・ギア/セカンド 魂葬者と終わるべきモノ・壱――旅は道連れ世は情け~奇異な連れは人工知能と化け狐~
――斑輝喜逸には分からない。
この世界を我が物顔で跳梁跋扈する『永久人』を滅ぼす。
終わらない終わりを終わらせる。
その為に強くなる。
誰よりも強くなる。
そうならねば■■■の■■■■に■■■■から。
それが、斑輝喜逸の生きる意味で、唯一掲げる信念なのだと理解はしている。
けれど、何故そんな信念を抱くに至ったのか。斑輝喜逸には分からない。
身を焼き焦がす衝動も、生き急ぎ悶えるが如き焦燥感も、己がこの世の異物であるかのような違和感も何もかも、そこには本来あるべき理由原因起因起源その悉くが著しく欠如している。
故にこれは、欠陥だらけの空の信念。
自分の生きる理由を得た理由が分からない、こんなにも強烈な感情の起源を知り得ない。
行動を喚起する心より湧き上がる己の根源はある。
だが原因がない。
そんな致命的な矛盾――
――何故、喜逸には本来あるべきモノがないのだろうか……一つだけ、喜逸には心当たりがある。
原因不明の記憶の混濁。
斑輝喜逸は数年前からの記憶が曖昧だ。記憶喪失、ではないのだと思う。
ただ、年を遡って思い出そうとするごとに記憶に靄のようなヴェールが掛かり始め、数年以上昔を遡ろうとすると途端に解像度が悪くなる。
過去の出来事は酷くぼんやりと歪んでいて、「何となくこんな事があった気がする」という程度の記憶の輪郭しか浮かび上がらない。
何故、記憶の混濁が起きているのか、ちなみですら原因は分からないらしい。
だがそれでも、欠けてしまったあるべき理由は、この身を焦がす焦燥の理由は、曖昧な記憶の中にこそあるのではないか、そんな疑念と期待ばかりが毎日毎日膨らんでいくのだ。
理由が分からないものは気持ちが悪い。
胸に宿るこの信念が大仰であればある程に、それに釣り合う何かがあったはずなのだ。
斑輝喜逸は、それが知りたくてたまらない。
……それに何か。もっと致命的な思い違いを、大切な何かを忘れているような喪失感がいつも胸にはあって――■■■を、■■■との■■を■■は――
☆ ☆ ☆ ☆
――「――合格だよ生グソ坊主。……俺はお前をぶち殺す為に本気で戦えそうだ」
――「左様ですか――嗚呼、それは僥倖。拙僧にとって実に喜ばしい判断だ。喜逸殿」
第二章 魂葬者と終わるべきモノ
七月十三日、午後一時過ぎ。
東京領、旧相模原市。相模川沿いの曲がりくねった坂道。
昼飯時。いつもであれば足を止めて小休止を取り、茶屋にでも立ち寄って塩芋の一つ二つを腹の中に収めている頃合いだ。
しかし今日の喜逸は一向に歩みを止める気配がない。
相模川を右に見ながら歩く喜逸は、どこかげんなりしたような表情で自分の背後を歩く影に時々視線をやる。
そうして偶然ソレと目が合うと、途端にウンザリと深いため息を吐いた。
「……おい、いつまで付いてくる気だお前……」
「おかしなことを言うきーつだ。ぼくは四日前に同行の許しを得たばかりだ、同じ質問をされるのもこれで六度目。いつまでと尋ねるにはまだそう時間はたっていないと思うが? それとも、もう忘れてしまったのか? まったく仕方のない子だ、きーつは」
ソレはきょとんととぼけたような顔をしてから、呆れてたような苦笑を優しい笑みに変える。
コロコロと変わる表情で喜逸を見るソレは、美しくも愛らしい少女の形をしていた。
『まあ、御手サマの忘れっぽさったらそれはもうご老人レベルですからねー』
「馴れ馴れしく名前で呼んでんじゃねえよ。あとちなみ、お前は一体どっちの味方だ?」
『失礼なッ、ちなみはいつでもどこでも御主サマの味方に決まっているでしょうっ。そんな事まで忘れてしまったなんて……ちなみ悲しい。オーイオイオイ……』
「いいじゃないか別に。誰に裏切られようが、年老いて枯れた老人になろうとも、ぼくがきーつの傍にいてやろう。ふふ、どうだ? 光栄に思って泣いて喜んでもいいんだぞ。きーつ」
……頭が痛い。眩暈がする。何だっていうのだ、この状況は。
