第一話 エザキ・ハルコ
私は江崎春子、サガミノクニ中央第二中学校の三年生だ。
ここは西暦二一〇四年、『サガミノクニ』と呼ばれる東アジアの小国のひとつ。
小国と言っても、既にこの世界には大国と呼べる国家は存在しない。
「・・・であるからして、この第三次世界大戦の教訓から国は小国であるべきとの倫理が国連憲章より出され、かつての主だった大国はすべて解体され、等価な経済圏単位の元で分割されるようになった。我々も日本国というルーツを持つが、大戦の反省からこの誇りを捨て、国連の憲章に倣い、現在の『サガミノクニ』がある・・・はい、ここはテストに出るからな」
政治・経済の授業で、先生がテストのポイントを説明する風景は、この国が前身である時代から百年経っても変わらないと父が言っていたのを思い出す私。
本日の授業のキーポイントをノートに整理する。
ノートと言っても紙に書く時代は既に過去のものであり、今は電子タブレットに要点を入力する方式が主流だ。
タッチペンで素早く教科書のデータをハイライトにマーキングする。
要点を素早く効率よくまとめる能力は、私の父と母のお陰でもある。
私の父と母はこの国や周辺国からも定評のある有名な国立素粒子研究所の研究職員であり、頭脳が明晰なのは私にもしっかりと遺伝していた。
「・・・という訳だ。おお、もう鐘が鳴るな。本日の授業はここまでとする」
先生より授業終了が告げられ、本日予定されていた小間の授業はこれですべて終わりを迎えた。
「はぁー、やっと終わったよ。ハル、一緒に帰ろう」
私の隣で果敢にタブレットと格闘していた女子は、そんな事を言い精一杯背伸びをした。
「そうね、アケミ。今日はクラブも無いし、一緒に帰ろうか」
彼女の名前は佐藤明美。
私の小学校からの友達だ。
そして、私の事を『ハル』というニックネームで呼んでくれる親友でもある。
「じゃあさあ。駅近くのお店に寄って行こうよ。今日、新しいアイスの店がオープンしたってさっき噂に聞いたわ」
話に割り込んできた活発な女子は古田好子。
彼女も小学校からの親友で、私達三人は仲良しグループだった。
三人は世間話をしながら中学校を後にして、好子の先導で噂の店に寄る。
帰宅中に寄り道なんて、一時代前ならば不良の始まりと言われた事もあったようだが、今はその程度の事で咎める人は誰も居ない。
GPSと街中に張り巡らさせた監視カメラの普及で、犯罪は驚くほど少なくなり、治安のよい社会になった。
先の世界大戦で人心が荒廃していたのも、もう五十年前の話であり、現在のこの世の人々は平和を謳歌していたのだ。
新しくオープンした店は人気があり、店内は混雑していたが、それでも何とか三人掛けの席を確保し、私達三人はいつものように他愛もない話に花を咲かせる。
「でさぁ、今日の体育の時間、隼人の奴、ずっとハルの事を見ていたんだよ」
「ええー!あのお調子者め。遂にその食指をハルにまで伸ばしてきたか、この女ったらしがぁ!」
明美と好子が今も話題にしている人物とは長浜隼人というクラスメイト。
誰とでも気さくに喋れる隼人は、クラスでは人気のある存在だったが、お調子者でもある彼の事を明美と好子はあまり好きになれないらしい。
「隼人ったら、こそこそとハルの胸とかお尻をジロジロと見ているのよ。本人は他人に気付かれないようにしていたみたいだったけど、あんなにあからさまにジロジロと見ていたら、誰だって解るっつうーの」
「ええー! やだぁ! 変態~っ!」
「ハルは将来有望な身体なんだから、ジロジロと見られるのはしょうがないわよ。諦めなさーい」
「私、そんなんじゃない」
「そうよねぇ~ だって、ハルは、トシ君ひとすじだものねぇー。はい、隼人、残念でしたぁー」
「いやーん。私もトシ君みたいになりたーい」
そう言い隣の明美は私の身体に抱きついて来た。
彼女は膨らみ始めた私の胸に自分の顔を埋める。
明美のこうしたじゃれ合いはいつもの事だ。
「やめてよ、明美。それに私とトシ君はそんな関係じゃないんだから」
私は迫ってきた明美を振り払い、自分とトシと呼ばれる男子生徒の関係を否定する。
