アンチェイン
その日の六時限目はホームルームで、この時間が号令となり学校祭の準備期間はスタートする。
小野寺教諭からの指示を受け、日向は教室の前方にある教壇へと歩き出し、顔を上げた。
見えてくるのは、期待に満ちたクラスメイト達の、友人達の顔。知らず知らずの内に手に汗が滲むのが分かる。総勢四十名近い全員の期待に添えられるのかどうか、それはこれからの自分に掛かっているのだと思うと、どうしても。
(いや……違う、自分達に掛かっている、だ)
ぐっ、と拳を握った辺りで、次にはふっと息を吐く。
責任を受け止めるのは大事な事だが、飲み込まれてはいけない。そう思い直す。
自分一人で出来る事など数が知れている、むしろ今の自分はクラスメイトとの連携という意味合いに於いては、この中で最も不慣れな人間だと言っても過言ではない。
「それでは、学校祭に向けた準備に於ける、各分野の振り分けと役柄の決定、大筋の進行等をこの時間で決めて行きたいと思います。……恐らく、全員が一番希望する仕事に配置出来る可能性は、限りなく低いです。時には、嫌な役回りをお願いするかもしれません」
教壇に手を突き、プレッシャーに押し潰されない様に身体を支える。今までほとんど話した事の無い生徒達が、一体この男子生徒は何を話すのだろうと、興味と疑心が半々の瞳を向けているのが分かる。
「仲の良い友達と一緒に作業が出来ない事があるかもしれません。交代時間が被る事が無くて、一緒に学校祭を回れない事もあるかもしれない。あくまで可能性の話なので、勿論最大限努力します。けど、俺の力が足りなくて、皆に満足の行く進行にならない事も考えられます」
日向に出来る事と言えば、素直になる事だけだ。出来る事と出来ない事を選り分け、誰かの助力を乞い、自らも誰かに手を差し伸べる。
「俺のやりたい学校祭は、そんな状況になっても、あまり知らないクラスメイトと一緒になっても、楽しいと思える学校祭です。ここに居る全員が、誰とでも楽しめる学校祭です。今日はよく知らない相手でも、明日からは一緒に御飯だって食べれる様な、そういうものがいい。俺は―――」
一度、言葉を区切る。教室中から向けられる視線が、段々と興味深いものを見る視線に切り替わったのが分かる。カラカラに乾きそうな喉で、言葉がつっかえてしまわない様に意識を半分だけ集中させる。
全部の意識を集中させては、身体の緊張が強くなり、自分のパフォーマンスが最大限に発揮出来なくなる。半分だけの意識で、もう半分は無意識に身を委ねる。大舞台での試合の時に、自分の身体が最も自由に動ける状態を作り出す。
あの日、唯が言った事。権力の私物化を正に今、行っているのではと心の中で笑いそうになった。
でもこれでいいのだと思う、自分に出来る事など、せいぜいが舵取りぐらいなのだ。
このクラスという大きな船を動かすのに、目的地を決めるのが、自分の役割だ。そうして出航してしまったら、後は皆に頼りっぱなしの時間がやって来る。
「俺は、この機会に、皆の事をもっと知りたいです」
だからこそ、最初に誰かに歩み寄るのは自分だ。今まで輪の中に入っていなかった自分が、今度は輪の中心となって誰かと誰かを繋ぐ、強い意志を以て。
ゆっくりと視線だけで教室の中を見渡す。
雅の顔が見える。いつになくワクワクとした表情で、こちらを見ている。
そのすぐ斜め後方には、唯の顔がニヤニヤと、相変わらず人をおちょくる様な視線で。
二人にそれぞれ視線を返すと、雅が頷き、唯がウィンクで返してくれる。たったそれだけで、肩が随分と軽くなる。
奥を見ると、口を半開きにして胸に片手を当てている悠里が居る。果たして今の自分はそんなに頼りないだろうか、と日向が笑みを向けると、悠里はぎゅっと胸の辺りを握り締める様にして、微笑みを返してくれる。
三人からの無言の支えを感じながら、日向は最後に一番大事な事を全員に伝える。
「そうそう、実は俺、重度のシスコンなんです。それで、可愛い妹が学校祭に遊びに来ます。なので、出来るだけ全員全力でお願いします。俺の妹の為に。……えーとそれでは、役割分担から――」
そう言い残しさらりと進行しようとすると、目の前の生徒達が目を丸くした後、一斉に野次を飛ばした。
「おまっ、完全にお前の私欲じゃねぇか新垣!」
「あははは! 知ってる知ってるー! 蕾ちゃんだっけ、電話の子だよねー!」
「ここでカミングアウトは違うだろお前ー!」
前方から右側、いつもクラスでは賑やかな男女のグループが声を張り上げる。