『しっかーし! そんな忘れっぽい認知症系御主サマのお食事入浴お着換え排泄その他諸々をお手伝いする為にッ、この最強介護AIちなみは存在していると言っても過言ではありませんそれすなわちッ、御主サマとずっと一緒なのはちなみの方なのですっ、どこの馬の骨とも知らぬ泥棒猫めには渡しません! しゅっ、しゅっしゅっ! シャドーボクシンッ!』
「ほう、そこまで高性能とは知らなんだ。ならば今夜は皆で風呂にでも入るか。この先にいい天然温泉を知っているんだが……きーつの背中を流しあって親睦でも深めてみるか? AI殿」
『ぐはっ!? こ、この女児、二次元とリアルの壁を持ちだしやがったですとぉおおお!!』
喜逸が額に引っ掛けたゴーグルのレンズの中でぐはっと喀血するちなみ。どうやら少女の切り返しにTKOを受けたようだ。しかしちなみの発言も少女の誇りを傷つけたらしい。
「む、女児とは失礼な。女児とは。こう見えてぼくは、千年以上の時を過ごした怪異の主、京の都に名を轟かせた『千年妖狐』なんだが?」
むすんと頬を膨らませて腕を組む少女。見た目相応に愛らしいその仕草に、喜逸の頭痛はピークに達していた。
何も、怪異の主を名乗る少女の虚言に頭を悩ませている訳ではない。
なにせ――桃色がかった乳白色の長髪と、頭から飛び出る狐耳。
そして二股に分かれた尻尾でぐるりと己の下半身を覆い包むようにしている――彼女こそが、千年もの間数々の魂葬者を返り討ちにしてきた最強最悪の怪異の主、真実あの伝説の『千年妖狐』本人なのだから――
――何故こんな事になったのか。全ての始まりは六日前の七月七日まで遡る。
『――五行相生・木生火。「火行符」烈火ッ改め――』
『――狐火十把一絡げ――』
星夜の空の下の出会い。
命無きモノを滅ぼす魂葬者と、命ないままに千年を生きる怪異の主。
絶対に相容れない両者の出会いは必然的に殺し合いへと発展し、魂葬者と怪異の主の血みどろの死闘はついに一時間を超え、そのままどちらか片方が滅ぶまで続くはずだった。
実際、その死闘に決着がつかなかった訳ではない。
『―五行四連生・『烈迅炎火』、急急如律令ッ!』
『――名付けて是「狐火玉」』
相生を四つ重ねた爆炎の一撃に対し、彼女が十把一絡げと評した無数の狐火の集合体――『狐火玉』と名付けられた小さな太陽の墜落は、そも破壊の規模からして異なっていた。
対個人に特化し先鋭化された喜逸に対し、妖狐が放つは周囲の妖狐以外の全てを焼き尽くす超高火力範囲殲滅攻撃。
戦略兵器に対して個人最強兵力で挑むような無謀な戦闘の結末は、それこそ初めから火を見るよりも明らかだったのかもしれない。
己が全てを出しきり、ありとあらゆる手札を尽くし策を弄して罠に嵌め相手を欺き『相生』を重ね己を強化し遥か高見へ到達し斑輝喜逸最大威力の一撃を叩き込んでそれでもなお――
『ぼくの勝ちだな』
――千年もの時を生きた怪異の主を前に、ついぞ斑輝喜逸の悉くは通用しなかった。
『が、あ……、ァ……っ』
凄まじい密度の霊力の炎を受け崩れ落ちる身体は動かない。
手足を投げ出し、荒い呼吸を重ね、大の字になってみっともなく約束の星夜の空を見上げた。
視界一杯に広がる美しい煌き、過去の残光が喜逸の瞼を焦がすようで――視界の輝きが滲み、瞼を焦がす光が眩しさを増した。
約束の晩、かつて願いを捧げた誰か。
天の川にて再会を誓った何処かの二人。
七月七日という特別な日がそうさせるのだろうか、喜逸の胸を正体不明の切なさと罪悪感が締め付ける。
――思い出すべき何かがあると心が叫ぶ。……分からない。呼吸に血の味が混じり、思考が焦点を失っていく。斑輝喜逸には何も分からず、悶えるような焦燥感ばかりが募っていく。
――遂げるべき何かがあった筈と心が喘ぐ。……分からない。もう眠い。記憶は曖昧で起源は不明、己の理由は定まらず、されど燃えるような原因不明の空の信念だけを持て余している。
だから、己の何もかもが分からないまま終わってしまうのが死ぬほど悔しくて。
