一夜の夢を護るために
「夏の夜の恋物語企画」参加作品。
企画者様へ
私は投稿のみですから無理せず、お身体を第一に。私も投稿後、返信を読むのが一月後と言う事が普通にありますので。
「すみません。すみません。本当に悪気は無かったのです」
「気にしないで。そんなに謝られたら逆にこっちが恐縮しちゃうじゃない」
「許してくれてありがとうございます」
俺が目の前の女性へ誠心誠意謝る理由は数分前に時間を巻き戻す必要がある。
……
………
……
予備校帰りの満員電車の中で俺は疲れ果てていた。すし詰めの車内で、様々な臭いが混じりあった空気は気持ち悪く、吊革すら掴めない。俺はバックアップの背負い紐を握り、肘を張り、せめて顔前に自分のスペースを確保する。
右肘が柔らかく気持ち良い何かに包まれた。
『やわらけぇぇ』
俺は何かに取り憑かれたように肘で初めての感触をむしゃぶった。そして我に返った俺は血の気が下がる思いで冒頭へ戻る。
「本当に気にしなくて良いからね」
そう言い残して彼女が降りようとする駅は俺の降りる駅と同じだった。ストーカーと思われるのは嫌だったけど、俺もこれ以上満員電車に乗っていたくなかった。彼女の後を人の流れに流されて駅のホームへ脱出した。人の流れから逃れホームの端へ座り込む俺に上から優しい声が掛けられた。
「お水飲む?」
「ありがとうございます。いただきます」
声の主は水のペットボトルを二本持った電車で出会ったお姉さんだった。一気に半分ほど飲み干してお礼を言う。
「ありがとうございます。助かりました。どうして助けてくれたのですか?」
「いつも仕事で同じような事しているからかしら。放って置けなかったの」
「もしかして看護師さんですか?」
「疲れた人を癒すところは、そんな感じかな」
若いけど心療内科の先生だろうか? これから夜勤かな? 仕事明けかな?
「君は学生?」
「そんな感じです」
実際は浪人生だけど恥ずかしくて本当の事を言えなかった。
「ここからでも見えるかな?」
「何が見えるのですか?」
俺にはビルが立ち並んでいるだけの景色しか見えない。差し出した水代も拒否された。
「内緒。君の調子が戻ったら、今度は私に付き合ってね。それがお水の代金よ」
こんなに素敵で綺麗なお姉さんがどうして俺なんかに付き添ってくれるのか。今までの人生で女の子達とあまり話してこなかった自分の人生を呪った。話題の一つも浮かばないまま、時間だけが過ぎて行く。そんな空気も気にせず、何も言わずお姉さんは俺に付き添ってくれた。そしてビルの谷間で光の華が咲く。遅れて聞こえる爆発音。そうか今夜は花火大会か。
「視界は狭いけど、そこは妥協ね。私と花火を見てくれるかしら?」
「よろこんで」
「お酒が無いのは残念だけど、今宵は私も学生に戻った気持ちで花火デートね」
「デートですか……俺なんかで良いのですか?」
「あら。私から誘っているのだけど?」
「俺なんかで良ければ、改めてよろしくお願いします」
「こちらこそ」
俺は立ち上がりお姉さんの横に並んで光の華を共に見る。お姉さんが自然と俺の腕を取り、俺の肩へ自分の頭を乗せる。俺人生最高の時間。俺の五感は視覚より触覚と臭覚が敏感になった。細身の体は仕事柄か良く鍛えられて硬さを感じた分、わずかに触れる胸の膨らみが柔らかさを増して俺の腕を刺激する。そしていつもは気持ち悪さしか感じない香水の香りが風に乗って鼻腔をくすぐる度に蕩ける思いだ。言葉を交わす事なく時が過ぎ、最後に大きな光の華が咲く。
「終わっちゃったね。今夜はありがとう。二人で見られて良かったわ」
「俺こそ。一生の思い出です」
「大げさね」
改札までは腕を組んで歩いた。だが出口から先、二人の行き先は反対方向だった。俺は勇気を振り絞りお姉さんへたずねる。
「また逢えますか?」
「縁があったらね。またね。今夜の事は私も忘れないわ。それは絶対よ」
「俺もです」
最後は握手で二人は別れた。夏の夜の夢。次にお姉さんと逢えた時、自分に恥ずかしくない自分になる。そう俺は決意し「まずは大学受験」と帰宅したら今日の復習をする事を誓う。
俺は夏の夜、名前も知らない女性へ、忘れられぬ恋をした。
「工事して良かったと心底思たわ」
「大遅刻の罰金を払った第一声がそれ? 姉さん。何か良い事あったの?」
「内緒。誰にも言えない恋の話」
「余計気になるじゃない。分かった。今夜の花火大会でデートしたんでしょ! 誰々?」
「あなたの知らない子よ。それ以上は絶対秘密」
「年下かぁ。良いなぁ。あたしも工事しようかな」
「工事後は良い事も悪い事も沢山あるけど、私は今夜初めて本物の女の幸せを感じたと思う」
「良いなぁ」
「やるなら大変な事の方が多いからしっかりと覚悟しなさい」
支度部屋でピーチク鳴いてる私達の元へママがやってきた。
「ほらほら。遅刻した分、しっかり稼ぎなさい。お客様が御指名よ」
「ママ。話があるの」
「何? 急ぎじゃないなら店を閉めてから聞くわ」
「それで間に合うわ。さぁ今夜も稼ぐわよぉ〜」
私は今日を最後にこの街を離れると決めた。彼の思い出を嘘にしないために。彼と二度と逢わないために。大切な一夜の夢を護るために。