第173話「雨と不幸な銀髪」
雨というのは実に面倒なモノだ。
少し風が強いだけで下半身のズボンは塗れるし、当然ながら靴の中はお察しレベルの濡れっぷり。
歩いていると水を含んだ独特の感触が足裏に残り、実に気持ち悪い。
現在の降雨の強さは、見たところ中くらいだろうか。
日常生活としては面倒というくらいで、まだ外出するのが困難になるレベルではない。
傘をさして黎乃と二人で歩く蒼空は、ここ一週間近くお日様を隠している暗い雨雲を見上げながら、深いため息を吐いた。
「蒼空、今日は元気ない?」
その様子を見て、黎乃が心配して声をかけてくる。
オレは首を横に振って否定すると、最近はすっかり慣れた腕組みして歩く彼女に対して、微笑を浮かべた。
「いや、この雨も今までと同じように、レイドボスを倒さないと消えないのかなーと思ってさ」
「前回もレイドボスを倒したらお花とマグマは消えたから、今回もそうじゃないの?」
「まぁ、そうなんだけど。今更ながらレイドボスを倒したら消えるって不思議だよな」
「それを言い出すと、そもそも〈アストラルオンライン〉が現実に影響を与えるのが不思議だと思うよ」
実に正論である、と蒼空は思った。
オレ達は当たり前のように受け入れているけど、ゲームが現実に影響を与えるなんて事は普通に考えてありえない事だ。
自分の呪いによる性転換と容姿の変化。
ベータプレイヤーがリアルの身体ごと取り込まれる事態。
そしてレイドボスによって引き起こされる異常現象。
後は忘れられがちだが、リアルに出現して世界中の人々からその存在を〈神〉だと認められている、不思議な力を持つ自称神様とその配下の白い少女達。
これら4件の普通では有り得ない事が起きたことによって、蒼空達は現状〈アストラルオンライン〉というゲームが世界中で問題を引き起こしている全ての“原因”だと認識している。
根拠は何かと問われたら、これら全て──少なくとも神の件を除いた三つに〈アストラルオンライン〉が関与しているから。
蒼空は歩きながら苦笑した。
「ほんと、まさか夏休みに入る前は、こんな身体になるなんて思いもしなかったな」
「そうだね……わたしもまさかこんな事になるなんて、思わなかった……」
「……ごめん。黎乃が一番つらいよな」
「ううん、気にしないで。そのおかげで蒼空に出会えたんだから、悪いことばかりじゃないよ」
母に会えたとはいえ、現状で言うのならば何も変わらない。
胸の中には少なくない不安があるというのに、天然の碧い瞳を細めて少女は精一杯の笑顔を浮かべて見せる。
その笑顔を見て蒼空は、天使みたいな可愛さだな、という感想を胸に抱く。
口にしないのは、単純に恥ずかしいからだ。
でもこのまま何も言わないのはハトコの兄として、流石にデリカシーに欠けると思うので蒼空は一言だけ思いを告げた。
「大丈夫だ、黎乃。オレが全部なんとかしてやるから、安心して任せてくれ」
「……ありがとう、蒼空」
黎乃は笑顔を浮かべて、礼を言う。
そして彼女は、何かを決意したような顔をすると、一つだけ蒼空に尋ねた。
「もしもだけど、全部解決してパパとママが戻ってきて、蒼空も男の子に戻ったらわたし達どうなるのかな……」
「え、それは」
思いもよらない一言に、蒼空は思考が停止して足を止めてしまう。
とりあえずオレの事は一旦置いて冷静に考えるのならば、黎乃の両親が戻って来たら彼女は元住んでいたアメリカに帰り、今の生活が終わってしまう可能性は高い。
元の形に戻るのだから、それが当たり前の事であり、オレがどうこう言える話ではないのだが……。
どうしてだろう。
何故か彼女がいなくなる事を考えたら、胸が少しだけ締め付けられるような“痛み”を感じた。
これは今まで感じたことがない感覚だ。
イリヤの時は弟子を守れなかった自責の念に苛まれたが、これはそれとは全く違う気がする。
足を止めて呆然となる蒼空。
雨が傘を強く打つ音が、とても大きく耳に届く。
しばらくそうしていると、黎乃が首を傾げた。
「蒼空、大丈夫?」
