第一話 遠方の乱 ※
「ハァ、ハァ、ハァ」
ひとりの男が逃げる。
その男は広い屋敷の地下に存在している秘密の通路を全力で疾走し、入り組んだこの地下道をまったく迷うことなく進む。
それもその筈、彼は生まれたときからこの屋敷に住んでいたので、この地下道の存在も隅から隅まで知っていて当然である。
この地下道は有事の際に屋敷の外に逃げる手段であり、この一族、いや、このクリステ領に一大事が発生した場合の最終手段であった。
「・・・だから、だから言ったんだ。あんな奴らを信用するんじゃないと!」
男は自分の兄に対して、そう罵る。
彼は覇気と智謀に満ちていたかつての兄をとても尊敬していた。
エストリア帝国の東端にあるこのクリステ領が単なる片田舎ではなく、ボルトロール王国と国境を有する防人の領地である。
ボルトロール王国との小競り合いは長年続いており、もし、本格的な戦争が勃発すると、ここが最前戦になるであろう。
その上、クリステ領の南側には『辺境』と呼ばれる人類未踏の地が広がっている。
この『辺境』には強力な魔物が数多く生息しており、有史以来人類の開拓を許していない領域である。
時折、この『辺境』から溢れ出た魔物が暴れる事もあり、常に緊張感の絶えないこの領地である。
こういった状況でもクリステ領が地図上から消えていないのは、古きより有能な人物が領主としてクリステを支配していたからである。
現在の第四十二代クリステ領主ルバイア・デン・クリステも歴代クリステ領主に負けない勇猛果敢な人物であった。
彼自身も武術に秀出ており、自分の周辺に同じような武人を置きたがる人物でもある。
ルバイアは数多くの実力者を臣下として迎え入れていた。
その部下のひとつに『獅子の尾』傭兵団がある。
この『獅子の尾』はここ半年前にこのクリステに現れて以来、目まぐるしい活躍をする傭兵団だ。
彼の傭兵団が動けば、ボルトロールの斥候小隊を一瞬のうちに撤退させ、魔物もあっと言う間に駆逐する。
剣術の腕に覚えがある者、怪力の者、魔法に秀でた者、防御も固く、そして、治癒や治療技術も優秀な者を取り揃っており、大規模な作戦も熟せる軍隊のように洗礼された傭兵団。
その実力と実績で『獅子の尾』傭兵団は、あれよ、あれよと言う間に地位と名声を手に入れ、この領地の守護神として居場所を確保したのである。
領主としてもこれほどの逸材を放って置く筈がなく、ルバイア自ら出向き、クリステ防衛の特別軍事顧問として彼等を迎え入れた。
『獅子の尾』傭兵団の団長の名はヴィシュミネと言う人物で、既に壮年期の年齢でありながらも覇気に満ち溢れた筋骨隆々の屈強な剣術士だ。
そして、副官はカーサという女性の魔術師。
いつも赤い服を身に纏い、年齢不詳の美女、いや、妖女と言った方がいい。
切れ長の目に妖しい淫靡な光を洩らし、常に男を誘うような妖しい雰囲気を醸し出している女性である。
このふたりを兄のルバイアから紹介された時、妙に嫌な予感を感じたのが現在逃走中の男―――ルバイアの弟であるシュバイアであった。
彼はこの獅子の尾傭兵団から不吉なものを感じとり、特にこの団長と副団長は人の死など全く顧みない冷徹さがあった。
シュバイアは自分が直感を兄のルバイアに伝え、「この者たちは奇なり」と進言するが、兄のルバイアからは「死地を乗り越えてきた戦士だからこそ、そんなものだろう」と一蹴されて今に至っている。
この傭兵団が臣下に加わってから兄の様子がどんどんとおかしくなっていた。
あれほど冷静に日々の責務を熟していた兄は感情の起伏が激しくなり、粗暴になっていく。
先日も兄からクリステ領にとって判断を見誤るような発言があり、弟の自分と口論に発展する事があったばかりだ。
