はじめての海
「……そんな訳で、今日はオズワルド様のご機嫌取りが私の仕事となりました」
「へぇ、大変だねえ」
「ちっ……ええ、大変ですとも。とてもね」
思わず舌打ちしてしまう。
オズワルドは自動車の後部座席で、ニヤニヤと下卑た顔をしてメイドの少女をはべらせていた。
そもそもナオミがオズワルドを甘やかすから、色々問題を起こすのではないだろうか。
見ないように正面を向いたまま、エフォートは運転を続ける。
新型のレシプロ機関を搭載した自動車は、路面のギャップを滑らかに吸収し、馬車など比べものにならない速度で道を進んでいく。
「でもエフォート。僕に話しちゃったら何の意味も無いんじゃない?」
「だから言ったのですよ。努力はしたが成果は上がらなかった、と言い訳できます」
「君が昨日の続きを話してくれれば、僕はゴキゲンさ」
オズワルドと話すと、逆にエフォートは不機嫌になる。
「あー、そうですか。そりゃよござんした。で? どこに行けばいいんです、オズワルド坊ちゃま」
「じゃあさ、ムーサに行ってみたいな」
「そりゃあ構いませんがね。ムーサに何があるんです」
「海だよ」
「ヘドロまみれの汚い海です。夏には異臭が内陸まで漂ってくる」
「僕もナオミも山育ちだから、見た事ないんだよね。知ってるかい? 海は世界の四分の三を覆っていて、塩が三・五パーセントも溶け込んでいるって言う話じゃないか!」
「ほー。そりゃあ初耳ですな」
海水の成分など、どうでも良いことだ。
どうでも良いことをオズワルドはよく知っている。
何の役に立つ訳でもないというのに。
「せっかくバージニアが自動車を借してくれたんだから。頼むよ」
「はいはい……仰せの通りに」
ムーサは王都の隣にある港町だ。
込んでいなければ三十分かそこらで着くだろう。
途中の店に寄り、サンドイッチとラムネを三人分買い込んだ。
「ピクニックみたいですね、オズワルドさま!」
「はっはっは、そうだろうそうだろう。ビリデ山っていったかな、途中にあるあの山は緑も多いから、そこで一休みしようよ」
エフォートと対照的に、二人は上機嫌だ。
窓から吹き込む風に石炭の燃える香りが混じっている。
ムーサへ向かう街道は鉄道線路とほぼ平行に走っており、やがて蒸気機関車の煤煙が見えてきた。
規則的な蒸気シリンダーの作動音、気まぐれに鳴り響く汽笛。
ムカデのような列車が近付き、やがて自動車と併走し始める。
「おおっ、汽車だ! おおーい!」
オズワルドが窓から手を振る。
窓から顔を出すと危ないと注意するのが筋かもしれないが、エフォートはオズワルドがどうなろうと知った事では無い。
自動車が珍しいのか、客車の乗客たちも手を振り替えしてきた。
シルクハットを被ったビジネスマン、軍服を着た兵士、きらびやかなドレスを纏った貴婦人もいれば、お付きの女中もいる。
車掌は敬礼し、機関士が天井から下がった輪を引っ張ると、それに合わせて汽笛が草原に鳴り響いた。
「ナオミ、ごらんよ。みんなどこに行くんだろう?」
「わかりません。でも、みんな楽しそうなのです」
しばらくの間併走した後、汽車は離れていった。
ビリデの山を越えると、そこはもうムーサ。
オズワルドは窓を全開し、大きく息を吸い込んだ。
「う~ん、潮の香りだ」
じつに単純な男である。
オズワルドなどどうでもいいが、メイドのナオミが可哀想なので訂正しておくことにした。
「近くに干物工場があるんですよ。海はもっと先です」
「あらら」
オズワルドは生意気にも顔を赤くしていた。
じつに気にくわない男である。
「あのっ、オズワルドさま」
「なんだい、ナオミ」
「……いいえ、なんでもないのです。ただの見間違いなのです」
「何を見間違えたの?」
「裸のマッチョマンが走っているように見えたのです」
「はっはっは、そんな訳が無いじゃないか。ボールドウィン閣下じゃあるまいし」
事前に調べておいたボールドウィンの予定は、アパルトメントの補修工事の立ち会いである。
こんな所にいるはずがない。