「あ、いや、なんでもない。ちょっとそれは考えた事なかったから分からないや……」
「ご、ごめんね、変な事を聞いて」
「ううん、全然変なことじゃないから気にしないで──ぬわぁ!」
「蒼空!?」
動揺しすぎて最悪なことに足を滑らせた蒼空は、その場で派手にすっ転ぶ。
とっさに黎乃の腕を外して、彼女を巻き込まなかったことだけは自分を褒めたい。
立ち上がると、シャツからズボンまでほとんどびしょ濡れだった。
これは後でカバンに入れている予備の体操服に、着替えなければ。
このままでは風邪をひいてしまうので、話を中断させると蒼空と黎乃は走って学校に向かう事にした。
◆ ◆ ◆
本日の授業の合間にある休憩時間は、沢山の他のクラスの人達が蒼空のいる教室の前に集まって大変賑やかだった。
何故ならば銀髪碧眼の美少女が、二人もこの場に降臨しているからだ。
「すっごい注目されてるな」
「いやぁ、これは注目されない方が無理だと思いますよ……」
オレに聞こえないように気を使って小声で会話をしているのは、いざという時の為に近くに立っているイケメンコンビの真司と志郎。
二人の視線の先には、本来黒髪の冴えない日本男児が座っている場所に、神里高等学校の女子制服──セーラー服型のワンピースを身に纏う銀髪碧眼の美少女、上条蒼空がいた。
どうやら今までは男子の制服を着ることで、綺麗な少年という誤った認識を持たれていたらしい。
しかし、この姿になる事で改めて美少女だと広まったようで、黎乃と並び立つその姿は正に双子の姉妹。
今まで感じたことがない他クラスの男女からの好意的な眼差しに、胸焼けして大変に気持ち悪い。
それと下半身がスカートというのは非常に頼りなくて、女子はよくこんなの履いて平然と歩いているなと思った。
慣れない視線と服装にげんなりして机に突っ伏していると、眦を吊り上げた委員長が鬼のような迫力で外にいる他のクラスの学生達を蹴散らした。
「蒼空、かわいいね」
「ドウモアリガトウゴザイマス……」
黎乃の精一杯の励ましに機械的な返事を返しながら、蒼空は本日二度目の深い溜め息を吐いた。
なんであんなにも嫌がっていた女子の制服を、こうやって着ているのか。
その理由は雨で濡れた時用に、予備の体操服をカバンに入れ忘れていた事と、まさかの学校側に予備の男子制服や体操服が丁度なかった。
オマケに女子の制服ならあるという、恐ろしいまでの不運が重なったからである。
不幸中の幸いなのは、ボクサーパンツだけはちゃんとカバンに入れていた事か。
なんでパンツを入れて体操服を入れてないんだよオレ、と自分にツッコミを入れる蒼空。
視線の先では、委員長に手紙を銀髪姉妹に渡してほしいと頼んだ男子生徒が、般若と化した彼女の気迫に退散させられていた。
ちなみにこの姿を見たオレのクラスメート達の、大多数の第一声がこれだ。
『天使か!?』
あー、うん。
確かに黎乃に対してオレが常日頃思っている事なのだけど、改めて自分が言われると心に来るものがある。
身体は銀髪美少女でも心は男子高校生の上條蒼空。
面と向かって天使と言われるのは辛いです。
「ま、まぁ、そんなに落ち込むなよ」
「ほら、アップデートの内容が今公開されましたよ。これでも見て元気を出してください」
朝からずっと机に突っ伏している蒼空を励ますために、親友の二人がスマートフォンに表示した〈アストラルオンライン〉の今回のアップデート情報を見せてくる。
どうやら今回も、準備だけはされている冒険者ギルドの実装はされないみたいだが……ッ!?
手にとって内容に目を通した蒼空は、思わずガタッと椅子から立ち上がった。
何故ならば、そこにはこう書かれていたから。
「スキルユナイテッド……所持しているスキルを合体させて、上位のスキルに変化させられる機能だと!?」
その代わりに一度使用すると、選択したスキルはクールタイムが終わるまで使用不可になるらしいが、これは実に面白そうなシステムだ。
「よっしゃ! 今日は学食で飯食ったら即家に帰るぞ!」
あっという間に元気を取り戻した蒼空の様子に、真司と志郎はくすりと笑った。