「あれ? 私は悠里との間に出来た子供って聞いたけど?」
「ちょっと?! 誰よ今の! 違うって言ってるでしょうがー!」
悠里が友人の女子生徒にからかわれ、顔を真っ赤にして反論する。
「あ、私会った事あるよ。この前ね、一緒に遊んだの。マジで可愛いから……」
「新垣、場合によってはお前をお義兄さんと仰ぐ」
そして沙希は廊下側の生徒を巻き込んで、蕾の事を話題にして周囲と微笑ましそうに笑い合っている。
怒号と笑いと、色んな声が一斉に挙がる。呆れた顔も笑った顔も、何故か無駄に真剣な顔まで、人数分の表情がそこにある。
このクラスには、こんなにも様々な色や形の声や表情がある。それは今までずっと知らずに居て、これまで少しずつだけど分かってきた事だった。
日向も釣られて笑いを堪えきれずにお腹を抱えてしまいそうになり、目尻に浮かぶ涙を人差し指で拭いながら、改めて号令を発する。
いつもの三人と、新しく友人となった三人だけではなく、これからは此処に居る四十人全員が自分の友人となる予感を、噛み締めながら。
「それでは、先ずは衣装、内装、小道具、後はゲーム用に問題の作成等、準備段階の分担と、本番における接客、調理、会計等のロール決めを行いたいと思います」
こうして、笑い声と怒号による喧騒の中で日向達のクラスにとっての学校祭は本格的に始まりを告げた。
「では、衣装については三島さんが、ゲーム用の出題については宮野が班長で……あ、これ衣装とは別にメイクも必要になるのか、えっと」
「メイクなら私やるよ、新垣君」
「鹿島さん、ありがとう。お願いします……それじゃ残りは小道具類と……」
「小道具なら俺やるよ、刃物使うなら男子陣の方がいいだろ」
日向の言葉がどれ程に響いたのかはさておき、分担を決める為の話し合いは驚く程にスムーズに行われた。
各々が得意分野に対して意欲的に。何をしていいのか分からず、あまり積極的に意見を出さない生徒には日向からの話を振る事で少しずつ議題に参加させる。
最終的に各分野が班長を置き、細かな仕事の分担は班長の裁量に任せて細分化して貰う。
後はこれらの進捗を日向達委員側が吸い上げ、定期連絡会で報告を行う。そこを抑えてしまえば、後は時間との勝負だった。
クラスの生徒達は今はもう黙って座りながらの参加ではなく、教室のあらゆる場所で友人知人と相談しながら、これからの事を話し合って、役割や提案を行ってくれている。
「す、凄いね、日向君。これ、私達手伝う事ある……? 手際が良くて逆効果になりそうなんだけど……」
「あいつ、基本的に相手を気遣う事と要領の良さに関してはポテンシャルが頭一つ抜けてるからな……今まではそれが全部蕾ちゃんに向いてたけど。……後たまに、気遣いが別方向に向かうんだけどな」
唖然として壇上に立つ日向を見る悠里に、雅が呆れながら言った。
「それにしたってさ、割と皆が積極的に参加してくれてるの、不思議っていうか……こんな熱血入ってたっけ、あたし達のクラス」
唯が周りを見渡しながら呟く。喧騒に消えそうな言葉に、雅は今度こそ笑いながら言った。
「あいつがシスコンを公言して、目的を明確にしたからかなぁ。いや……もっと単純に」
壇上に立ってチョークで次々とクラスメイトの名前を書く日向を見て、雅は気付いた。
日向は一度も、相手の名前を伺う事はしていない事に。
「あいつが皆に興味を持ったから、皆もあいつに興味を持ったんじゃねぇかな。こいつは一体何をやらかすんだろう、ってな感じに。……しっかし、本気かよ」
また新たに三人一組の男子グループが日向の元へと詰め寄り何かを話すと、日向はそのまま笑顔で頷いて黒板へ三人分の名前を記入していく。
「全員分の名前覚えたのか……」
感嘆と呟く雅の横で、唯が悠里の傍に寄って肩を叩いた。そのまま耳元へ顔を近付けて、そっと囁く。
「見なよ、悠里」
「え……?」
「あんたの、望んでた風景でしょうが。……あんたが投げた小さい石で、ようやく新垣君がこっち向いたんだよ」
そのままトン、と悠里の肩を押すと、悠里がたたらを踏む様にして二歩三歩前へ出る。
ふわふわした気持ちのまま、悠里が顔を上げると、そこにはクラスメイトに囲まれた日向が、聖徳太子よろしく全員の意見に耳を傾けている。
ぼーっとその光景を眺めていると、日向と悠里の視線が交差した。
「悠里!」
日向が手を前に差し伸べる。
「御免、手伝って! 全然追い付かないや!」
その手に導かれる様に、悠里は再び足を前に出した。
「………はいっ!」