己を突き動かすこんなにも強烈な衝動の起源を知り得ないまま終わってしまうのが、心底気持ち悪かった。
それでもこの敗北は、死は逃れられないのだと喜逸は理解していた。
しかし妖狐はいつまで経ってもとどめを刺そうとしない。
それどころか、一際強く霊力を練り上げ始めた妖狐は、事もあろうに喜逸を治療し始めたのだ。
『――なん、なんだ。お前は……どうして、俺を……』
困惑する喜逸を見て、千年を生きる妖狐は生娘のように柔らかく微笑んだかと思うと、へたりとその場に座り込んで、みるみるうちにその愛らしい顔を涙でぐしゃぐしゃに歪めて――
『……あぁ、良かったぁ……本当に、よがっだ、よぉおおぉ……あぁ、ああぁぁあああ――っ』
――妖狐に、泣きじゃくる千年を生きる怪異の主に抱きしめられている。
そう自覚して、すぐさま振り払おうと全身に力を籠めようとする満身創痍の喜逸を、鈍重な睡魔が襲い――妖狐というのは、怪異のくせに温かくて柔らかいもんなんだな……
そんな思考を皮切りに、斑輝喜逸の意識は深い太平のような微睡の中へと落ちて行った。
何もかも分からないまま、そんな気持ち悪さと焦燥感の悉くを柔らかく解きほぐされて。
そうして妖狐に敗れて妖狐に看病され、妖狐のふわふわ尻尾枕で目が覚めた斑輝喜逸は――当然脱兎の如く逃げ出した。
当たり前だ。
相手は千年を生きる怪異の主、今の自分ではまるで歯が立たない事は身に染みて理解している。
意味の分からない状況とは言え、無意味に死ぬくらいなら価値無く生きろ、今勝てなくとも強くなってから殺せばいい。
そんな決意を胸に喜逸は命懸けの逃走に挑んだのだ。だが逃げても逃げても妖狐は後をついてくる。
実力差は歴然、故に撒けない、距離は一向に離れない。
魂葬者と怪異の主による二回戦、その種目はまさかの鬼ごっこ。そしてそんな子供じみた勝負でさえ喜逸に勝ち目などなかった。
そんな終わりの見えない逃走劇に業を煮やした喜逸は、諦めて彼女の同行を認める事にしたのである。
とある条件と引き換えに。
「……本当に久我雅家を半日で滅ぼしてくるとか……馬鹿げてやがる……」
「ぼくを甘くみるからだ、きーつ。ぼくは『千年妖狐』。自分を全能とまで言うつもりはないが、まあちょっとした最強だ。そんなぼくを仲間に出来た君は、自分の幸運に感謝すべきだ。そしてぼくにも感謝の意を表するべきだ。具体的にはもっと褒めてもいいぞ。うん、ぼくが許す」
――久我雅サリカ。沙也の母で今回の違法な『鎖縛魂法』にも関わったとされている『永久人』。
付きまとってくる妖狐に対して、喜逸は彼女の誘拐を同行の条件として提示した。
そうして妖狐は見事に久我雅サリカの誘拐を成し遂げ、条件を達成してみせたのだが……
「……お前を仲間なんぞにした覚えはねえし、褒める気はもっとねえ。互いの意を通す為の条件だ。やって当然の前提をこなしただけのヤツをなんで俺が心を殺して褒めなきゃならねえ」
謂わばこれは取引だ。
妖狐が喜逸に旅の同行を認めさせる為には、喜逸の提示した条件を達成せねばならなかっただけの事。
つまりはこれでようやく対等な関係になった訳であり、喜逸が妖狐に感謝をしなければならない道理は一切ない。
断じてない。
しかし妖狐は、そんな理屈はどうでもいいとばかりに、得意顔でぺたんこの胸を張り。
「いいから褒めろ、今すぐ褒めろ、何でもいいから疾く褒めろ。ちゃんときーつの言い付けを守って、誰も殺さず傷つけもせず、久我雅サリカだけを攫ってすぐに帰って来たんだ。これはぼく以外にはこなせないオーダー、よってご褒美を要求する。ほれ、ぼくの頭を撫でろ、撫でていいぞ、撫でさせてやる。あはは、これじゃあどっちがご褒美か分からんなァ!」
「……っ、おいアホその格好で嬉しそうに尻尾を振るんじゃねえ! つうかその格好で俺の前に出てくるなって何回も言ってんだろうがッ」
妖狐が纏う臙脂色の浴衣は、どういう訳か腰あたりの位置でバッサリと裁断されている。
要するにこの少女の形をした狐、下半身に何も衣服を身に着けていないのである!!!!!!!
