい低音の弱奏や、半音階的な連符、そして山場のhighCが鬼門だ。
でも、これで根を上げていては同期の学生たちに笑われてしまう。
それこそ音羽が試験曲に選んだトマジのトランペット協奏曲なんて、うちの学生では演奏が可能な人も限られてくる。
それでも私にとってレジェンドは難曲なんだ。そう若干ふて腐れながらも、常のように私は大学の練習ボックスに籠もる。
才能が無いなら、せめて練習時間を稼いでごまかさないと。そんな風に……何かに追われるように懸命に毎日楽器を吹いているのに、近くのボックスからはいつも楽し気な音が跳ねる。
「音羽……また違う曲やってる」
聞こえてくるのは〝ナポリの主題による変奏曲〟か。大学の試験で吹くには相応しくないというか、超絶技巧的なそれは自己の演奏技術を誇示するパフォーマンス向けの曲だ。
こんな風に、音羽は試験で演奏する曲の練習はそこそこに、いつも新しい譜面を持ってきては演奏して遊んでいる。そして悔しいことに、その遊びですら私が一曲集中でさらっている試験曲の出来と比べて、遙かに高いクオリティを放っているのだ。
初めの頃は酷く落ち込んだものだけれど、さすがにもう慣れた……というよりは、諦めがついた。持って生まれた才能、そして積み重ねてきた時間が違うのだ。
昔、中学生からトランペットを初めてもプロになんかなれない、と言われたことがある。
後にそれはただの都市伝説に過ぎないことが分かったのだけれど、そういう言葉が存在するほどに、小さい頃から楽器に触れるということの意味は大きいのだ。
音感が育つと言うことももちろんだが、身体の成長途中で楽器演奏を続けることで、成長と共に演奏技術が上がっていくという話らしい。
私は中学に上がると同時に部活で吹奏楽を始めたが、最初の一年はピアノの演奏経験を買われてパーカッションパートで鍵盤楽器を担当していた。
後に人手不足により二年目からトランペットパートにコンバートされたんだけど……ただでさえ人よりスタートが遅かった私にとって、件の言説はあまりに残酷であった。
トランペット科の同期で、私より遅くトランペットを始めたものはいない。そして、私は彼らの中で最も演奏技術に劣っているという自覚があった。
……道を違えたのだろうか。
〝好き〟だけじゃやっていけない世界なんだろう。それでも、折れそうな心に鞭を打って譜面に向き合い続ける日々を続ける。
そんなある日、同期の一人が私が練習するボックスの扉を叩き、明るく言い放った。
「試験前にみんなで集まって予行練習しよう。今回はみんな難しい曲に挑戦するから、いい緊張対策になると思うんだ。学生協のホールは抑えてあるからさ」
誰とでも打ち解けられる性格の彼が去って行くのを見送り、私は嘆息する。
予行練習か。ともすれば本番の試験よりも観客が多いかも知れない。試験の時は、教授と余裕がある学生くらいしか客席にいないのだ。
醜態をさらすことにならないか、心配になる。それでも、予め場数を踏んでおくことは私にとってもメリットになるだろうと参加することに決め、伴奏者に向けてメッセージアプリで日程を送信した。
そうして迎えた当日、トランペット科の同期のほとんどがホールに集った。
発案者が簡単に纏めたワンペーパーのプログラムを手に取り、目を伏せる。
ゲディケ、ブラント、オネゲル、フランセ。どれも私が演奏する曲と比べると難易度が高い曲ばかりだ。
あみだくじで決めたという演奏順で予行練習は進む。皆が皆完璧な演奏をするわけではない。しかし、誰もが卓越した技術をたしかに発揮していた。
私の演奏順は六番目。その時はあっという間に訪れた。
ステージに上がり、チューニングをする。一礼した私に向けた拍手を贈るのは、みな優れたプレイヤーたち。
途端に緊張感が沸き上がる。
このままではまずいと、急ぎ伴奏者に目配せして演奏を始める。
一小節半の前奏の後、LowCをp――弱奏で奏でるべく息を通す。
――――音が出ない!