以前の兄を良く知るシュバイアとしては、このときの兄の激昂ぶりが全く信じられず、また、ルバイア周辺の臣下達も兄の奇行を止める気配も全くなかった。
様々な疑問が彼の中を駆け巡り、これは絶対に何らかの原因がある筈だと兄の周辺を慎重に調べていた。
そして、先ほどその原因が判明した。
原因は―――いや、元凶と言った方がいいだろう―――それは『獅子の尾』傭兵団だった。
この屋敷には秘密の部屋が何箇所か存在している。
稀ではあるが、領主には公にはできない事を裏で処理する場合もあるため、そういった場所が用意されていたのは、どこの領主や貴族の館でも、特に珍しいものではない。
そして、ある日、シュバイアは不意にその部屋秘密に向かう兄の姿を見つけてしまったのだ。
「うう・・・」と低く獣じみた唸り声をあげて、廊下をゆっくりと歩くルバイア。
その姿は狂気染みており、昼間の豪快な彼の姿とはかけ離れていた。
普段とはまったく様子の違う兄の姿を見たジュバイアはルバイアの後をこっそりと尾行する。
そして、ルバイアは秘密の部屋に入っていく。
シュバイアはドアの隙間からそっと中を見たとき、そこで繰り広げられている異様な光景に驚いて目を見開いてしまう。
薄暗い部屋では甘い香りが漂い、その中心には椅子に腰かけた女性の姿があった。
半裸になったその女性は『獅子の尾』副官のカーサであり、その艶めかしい素足を必死に拝むルバイアの姿がシュバイアの目に止まる。
ルバイアは床に這いつくばり、奴隷のような姿を晒しており、女主人のように椅子に座るカーサの足を必死に求めていた。
そのような姿は一国の領主が見せて良いものではなく、衝撃的なその姿に戸惑いながらも、シュバイアは事の成り行きを見守る。
「ウフフフ。まだ綺麗になっていないわよ。これじゃ、あげられないわ」
カーサは妖しくルバイアにそんな事を言うと、髪をかきあげて不満そうにルバイアを見下した。
ルバイアは自分が領主たる威厳も一切忘れ、カーサに懇願する。
「お、お願いだ。これ以上・・・が、我慢ができない」
「まったく、我慢のできない人ね。しょうがないわ・・・あげる」
そう言うと、どこから出したのか、カーサの右手には赤い液体で満たされたコップが握られていた。
それを見たルバイアはもう待てないとばかりに、荒々しくそのコップをカーサから奪い捕る。
ルバイアは狂気の笑みを浮かべて、コップに入っていた赤い液体を一気に飲んだ。
それはまるで何日も絶食していた魔獣が食事をするかのように、一心不乱にその液体を飲み、そして、彼の目には狂気の光が増し、涎と赤い液体の入り混じったものを口から垂れ流す醜態を晒す。
「もう少し綺麗に飲みなさい。私、野蛮人って嫌いなのよね」
その声がルバイアに届いたのかは誰にも解らない。
赤い液体を飲み干した彼は既に目の焦点が合っておらず、意味不明な言葉をブツブツ呟いていたからだ。
「あらあら、もうあっちの世界へ逝ってしまったのね。良い子だわ。増々と早くなってきたようね」
そう言うとルバイアの頬を指でなぞるカーサ。
その姿はどこかに邪悪さが宿り、魔女が何かの儀式を企てているような姿にも見えた。
ルバイアの顔を弄びながらカーサは命令を与える。
「いい子だから、私の言う事を聞いてね。次の騎士会議でオリビレッタとアナハイムを解任しなさい。理由は適当でいいわ。あのふたりは私達にとって邪魔な存在。それと弟のシュバイアも謹慎処分にして。あの子もいろいろと私達の事を疑っているわ。直ぐに殺すわけにもいかないから、しばらく軟禁し、ほとぼりが冷めた頃、病死にでもすれば、誰も疑わないわ。それと・・・」
陰からその様子を見ていたシュバイアに動揺が走る。
流石に自分の暗殺計画を述べられていたから、それは動揺して当然だ。