普段は己の身長程もあるふわふわの二又尻尾を腰巻のように巻きつけ下半身を覆い隠しているのだが、感情を露わにした際に尻尾が激しく揺れ動く為、防御力が致命的に低い。
その肝心の妖狐は、指摘されてなお下半身を開けっぴろげにしたまま尻尾と首を傾げ、
「んー。ぼくはきーつに裸を見られても別に気にしないが?」
「俺が気にすんだよボケ。あと今のお前の格好死ぬほど間抜けだからな? 半裸妖狐」
「……へー、ほー、なるほどー。きーつはぼくのような女児の裸体に興奮してしまう変態さんだったかぁ。そーかそーか、いやー、これは嬉し楽しい発見だ」
「人の話を聞いて三秒で死ね。いいか、見たくもないモン見せびらかしてんじゃねえって言ってんだよ猥褻物陳列狐……だいたいテメェ、さっきは女児呼ばわり否定してただろうがッ」
そもそも何故こいつは偉そうで、こんなにも馴れ馴れしいのだろう。
そんな疑問がふと沸いたが、相手は千年を生きる怪異の主、考えるだけ無駄な気がしてきた。
「ふぅん、そうかそうか。それは至極残念だ。君はぼくの裸に対して何ら興奮を感じないと、そう言う訳だ。なら別に僕が裸だろうが半裸だろうが無視すればいいだろう」
「おい、だから……」
「……どうしたきーつ? 見たくもないなら目を逸らすなんて簡単なハズだろう。それとも視線が吸い寄せられるか? ふふっ、顔が赤くなっているが?」
「……ぐッ、分かった、褒める。褒めりゃあいいんだろ褒めればこれで満足か!? ほら、褒めてやるから頼むからその格好で近づくなすり寄ってくるなッ、三秒で下を隠せ今すぐにっ!」
嗜虐的な笑みを浮かべた妖狐に完全に弄ばれている喜逸を見て、額のちなみが息を吐く。
『あらら、これは完全に手玉ですねー。妖狐選手による見事な男性お手玉です! 童貞御主サマの女性耐性の低さがこんな所で仇となろうとは……ちなみにちなみは童貞更正プログラムだけはインストールされていないのです……うう、ちなみはちなみの無能さが口惜しい……』
「へえ……、やっぱりきーつは童貞なのかぁ。ふぅん……」
「ちなみお前敵に余計な事言ってんじゃねえよマジで……ッ」
ぺろりと舌なめずりする妖狐の姿に背筋に悪寒を覚えつつ、無能を越えて最早有害ですらあるナビゲーターに怨念じみた文句を吐く喜逸は、「さあ撫でろ」とばかりに差し出された妖狐の小さな頭を仕方がなしに撫でてやる他、取りうる選択肢はどこにもないのだった。
……頭を撫でられ満足げに喉を鳴らす妖狐は、悔しいぐらいに可愛らしかった。
褒美まで要求される事になったが、喜逸が提示した条件と約束は端から守る気もない建前であり、当初は嘘を鵜吞みにした妖狐が喜逸から離れた隙に雲隠れしよう、という魂胆だった。
なにせ久我雅家の屋敷があるのは旧千葉市にあたる東京領千葉区。
東京領神奈区に位置する旧相模原市からは直線距離でも八十キロ。海を迂回すれば一〇〇キロ以上の距離がある。
条件を提示し、別行動になったのが八日の午後六時。
それから深夜に依頼をこなし、終わってから適当な岩陰で睡眠を取って、翌朝九日七時に目が覚めた時には再び尻尾枕をされていた。
攫ってきた久我雅サリカも既に所定の受け渡し位置に運んだ後で、依頼完了の証明書まで持っているとあっては文句のつけようもない。