「やれやれだ。あなた方まで筋肉至上主義に毒されるなんて。この国の将来が心配ですよ」
不意に視界の中に光が飛び込んだが、その一瞬で光は消えた。
「エフォート、ちょっとその辺で停めてよ」
「おしっこですか? 漏らさないでくださいね」
「景色を見たいだけさ」
「まあ、どうでもいいです。それから、いい加減私のことはデビッドと」
山頂付近の小さな展望台に自動車を停める。
草は綺麗に刈り取られ、端の方には小さな石碑が一つ。
パーキングブレーキを引きエンジンを切ると、キン、キンと不思議な音が心地よく響いた。
ナオミがドアを開けるが、それすらもまだるっこしいかのようにオズワルドは反対から勢いよく飛び出した。
「ああっ、オズワルドさま。走っては危ないのです」
背中にナオミの声を浴びながら、オズワルドは草原を一気に駆け抜けた。
しぶしぶエフォートも後を追うと、不意に視界が一気に広がり、ムーサの町と海が見える。
「――――!」
オズワルドは言葉を失っていた。
太陽は綿のような雲に隠されているが、雲の切れ間からは天使の梯子が何本も降りていた。
眩い光の輪の中を群れている鳥は、きっとカモメだろう。
風が吹き、雲間から太陽が顔を出した。
生まれて初めて見る海はどこまでも無限に青く、まるで宝石を散りばめたようにキラキラと光り輝いている。
「……これが……海……?」
「あぐっ、ぐずっ、お、オズワルドさま……あれが……あれが海なのですね……」
ナオミはとっくに泣き出していた。
泣くほどの事かと思ったが、山育ちの二人にとって初めての海はとてもとても美しいものに思えたようだ。
エフォートにとっても嫌いな光景ではない。
あんな事を言ったものの、こんな事で機嫌が良くなるのであればチョロいものだ。
「ここでお昼にしよう。エフォート、サンドイッチと飲み物を持ってきてよ」
「ハイハイ……」
三人は飲み物と弁当を広げ、敷物に腰を下ろすと、海から吹き上がる風が優しく頬を撫でた。
「さあて……何から話したものでしょうね」
「昨日のあのマスク、すごいよね。本当、感心しちゃった! 本物そっくりなんだもん。昨日も聞いたけどさ、僕にも作れるかな?」
まるでオモチャを前にした子供だ。
エフォートには自分もこんな目をしていた時代があったかと思うと、少し感傷的になりかけた。
元々手先は器用だったが、それを褒められた事は一度も無い。
「ラテックス細工はすぐには無理でしょう。練習あるのみです。それから?」
「あのペンダント……『CPU』とか言ったね。あれは何なの?」
「電子計算機の部品ですよ。地球製の」
「組み立てるとどうなるの?」
「計算なら何でもできるようですがね。機械の精密制御なんかに応用が利くそうですが」
続くオズワルドの質問は、ついに核心を付いた。
「スチューピッドが懸念していたのは?」
エフォートは固唾を呑んだ。
これを話すことは、多かれ少なかれ危険を生む事になる。
しかし、これ以上一人で抱え込むのは苦しかった。
「オズワルド様。あなたは……」
「うん」
「あなたは、『生まれ変わりたい』と思ったことはありますか。何もかも捨てて、新しい世界で、新しい人間として……最初からやり直したいと思ったことは……ありますか」
オズワルドは一瞬目を丸くしたが、やがて視線を海に向け、呟くようにして言った。
「そりゃあ、あるよ。……誰にだって、きっと」
意外だった。
てっきり無いと言うと思ったのだ。
この楽天的な貴族のボンボンでも後悔する事があるのだという。
今までに見たことのない、寂しそうな顔をしている。
オズワルドは一瞬だけ、はにかんだ笑みをナオミに向けた。
ナオミは何を言っているのかわからない、といった顔で首を傾げた。
「…………そうですか。あなたでもそう思いますか。……では、お話しましょう」
オズワルドは黙って頷く。
一度深呼吸して、エフォートは口を開いた。
「スチューピッドが恐れていたのは、脳をスキャンしてデータストレージにアップロードし、それを……赤ん坊の脳に書き込む『転生装置』開発の可能性です」
「な、何だって?」