乾いた口腔が災いしてか、出だしの音からス力してしまった。慌てて次の日からリカバリーし始めるも、もう焦りは全身を支配していた。
そこからはあまり覚えていない。
連符はなんとか演奏できたと思う。ただ、聞かせどころのhighCは完全に外してしまった。
曲が終わり一礼すると、私は恥ずかしくなって急ぎホールを後にしてしまった。
情けなくて涙が出る。なんだか気まずくなってしまって、私はその後ホールに戻ることができなかった。
予行練習の次の日、私は大学の講義を丸々休んでしまった。
丸々と言ってもコマ数で言えば三コマ、サボりが常態化してる大学生にとってはなんてことない数字だろう。けれど、今まで余程のことがなければ休んだことが無かった私にとっては不良学生もいいところの一大事であった。
どうして今更あのくらいのことで落ち込んでしまったのかは分からない。たぶん、今まで蓄積した心の重みがたわんで、折れてしまったのだろう。
どうせ何かの中心にはなれないその他大勢の一人、私なんかを気にかける人はいないだろう。
……そう思って一人暮らしの部屋でふさぎ込んでいたら、講義が全て終わったであろう時間にドアのチャイムが鳴らされた。インターホンのモニターを見れば、音羽だった。
のっそりと玄関まで移動し扉を開けると、音羽はいつもの賑やかさを潜めて眉を八の字にしていた。
「今日、講義全部休んじゃってたけど、大丈夫? 体調良くない?」
「えっと、うん、大丈夫。休んだら良くなったかな」
嘘だ。まだ私の胸は露がかっている。しかし、その嘘に音羽は心底嬉しそうな顔をする。
「そっか、良かった! じゃあ、また一緒に講義を受けられるね」
無垢な笑みに罪悪感を覚える。こんなに良くしてくれるのに、私は音羽のことも羨み嫉妬している、その罪悪感だ。
そんな私の心を知らずか、音羽は「そうそう」と肩下げ鞄から一枚の紙を取り出す。
「大学の掲示板に掲示されてたの。地元中学生向けの講習会の講師募集してるって! 現役音大生のわたしたちなら募集用件にも当てはまってるし、わたし応募しようと思うんだけど、歩美も一緒にやろ!」
「え、講師だなんて私じゃ……」
音羽が私よりも低い位置にある瞳をぐいっと寄せてくる。その期待の眼差しには答えたい。しかし私程度の実力の講師だなんて、きっと中学生たちも望んでは――――。
「歩美、中学生たちが望んでるのは超一流のプロ奏者じゃないよ。視線の位置が近いわたしたち学生なの」
驚いた。まるで胸の内を見通されているかのような言葉に、思わず身が固まる。
幾秒かの沈黙。それを音羽の小さな笑みが破り、最後に一言だけ残す。
「興味があったら書かれてる連絡先に電話してみて! じゃ、またね!」
くるりと踵を返して去る音羽の後ろ姿を、玄関から身を乗り出して見送る。
中学生たちが望んでいるもの。それこそ、ほとんどの中学生は進学し部活動に入って初めて楽器を触ったはずだ。
それなら、私でも役割を果たせるかもしれない。
未だ躊躇いのある身体を深呼吸で律し、私は募集チラシに記載された連絡先を入力し発信した。
講習会は、土曜日の中学校を貸し切って実施される。
会場に着いてみれば非常に立派な中学校で、大きな体育館の他に中体育館、道場などと広い施設が多く、教室数も多いことから、各楽器ごと、更には10人ずつ程度に分けて行うようだ。
集まったトランペットパートの中学生は40人程度。講師四人でそれぞれの教室に分かれて講習を行う。
内容については統一されておらず、使用するテキスト含め講師に一任されている。ただ、対象となる生徒は楽器を始めて一、二年程度の初心者だというから、基礎的な内容でお願いしますとのことであった。
この日のために、よく考えて準備してきた。
初心者の子たちが知りたい情報は何か、何に躓きやすいか、どんな練習なら取り組みやすいか。
音楽大学で勉強するまでに至った自分も通ってきた道だ、良く昔を思い出せばメニューを組み立てるのは決して難しいことではない。それどころか……。
「ずっと悩んできたから、そんなに昔のことじゃないのかも」
「ん? どうしたの歩美」
「いや、なんでもないよ」
ついぽつりと零してしまった独り言を一緒に来た音羽に拾われ、笑ってごまかす。
そう、常に誰かの背を追い続けてきた私にとって、どんなメソッドを使えばいいのか、どんな手順で練習すればいいのか、こんな時は何が効果があって何が無意味なのか、そういった事々については人一倍懸命に調べ実践してきたことだった。
それなら何も怖いことは無い、昔の自分を見るようなつもりで臨んでみよう。
そうして始まった講習会だったが、初心者相手のグループレッスンというのは想像していたよりも難しいものだった。
私たちが当たり前のように読んでいる楽譜も、階名のフリガナを振らなくては読めない子もいる。
音域の拡張がままならず、チューニングで用いるB♭の音ですら出すのがつらい子もいる。
気質も様々で、意欲的に臨んでる子もいれば、先生に言われて仕方が無く参加している子もいる。
そんな彼らを一纏めに指導するというのは、経験の浅い私にとって骨の折れる仕事だった。