流石の喜逸も、徒歩で移動している筈の妖狐が半日そこらで仕事を終えて戻ってくるとは思わない。
しかも、とくに待ち合わせ場所の指定もしなかったと言うのに、こうも正確にこちらの位置まで補足されているとは……千年を生きる妖狐の方が流石に一枚も二枚も上手だった。
歩みを進めつつ、恨みがましくそんな事を考えていた喜逸の胸の内を読んだかのように、
「条件の提示による取り決めは契約のようなものだ。両者間の言葉の流れに呪術的に霊力を組み込んでしまえば、契約相手の居場所を知らせる呪いくらいは即興で組める。怪異や霊術師を相手に軽々しく契約を交わすのは改めた方がいいぞ、きーつ。ぼくが言う事ではないがな」
まったくもってお前が言う事ではないと喜逸は思ったが、同時に可愛げのない正論だった。
「チッ、得意げな面しやがって。可愛げのないチート狐だ」
「そう言ってムキになるきーつは可愛いがな。まあぼくは、こう見えて千年以上生きている」
目の前にいるのは千年妖狐。
可愛げなどなくて当然の当世最強の怪異の主だ。
だが、いかに妖狐が反則級の存在とは言え――否、だからこそ、これだけ危険な存在に二度も尻尾枕を許すなど本来はあってはならない事だろう。
あれだけ接近されて気付けないなど、気が緩んでいる証拠だ。
普段であれば眠っていても獣や怪異の接近に対して即座に反応できるのだが、何故か妖狐が相手だとうまくいかない。
緊急事態に対して真っ先に警報を鳴らしてくれるちなみも何故か妖狐には反応しなかった。
理由を聞いてもそっぽを向いて沈黙してしまう為対策のしようもない。
「ふむ。なにか思い詰めた顔をしているな、きーつ」
「……ああ、頭がいてえな。誰のせいだと思うよ? 三秒で答えて申し訳なくなって死ね」
「ふふ、きーつがぼくの事で頭を悩ませてくれているとはな。なんだかこそばゆいものがある」
「楽しそうだなこの野郎。喧嘩売ってるなら遠慮せずそう言えよ、怪異の主。何ならここで今すぐ三回戦を始めてやっても構わねえが?」
『……御主サマ御主サマ、僭越ながら申し上げますが、みっともなく尻尾巻いて尻尾から逃げ回っていた分際で今更そんな事言ってもカッコ付かないとちなみにちなみは思いますよ?』
「おいだからちなみお前ホントお前いい加減にしろよマジで……ッ」
ギロリと怨みを籠めた視線を額のゴーグルへ向けるが、見えないのを良い事にちなみは気づかないフリで口笛など吹いている。本当にコイツはどっちの味方なんだ……。
とはいえ、喜逸にちなみの事をとやかく言う資格がないのもまた事実。
なにせ喜逸は、そんな己の敵たる怪異の主と既に四日と半日もの間、旧相模原市を拠点に周辺地域で残りの依頼をこなしつつ、文句を言いながらも共に旅をしているのだから。
彼女は怪異でありながら喜逸の怪異退治の依頼を手伝ったり、火を熾したり、喜逸をからかったり、笑ったり、慈しむよう草花を眺めたり、尻尾の毛づくろいをしたり、夜は尻尾に包まって眠りくしゃみをしたり、マズい飯をうまそうに食べたり、飯を落として悲しんだり、塩芋をくれてやれば無邪気に喜んだりと、喜逸が当初警戒していた裏切りや姦計の予兆すら見せず、そんな事を疑っているのがアホらしくなってくる程に呑気で楽しそうに喜逸の後を付いてくる。
一際喜逸の印象に残っているのは、水面に泳ぐ魚影を見つけた時の妖狐のはしゃぎっぷりだ。