後退りしようとして狼狽したとき、不意にカーサと目が合ってしまう。
普通ならば暗がりで解らないはずだが、それでもシュバイアは直感でカーサにバレたと感じた。
その直感は正しかったようで、カーサの鋭い目が細められる。
「あらあら、お客さんね。男と女の矜持を盗み見るなんて、酷い趣味の人もいたものね」
そう言うとカーサは立ち上がり、細められた目が怪しく光った。
「う、うわぁぁぁぁぁ」
シュバイアは飛び上がり、一目散に逃げる。
この女性からは人間ではない何か邪悪な存在を感じとったシュバイア。
生物の本能として『絶対に敵わない存在』にできること・・・それは逃げる事だ。
シュバイアはただひたすら逃げた。
早く、一分でも早く、この館から出ないと自分は・・・。
そう思って我武者羅に逃げて、今へと至る。
あのドアを開ければ逃げられる。
最後の一枚だ。
そして、そのドアを開いて「助かった」と思うが・・・その先には絶望が待っていた。
ドカーーン
何かに殴られたと思った後、シュバイアは跳ね飛ばされて、空中を一回転して地面へと激突する。
身体に痛みもあったが、それよりも状況把握が先決だと思い、体制を整えて目を開くが・・・・・・・彼の目の前には赤い服を着た悪魔が立っていた。
「はい。残念だったわね」
カーサだった。
(どうやって? なぜ自分より早く!? どうしてこの場所が解った?)
様々な疑問がシュバイアの頭を駆け巡るが、その疑問にカーサは答えてくれた。
「アナタの行動やこの屋敷の事はすべて彼が教えてくれたの」
カーサはこの場に似合わない陽気な声で答える。
そして、その視線の先にはルバイアが立っていた。
ルバイアと視線が合った瞬間、彼は駆け出し、シュバイアを後ろから羽交い絞めする。
「がっ!」
年老いても屈強なルバイアは自慢の筋肉で弟の身体を締め上げて、身体の自由を奪う。
「ルバイア兄者!! やめろ! 離してくれ」
弟の必死の懇願にも耳を貸さず、更に締め付けを強めるルバイア。
シュバイアも何とか逃れようと抗うが、兄の強力な拘束から逃れる術はない。
「往生際が悪いわね。しょうがないわ。アナタにもこれをあげるわ」
カーサはそう言い赤い液体の入っていたコップを差し出した。
先ほどルバイアが飲まされた液体と同じであることがすぐ解ったシュバイアは、当然それを飲まないよう拒絶するが・・・
「私の眼を見なさい!」
カーサと不意に眼が合ったが最後、その妖しく光る眼に魅入られて、どんどん意識が遠退くシュバイア。
やがて彼の身体は脱力し、眼の焦点が合わなくなる。
そんな姿を見たカーサは満足し、コップをシュバイアに差し出す。
シュバイアは全く抵抗せず口を開けて、その口には余す事無く赤い液体が注がれた。
しばらくは恍惚とした表情をしていたシュバイアだったが、やがて身体が痙攣をはじめ、白目を剥いて気絶する。
「はい、おしまい」
自分の仕事に満足するカーサ。
そんなカーサに近付く人物がいたが、彼女は焦らない。
その人物は、彼女にとって味方であり、上司であり、想いの人であったからだ。
「随分と予定とは違うようだが・・・」
低い声でカーサに話す男はヴィシュミネと言い、『獅子の尾』傭兵団の団長である。
「ルバイアの調教を見られたので仕方なかったのよ。それに、この男は殺すよりも利用価値がありそう。だから、下僕に仲間入りさせたわ」
カーサはそう言うとシュバイアを横流しに見た。
シュバイアはだらしなく涎を垂らし、彼が正常ではないのが誰の目から見ても明らであった。
「まぁ、制御できるならば、お前の好きにしていい。それに、次の仕事も入った」
ヴィシュミネはシュバイアの成果てた姿を興味無さそうに眺めて、カーサにそう告げた。