ここで話題に上がったトシ君とは斎藤俊雄と言う名前の男子の事であり、違うクラスの三年生だ。
この中学校生活三年の間、彼とは同じクラスになった事は一度たりとも無かったけれど、それでも他の男子よりもトシ君と一緒にいた時間は遥かに長い。
何故なら、彼は私が所属している科学クラブの副部長であり、私が部長だったりするからだ。
この『科学クラブ』というものは、今よりも百年以上前から既に存在していたらしいが、現在のそれとは様子がかなり異なるとお母さんが言っていた。
聞くところによると、昔は学内でも不人気なクラブで、所属している生徒も少なく、活動も小規模で、何を目的にしているのかハッキリとしなかったり、学内の授業の延長だったりしたようだ。
現在、そんな事は無く、科学技術を他校と激しく競い合う、半分文科系、半分体育会系のような活発なクラブである。
コンピューター技術の発達により、人間ひとりでできる事が飛躍的に向上したこの時代だからこそ、その技術を競い合う事に多くの意味があるのだと思う。
去年、私達の中学校の科学クラブは東アジア地域の情報戦大会で優勝するという大金星をあげる事もできていた。
それもトシ君の活躍あっての事だと私は思っている。
トシ君が得意としているのはソフトウエアの技術であり、彼の考案したロジックは既に中学生というレベルを超えていると思う。
私も得意な方だけど、彼に勝てる気は全くしない。
それ以外にもトシ君は仲間をまとめたり、困っている人を密かに助けたりと、ヒーローのような男子だ。
これを自慢する事もなく、クールに熟す彼。
私と違いトシ君は完璧な人間だと思う。
そんな彼に私が憧れを抱いているのは本当の話だけど、これが恋心では無いと自分では思っている。
しかし、周りからはそう見えないようで、トシ君と親しげに話す私の姿を他の友達から見られると、「公認カップルね」と揶揄われるのだ。
そして、お約束のように否定する私だが・・・まあ、言われて悪い気はなったりするのも事実。
こうして、明美達といつものようにじゃれていると、呼び出しのベルが鳴る。
腕に付ける『ハンズスマートXA88』と呼ばれる端末機器を確認すると、母からの呼び出しだった。
「あ、ちょっと待って。お母さんからだ」
私は友達に断りを入れ、母からの連絡に応答した。
「もしもし、お母さん?何・・・うん、今は駅の近く・・・え! そうなの?・・・わかった。すぐ行くよ」
母から近くで買い物しているから、荷物を持つのを手伝って欲しいという願いだった。
GPSの搭載されたハンズスマートにより互いの位置はすぐに把握できる。
戦前ならばプライバシーとかで問題になったらしいが、この時代にそんなものは非合理的なのだ。
この時代の世論では、自分の子供の行動を隠す方が不健全だという意見が支配的だったし、プライバシーに関する法律も前時代より整っている。
ハンズスマートに投影されたホログラム姿の母に、直ぐに向かう事を伝えて、私は電話を切った。
「明美、好子。ごめん! お母さんから呼び出しがかかった」
「いいよ、ハル、明日の準備でしょ。私達の事は気にしないでいいからさ」
「そうそう。明日は私達も遊びに行くし」
突然の私の退席に、快く送り出してくれる親友の二人。
私達、江崎家にとって明日の土曜日に重要なイベントがあるのは、毎年の恒例行事となっているので、彼女達も慣れたのだろう。
明日は年に一度の国立素粒子研究所の開放祭があるのだ。
国立研究所は国の法律で『一年に一回、近隣の住民を招いて開放祭をやりなさい』と決まっているらしい。
何故、そんな面倒な事をするのかと言うと、国営の機関というは、とどのつまり税金で運営を賄っている。
税金というものは国民が納めているため、年に一回は開放祭をやって、周辺住民に対して地域貢献活動を通して、税金が正しく使われている事をアピールするのが主目的らしい。
元職員の母が言っていたので、本当の事なのだろう。
このイベントに何故、私達が関係しているのかと言うと、それは私の父がこの研究所の現役の職員であり、それも、そこそこ有名な研究室の室長だったりするからだ。
お陰で、この時期は家族総出で準備に駆り出される。