でも、こんなことで諦めてなんかいられない。これでも色んな状況を想定して準備はしてきた。
楽譜作成ソフトで作ったオリジナルの楽譜を配って、私は努めて明るく振る舞いながら講習会を始めた。
「音を出す時はそんなにたくさん息を入れなくても大丈夫だよ」
一生懸命音を出さなくてはならないというイメージを払拭する。
「音階を覚えるのって大変だよね。でもとっても大切な練習だから、私の指を真似してみんなで吹いてみよっか」
視覚を交えながら、感覚を伝えていく。
「自転車ってみんな乗れるかな? 初めて乗った時は上手く漕げなかったよね。楽器も一緒で、繰り返し練習することで身体が覚えてくれるから、一緒に何回かやってみよう」
喩えを交えながら、分かりやすい講習を心がける。
「高い音はみんな悩むんだよね、私もいまだに悩んでるもん。高い音に挑戦するためのメソッドだけど――」
自分自身が当たった壁を、親身になって越えられる手伝いをする。
気がついてみれば、三時間の講習もあっという間に残り十五分となった。
今日一日の仕上げにと、私は用意していた楽譜を示す。
「最後に、みんなでアンサンブルしてみよう! 配った楽譜の最後のページに、二重奏の楽譜があるよね」
〝聖者の行進〟の旋律を元に、初心者でも吹きやすいように音域とハモりを考えて私が作った楽譜。
私自身、初心者の頃基礎練習に追われて音楽を楽しめなかった経験から、今目の前にいる若人たちには音楽の楽しさを少しでも感じて欲しかったのだ。
私がお手本を吹き、皆で真似をする。私がハモリを吹き、皆がメロディを。そして私と皆を入れ替えてもう一度。
最後に、生徒たちだけで二つに分かれてデュエットしてもらう。その出来映えは、これが今日の成果です、と聞かせても全く恥ずかしくない演奏だった。
「みんな、よくできました! どう? 音楽って楽しいなって少しでも思って貰えてたら私は嬉しいな」
「……楽しかったです、先生」
「初めてアンサンブルできました」
「トランペット、しばらくつまらない時間が続くんだと思ってました」
余り口数が多くなかった子たちが、口々に感想を述べる。
今日の講習会を通して、少しだけれど心を開いてくれたのかなと、嬉しくなる。
チャイムが鳴り、同時に講習会の終了が知らされる。生徒たちが楽器を片付けるのを見守る中、時折様子を見に来てくれていた、どこかの学校の顧問の先生が私の元にやってきた。
「本日はご指導ありがとうございました。私は管楽器の経験が無く、生徒たちにどう教えていいものかと日々悩んでいました。やっぱり歩美先生のように、確かな経験があって勉強を重ねている人に教わると、生徒たちも楽しそうですね」
「ありがとうございます。生徒たちがより音楽を楽しめるきっかけになれたとしたら、私も嬉しいです」
この身が先生と呼ばれる日が来ようなどとは、思ってもいなかった。どちらかと言えば、今までは常に誰かを師と仰ぎ、同級生からも教わる立場だったのだ。
なんだかむずがゆくなり、会釈すると私も自分の荷物をまとめて教室を出る。すると、ちょうど隣の教室からでてきた音羽とばったり会った。
「あ、歩美じゃん! 最後の聴いてたよ〜。わたしの教室は生徒たちだけでアンサンブルするなんてとこまではもっていけなかったや。すごいじゃん!」
「ううん、たまたまだよ。音羽の方が私なんかよりずっと上手なんだから、教室が逆だったら分からなかったよ」
そういうと、音羽はムッとして口を尖らせる。
「違うよ、歩美。歩美が一生懸命な努力の人だったから、どうやったら〝できない〟を〝できる〟にするのかが、わたしたちよりずっと分かってるんだよ。ほら、わたしは言っちゃえば天才タイプだから、なんとなくできちゃってたことは教えられないの」
「……そっか、そういう考え方もあるね」
なんだか少し靄が晴れた気がする。
人よりたくさん壁にぶつかって、悩んで、落ち込んで、時間をかけて。そんな私だからこそできることがあるだなんて、考えたことも無かった。
ずっと私の短所だと思ってたことが、こういう時は武器になるだなんて。そう思えば、少し気持ちが明るくなる。
私が目指すべき道は、まだ色んな方向に拓けているのかも知れない。
子供たちにレッスンする先生になるのもいい。
誰もが演奏しやすい楽譜を作編曲するのもいいかもしれない。
指揮法をもっと勉強して、子供たちを相手にした指揮者になるのもいいかもしれない。
一流のオーケストラや楽団に入ったり、スタジオミュージシャンになったり。そういったことだけがトランペット奏者としての生きる道ではないことに、今更ながら気づくことができた。
もう、劣等感に苛まれ、他者と自分を比べ続けるなんてことはしなくていいのかもしれない。
見える景色が一変する。キラキラとした音羽の瞳に視線を合わせる。
「そろそろ帰ろっか。そういえば駅前のカフェ、期間限定メニューがあるの、付き合ってよ」
「え、歩美から誘ってくれるなんて珍しいね。ふふ、甘いもの道中と洒落こみましょっか!」
憧れていた友人の煌めきに、自身の輝きを重ねる。
ようやく自らの明かりの灯し方を覚えた二十一の春、桜が散った後の葉桜が不思議と美しく見えた。