「次の仕事?」
「そうだ。このクリステはほぼ我々の支配体制は整いつつある。『次に行け』と上からのお達しだ」
ヴィシュミネの淡々とした通告に口を尖らせるカーサ。
「え~。私、ここでの街の暮らしが気に入っていたのに~」
若々しい歳頃の娘のような態度でおどけるカーサ。
「そんな事は諦めろ。我々の仕事はただの殺しや支配ではないのだ」
カーサを説得するヴィシュミネ。
彼はカーサの本性を良く解っている。
彼女は普通の女性のように買い物や、食事を、楽しめるような人間では無い。
彼女は自分の邪魔になる人間を見つけては殺す事、そして、今回のように自分の支配下に下僕を置く事を、何よりの喜びとしているのを知っている。
だから、ヴィシュミネは彼女の冗談には乗らず、淡々と事務的な通告をしているのだ。
カーサは可愛い娘ぶることを諦め、割と本気の表情でヴィシュミネに応える。
「それで次は何処? 隣のナーロ、それとも、北のキャメル砦かしら?」
彼女がどう思おうと、結局、ヴィシュミネやその上部組織が決めた事には逆らえないのだ。
「次の標的はラスレスタだ」
「はぁ? いきなりエストリア帝国中枢の学園都市に!?」
「そうだ。上手く餌に食いついた相手がいた。そいつを利用してラフレスタに拠点を作る事になった」
「ラフレスタか・・・遠いわね」
学園都市で有名なラフレスタはこのクリステから直線距離でも約二千キロ離れている。
エストリア帝国の街道は平原が続くので移動は苦でないが、それでも馬車で一ヶ月以上かかる道のりである。
だが、ラフレスタはこのクリステよりも都会であり、人も多い・・・
自分の欲望を楽しませてくれる標的が多ければ多い程、それは悪い話しではない筈だ。
カーサは残忍な自分の内なる欲望を感じ、そして、目を細める。
何かを想像しているカーサを特に気に留める事も無く、ヴィシュミネは続ける。
「準備もあるため、すぐには出発できん。後任への引き継ぎもあるしな。だから、まずは先攻隊を先に行かせることにした」
「先攻隊?」
「そうだ。先攻隊としてギエフ達を既に出発させている」
「あの野蛮人が・・・先攻隊なんて務まるのかしら?」
あきらかに嫌そうな顔となるカーサ。
同じ獅子の尾傭兵団にいながら、自分とは相性の悪いギエフとはできるだけ顔を会わさないようにしているカーサだから当然だ。
そう言えば、ここ数日はギエフの顔を見てなかったが、そういう事かと納得するカーサ。
彼のパワーだけは認めるが、それ以外の評価は・・・それほど品度を要求されない傭兵団でさえもあのレベルの低さは「失格」だと思ってしまうカーサ。
「私達が着くまでにラフレスタ中の女魔術師が全て狩られてしまわない事を願いましょう」
そう吐き捨てると、カーサはヴィシュミネの身体に自慢の胸を押しつける。
「そう決まれば、忙しくなるわ。その前に・・・いいでしょ」
カーサは何かを強請るようにヴィシュミネを見詰めた。
ヴィシュミネも「この女は・・・しようがない」と諦めて、その赤い唇を自分の物とする。
カーサはヴィシュミネには完全な信頼を寄せ、そして、深い愛情を抱いている。
ヴィシュミネもこのカーサの想いに応えて、彼女を普通の部下以上に可愛がっていた。
そのため、ふたりは隙あればと逢瀬を重ねることもしばしばある。
今回も何が切掛けになったのか解らないが、カーサの心に火が灯いた瞬間であった。
そして、この逢瀬を本人達以外に目にしているのはふたりの男性。
このふたりの男性・・・ルバイアとシャバイアには既に自己の意識は無く、ただの彫像と化している。
主から次の命令が来るまで直立不動で待つ彼らの姿は、クリステに到来する暗黒の未来と酷似しており、ただ蹂躙されるのを暗示しているようでもあった・・・