昔、私が文句言ったら、「公務員なのだから我慢しなさい」って母に怒られた事もあったけど、今ではもう慣れた。
明美と好子も毎年遊びに来てくれる。
今日、話足らなかった事は明日にでも続ければいいや、と軽く考えて、私はふたりと別れ、母の待つデパートへ向かった。
母と合流し、いろんな買い物をして家に戻ってくる。
明日は研究所の敷地内でちょっとしたパーティになるため、いろいろと買い足しておく必要があったのだ。
国立素粒子研究所は来場者に対して簡単な軽食を提供するという習わしが恒例化していた。
普通の研究室は、外部にケータリングを発注して対応するところがほとんどだったりするけど、江崎研究室に限っては室長の家族がその任を担っている。
これは室長である父の方針・・・という訳ではなく、態々来てくれる人を歓待してあげたい、という母の拘りだった。
母は現在、専業主婦だけど、昔は父と同じ職場で働く元研究員だったりする。
そのため、この研究室には一入の思い入れがあるらしい。
そんな江崎研究室は手前味噌ではないが、最近はいろんな意味で目立っているため、他の研究室と比べても来場者は多い。
そうなると提供する軽食も多く準備する必要があり、そのために手間もかかる一途なのだが、そんな母にとって私は貴重な戦力だったりする。
私も家事は嫌いではない、いや、むしろ料理は好きな方だ。
全自動で家事ができるこんな時代に錯誤かも知れないけども、調理という行為は化学の実験に似ていて大好きだった。
適切な分量を、適切なタイミングで、適切な熱を加える事で、たんぱく質が変質して、美味しいものができあがるのだ。
塩分濃度によって浸透圧力が変化して、イオンの具合で味付けが決まる。
これを化学実験と言わずとして何と言おうか。
私のこの物言いに母は若干呆れていたが、それでも料理が上手くなったのは事実。
お陰で母からは「あなたは、いつお嫁に行っても大丈夫よ」と既に太鼓判を貰っていたりする。
そんな今日も、鼻歌混じりに家のオーブンで生姜の効いたクッキーを大量生産していたら、弟が帰ってきた。
「ただいまー」
三歳年下の隆二は帰宅の言葉とともに、竹刀と防具が入った袋を降ろして、キッチンにヅカヅカと入ってきて、焼き上がったクッキーをつまみ食いする。
「あ、こらー! 隆二! 何やってんのよ!」
「姉ちゃん、怒るなよ。俺、腹減ってんだからさ」
「別に隆二のために作っているんじゃないわよ!」
いつものように始まる兄弟げんかに、母は呆れ顔で仲裁に入る。
隆二の方も私をおちょくるのが主目的なのだ。
そして、隆二は私の怒った顔を見られて満足したのか、そこすかと竹刀を持ち、キッチンから退散しようとする。
「まったく、隆二は剣道ばっかりやって! 少しは勉強しなさい。将来は一体何になるつもりよ」
「へん、俺の夢は『さすらいの剣士』になる事さ。将来はこの剣道で飯食って行けるようになる!」
「アンタ莫迦? こんな時代に腕っぷしひとつで剣士って・・・ゲームのやり過ぎよ!」
「姉ちゃんには男の浪漫が解っちゃい、ぶっ!」
私の堪忍袋の緒が切れて、クッキーを作るときに使っていた木の丸棒を投げた。
それが見事に隆二に命中し、その減らず口を止める事に成功した。
「ぁにすんだ。この暴力女!」
「ふん。この程度の攻撃が躱せない剣士様って、高が知れているわね!」
「ふ、不意打ちするなんて卑怯者のする事だぜ」
「卑怯者!? 結構よ。世の中は結果が全て。勝てばいいのよ」
再び喧嘩を始める兄弟達。
そして、一分後、母より娘と息子に盛大な雷が落ちる事となる。
(あーー。楽しいなぁ。江崎家は今日も平和だわ)
弟と本気の喧嘩ができる事、平和な世界、何ひとつ苦労しない日常。
こんな平和な日々がいつまでも続く・・・
このときの私はこんな日常がずっと続く事に疑う事すらしなかったのだ。
ようやくオリジナル版に話しが追いつきました。
以後、この『改訂版』の更新は、オリジナル版から一週間(二話分)遅れた、毎週火曜日・金曜日の六時とします。
更新速度が通常に戻ってしまいますが、今後ともご愛好の程をよろしくお願いいたします。