第246話「決裂」
夏の墓所は、昼間に溜め込んだ熱をまだ吐き出している。
蝉の声が耳を圧迫するほどに響き、苔むした墓石は湿り気を帯びて重く沈黙していた。
未来姉さんは、墓前に立ったままオレを見つめる。
『……蒼空、人類に生じたバグは、私の想定を遥かに上回り、既に取り返しがつかないレベルに達しています。このままでは、この世界に広がって人が住む場所がなくなるほどに』
その声は涼やかで、けれど胸の奥を突き刺すほど冷たい。
──〈アストラル・プログラム〉。
善行を積んだ者だけを次の世界に送り、そうでない者はリセットされる。
未来は言った。リセットとは、消滅ではなく再構築だと。
だが、それは「もう一度同じ自分になれる」という意味ではなかった。
記憶も、心も、歩んできた痛みも喜びも──すべて失われてしまう。
再構築された存在は、同じ人物に見えても、完全に「別の誰か」として立ち上がるのだ。
つまり、それまでの人生も、魂の色も、すべてが無に帰す。
墓所で聞かされるには、あまりに残酷で、とても恐ろしい話だった。
『……蒼空なら、私の考えを理解してくれますよね?』
未来姉さんの、神となった証である金色の瞳が、まっすぐオレを射抜く。
逃げ場なんてない。いや、ここは絶対に逃げてはいけない場面だ。
オレは、そっと目を閉じた。
理解できないわけじゃない。
確かに未来姉さんの言う通り、世界は悪意に蝕まれている。匿名に隠れて人を傷つける者が、今さら改心する可能性なんてほとんどないと思う。
でも、とオレは首を横に振った。
墓所の静寂が、蝉の鳴き声さえ奪い去ったように思えた。
「未来姉さん……それは間違ってるよ」
墓所の静けさに、オレの声が小さく響く。
それまでうるさかった蝉の鳴き声さえ、一瞬だけ、遠のいたように思えた。
未来姉さんは、ほんの一瞬まばたきをして、オレを見つめ返す。
『……どうして?』
その問いは責めるようでも、嘆くようでもなく、ただ純粋な疑問として投げかけられていた。
オレは唇を噛んで、石の冷たさを視界の隅で感じながら言葉を探す。
けれど、胸の奥にある答えはあまりにもはっきりしていた。
「……だって、それじゃあ、もう別人になっちゃうじゃないか。生きてきた証ごと消すなんて……それは殺すのと同じだ」
そう言葉を吐き出したとき、胸の奥にもうひとつの痛みが蘇った。
気づけば、声がさらに震えていた。
「それに……未来姉さんが作った〈アストラル・オンライン〉のせいで……クロは」
唇が震え、喉が熱くなる。
思い出すのは、泣き腫らしたクロの顔。
彼女は〈アストラル・オンライン〉ひよって大切な両親と強引に引き裂かれ、ひとりで泣いていた。
すべてを打ち明けた数ヶ月前に、オレの胸の中で、声を殺すようにして。
「……クロは、大好きな両親と離れ離れになって、涙を流してた。未来姉さんの計画のせいで……。そんなもの、俺は絶対に許せないし許容できない」
未来姉さんの差し伸べた手を、オレは見つめる。けれど、その手を取ることはできなかった。
『人類に生じたバグは、私の想定を遥かに上回るものでした。これを放置したら、この世界がダメになるんですよ?』
「それでも、オレは未来姉さんの手は取れない」
静かに、はっきりと首を横に振った。
墓所の空気が一層重くなる。未来姉さんの瞳が、わずかに揺れた。
『……そうですよね。蒼空なら、そう言うと思いました……』
その声音にはショックが混じっていた。けれど同時に、どこか納得している響きがあった。まるで、心の奥で最初から答えを知っていたかのように。
オレはその顔をまっすぐに見返し、言葉を叩きつけた。
「未来姉さん。今すぐ計画を中止してくれ。クロみたいに、これ以上……この世界に住む人たちを傷つけないでほしい」
墓所の蝉の声が、張り詰めた空気をさらに強調するように鳴き続けている。
夏の陽炎のように揺らめく空気の中、俺の声だけが冷たく、そして揺るぎなく響いていた。
未来姉さんはオレを見つめ、それから──すっと瞳を伏せた。
あの優しくて聡明だった眼差しに、もう迷いはなかった。
『……残念ですが、勧誘はここまでですね』
その言葉を口にすると、未来姉さんは小さく息を吐いた。まるで諦めたように、そして覚悟を決めたように。
『蒼空。すでに〈アストラル・プログラム〉による世界の再構築は始まっています。私にも、止めることはできません』
「な……っ!」
胸の奥が凍りつく。
未来姉さんでさえ、止められない?
けれど、未来姉さんは続けた。
『ただ一つ……人類に残されたチャンスがあります。〈アストラル・プログラム〉の核は、私です。もし蒼空が私を倒すことができれば、プログラムは完全に停止します』
冷たい夏風が吹き抜けた。蝉の鳴き声さえ一瞬遠のいた気がした。
『世界を救いたいのなら……私を殺して下さい』
胸の奥が激しく揺さぶられる。
──姉を殺す? 自分の手で?
そんなこと、できるわけがない。けれど、このままだと世界は……クロも、みんなも……!
「……っ」
言葉にならず、喉が焼けるように熱い。
もうここに用はないと判断したのだろう。未来姉さんは背を向け、静かに歩き出した。
夏の墓所の石畳を、汚れのない白い髪が揺れながら離れていく。
「ま、待ってくれ! 未来姉さん!」
覚悟は決まっていない。
しかし、焦燥にかられたオレは、思わずその背中を追いかけようと足を踏み出した瞬間──
空間が裂けるように光り、目の前に以前見た一人の騎士が現れた。
分厚い鎧、巨大な盾。まるでオレを通さぬ壁のように立ちはだかる。
「邪魔だ、そこを退けっ!」
咄嗟にスキル〈ソニック・ソード〉を発動。急加速したオレは、そこから続けて〈ストライク・ソード〉を発動し、エフェクトを纏った拳を叩き込む。
だが──
ドゴォンッ!
まるで爆発したかのような衝撃音。
時速100キロを超えるオレの一撃は、寸分違わず盾で受け止められた。
しかも、騎士は微動だにしない。
次の瞬間、凄まじい反動でオレの身体は宙を舞い、地面を転がった。
「ぐっ……は、ぁ……!」
肺の奥に痛みが走り、土の匂いが鼻を突く。
顔を上げたオレは、頭の中が真っ白になった。今のは過去に何度も見て、受けたことのある見覚えのある防御技。
息が、止まりそうになった。
「ウソだろ……今の技は、まさか……」
ゆっくりと、騎士が兜を外した。
重たい鉄の覆いが上げられ、太陽に照らされた素顔が現れる。
そこにいたのは──親友のロウだった。