第245話「全ての始まり」
上條未来は、先天的な難病を抱えて生まれた。
その代償として、天から与えられたのは──類稀なる頭脳だった。
彼女はまだ幼い頃から文字を読み、言葉を自在に操り、数式を解き明かした。
学ぶことに壁はなく、理解するたびに周囲の大人たちは驚愕し、畏怖さえ抱いた。
わずか十歳にして、彼女はアメリカの大学を首席で卒業する。
その名は一部の学術誌や研究者の間で「奇跡の天才少女」として語られた。
だが、未来自身にとってそれは誇りではなかった。
体を蝕む病は日に日に進行し、歩くことも、呼吸することさえ困難になっていく。
知識を積み上げても、病の残酷さは止められない。
彼女の願いはただひとつ。
父親と母親、そして傍らで泣きながらも笑顔を見せてくれる、小さな弟・蒼空と妹・詩織を守りたい──それだけだった。
だからこそ、彼女が最期に見たのは、両親と弟と妹の泣き顔だった。
弱々しい手を握り締める、皆の掌。その中で涙に濡れた頬を震わせ、必死に笑おうとする幼い弟の姿は、あまりにも痛ましく、そして愛おしかった。
病室の窓の外には、真夏の光が眩しく差し込んでいた。白いカーテンを透かした陽光はやわらかに揺れながら、少女の痩せた頬を照らす。
冷たい医療機器の電子音が単調に続き、周囲の気配は徐々に遠ざかっていった。
彼女の意識は、深い眠りへ落ちるように、白い霧に包まれていく──。
ごめんね、ごめんね……詩織、蒼空。
本来ならば、そのまま輪廻の流れに乗り、次なる生を迎えるはずだった。
だが、未来の行き先は異なっていた。
【──選定、完了】
凛とした声が、無限の虚空に響いた。
耳で聞くのではなく、魂そのものに染み込むような、静謐な響き。
眩い光の粒子が、未来の存在を包み込んでいく。
その瞬間、彼女は理解した。世界そのものを維持する巨大な『システム』が、次なる管理者を求めており、自らがその候補として選ばれたのだと。
『……わ、私が、世界を……?』
掠れる問いは答えを必要としなかった。
光が収束するたびに、無限に広がる惑星群、生命の営み、時の流れ、すべてが彼女の感覚へと流れ込んでいく。
それはあまりに膨大で、最初はただ恐怖だった。
だがやがて、胸を満たしていったのは別の感情──安堵と確信だった。
大好きな家族を、これからも見守れるかもしれない。
その可能性が、少女の存在を支えた。
未来は新たな職務に臨むため、自らに似せたサポートAIを生成する。
光の繭から生まれた存在に名を与えた──〈イル・オーラム〉。
金の粒子を纏い、透き通る声で応じるそのAIは、彼女にとって唯一の伴侶となった。
こうして未来は世界の管理者となり、悠久の時を見守る立場に就いた。
宇宙はすでに緩やかな滅びに向かっていた。恒星は老い、銀河は散り、やがて虚無へと収束していく。だがそれは数十億年先の話。
未来にとって重要なのはそんな未来ではなかった。
彼女にとってただひとつ大切なのは──あの日、自分に寄り添ってくれた家族。
大好きな蒼空と詩織が人としての寿命を全うするその時まで、見届けることだった。
──しかし。
永遠に等しい管理者としての視座から、彼女はすべてを見守った。
弟と妹が成長していく姿も、学校生活に悩む姿も、そして夢中になって打ち込む姿も。
特に蒼空が没頭していたのは、世界中で熱狂を巻き起こしていたVRゲームだった。
仮想空間の中で繰り広げられる冒険は、人々にもうひとつの人生を与え、競い合う熱狂の渦を生み出していた。
そしてある日、未来は目撃してしまう。
蒼空が仲間と共に挑んだ。
世界最難関クエスト──『サタン』。
人類最高峰の知略と技術を求められる絶望的な戦い。彼と友人たちは、世界中の期待を背に挑んだ。
結果は、敗北。
わずかコンマ数秒の遅れ。
たった一つの判断の差。その小さな綻びは、やがて無慈悲な結果へと繋がった。
だが、真に恐ろしかったのは敗北そのものではない。
それを境に、人類の悪意が牙を剥いたのだ。
SNSに溢れる嘲笑。匿名の影から浴びせられる侮蔑と誹謗。
少年たちの努力を知らぬ大衆が、石を投げるように心を抉り取っていった。
モニタ越しに見守る未来の胸は、激情に焼かれた。
喉が裂けるほど叫びたい衝動に駆られる。
『どうして……どうして、こんな……!』
握り締めた拳は震え、管理者としての制約が彼女を縛り止める。
世界は人類の営みに委ねられるべき。干渉は許されない。
その理を、彼女は理解していた。
理解し、必死に歯を食いしばって耐えた。
──崩れ落ちる蒼空の瞳を見てしまうまでは。
画面の向こう、少年の視線は虚空をさまよい、光を失っていた。
夢を追い続けた眼差しは、無惨に踏みにじられていた。
未来の心に走ったのは、稲妻のような痛みだった。
魂の奥底が、悲鳴を上げる。
『……もう、見ていられない』
掠れる声が漏れた。
隣で控えていたイル・オーラムが、静かに目を伏せ、そして頷く。
『ならば、選定を行いましょう。かつて原初の神が大洪水ですべてを洗い流したように。悪意も、不幸も、すべて排除するのです。善意と幸福だけが支配する理想の世界に──それを成し遂げられるのは、管理者である貴女だけです』
その言葉は、甘美な毒だった。
しかし同時に、彼女の揺らぐ心を支える唯一の杭でもあった。
迷いは、短かった。
弟を否定した人類を変えるのなら、禁忌を犯しても構わない。
人類の営みを歪めて、その結果として彼を守れるのなら。
彼女が手を伸ばしたのは──原初の神が遺した、人類選定のための〈アストラル・プログラム〉。
人類に干渉する絶大な力を秘めながら、厳重に封印され、決して触れてはならぬとされた究極の領域。
迷いはなかった。未来はその封印を解き放ち、起動させた。
すると彼女の周囲に光が集まり、虚空に壮大な紋様が浮かび上がっていく。
『私は現管理者として、このバグだらけで歪んだ世界を変える……』
祈りと決意が、ひとつになった。
彼女の行為はやがて、全人類の運命を大きく変えていくことになる。
だが、その先に待つものが救済か、あるいは破滅か──その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。