突如として四足歩行で水の中に入っていったかと思うと、そのまま勢いよく水中に顔面を突っ込み、次に顔を上げた時には魚を口に咥えた状態で目をギラギラさせぶるりと身震いしていた妖狐は、確かに動物のようだったが少なくとも千年生きた怪異の主にも狐にも見えなかった。
しばらくの間爆笑しながら、やれ化け猫だ、水浴びした犬だ、鮭を取る小熊のようだとからかっていると、妖狐はみるみるうちに膨らませた頬を朱色に染めて、
『な、なんなんだ。別にいいではないか、魚くらい獲ったって! 狐にだってたまには魚が食べたくなる時くらいあるっ!』
と、自分が何故そんなに笑われているのかも分かっていない様子で怒りだしてしまった。
思えば、あの瞬間は喜逸が唯一妖狐に勝利した記念すべき瞬間だったのかも知れない。
そんな妖狐を四日以上も近くで見ていると、不思議と喜逸の中にあった彼女に対する敵愾心や警戒心もすっかり形ばかりになっていて、嚙みつくような態度は喜逸の最後の意地だった。
と、これまた妖狐が、そんな喜逸の心の内を読んだように、
「ふぅん、口ではイヤイヤ言っている癖に、ぼくのことを結構見ているじゃないか感心感心」
「……おい妖狐。お前、人の頭の中を勝手に覗いてるんじゃねえよ……」
指摘に対し怒りと羞恥に握った拳を震わせ歯を食いしばる喜逸。
ニヤニヤと含みのある笑みを浮かべていた妖狐は、今度は口元に手を当ていたずらが成功した子供のように笑って、
「……おっと、失礼。ところできーつ、ここで僕に関する耳寄りな情報を一つ教えてあげよう。……僕は人の心も頭の中も読めない。ただ、君たちより長生きな分、予想がうまいだけだ」
「――な……っ」
「お、気づいたか。今のは少し鎌をかけてみただけだなんだが……なんだ、ほんとにぼくの事をよく見ているのか、きーつは。ふふ、あっさり引っ掛かりおって可愛いヤツめ、このこのっ」
小さな肘でぐりぐりと脇腹を突かれる喜逸の心が敗北感に軋む。
そもそも「心を覗くな」と言った時点で妖狐を見ていた事を認めるも同然なのに、何故そんな軽率な発言をしてしまったのか。
自分の浅はかさを、こんなくだらない事でこれ程まで恨めしいと思う事になるとは思わなかった。
『……全く、見事に籠絡されてますねー、御主サマってば。……ちなみつまんなーい』
呆れたようにちなみが小声で何かつぶやいていたが、この妖狐は常時こんな調子なのだ。
張り詰めていた緊張が解けてしまうのも仕方がないのかもしれないと思ってしまう自分もいる。
しかしだ。第一、そもそもの大前提として斑輝喜逸は千年妖狐に敗北している。
気を張っていた所で、彼女がその気になれば逆立ちしたって勝てないだろう。
妖狐に姦計を巡らせる理由も必要もまるでない以上、彼女の敵意のなさは信じていいのでは、と思えてしまう。
不思議な感覚だった。
千年妖狐は怪異の主で、怪異とはすなわち、陰の気の集合体。
世界の陰陽のバランスが崩れて生じる命無き存在。斑輝喜逸がその信念に懸けて終わらせるべきモノだと言うのに――
「なあ、きーつ」
「なんだよ」
「旅は、いいな。ぼくはとても楽しい」
「……そうかよ、そりゃよかったな」
「ああ、良かったよ。君と出会えて。本当に」
――何だかこういうのは悪くないと、共に旅をして四日そこらでそんな事を思ってしまう自分がいた。




