信頼
試験も無事に終わった十月の某日。教室内は異様な雰囲気に包まれていた。
教壇に立つ小野寺教諭が持つ紙の束をクラスの全員が見詰めている。まるでその紙が自分達の命運を決定づける事を知っているかの様に。
「それでは、これより英語の試験結果を返却する」
静かに解き放たれた声に、何人かの生徒がビクリと背筋を伸ばした。その中には日向の隣に座る雅の姿も含まれている。
トントン、と小野寺教諭は一度紙の束を机の上で整えてから、静かにそれらを机上へ載せて、一枚一枚を丁寧に捲りながら名前を呼んでいく。
「相沢……次、新垣」
名前を呼ばれた日向はいつもと変わらぬ平静さで教壇へと向かって歩き、小野寺教諭から一枚の紙を受け取る。
「……新垣は、流石だな。いつも通りだ、このまま励みなさい」
「あ、はい。ありがとう御座います」
恐らく褒めらているのだろうが、小野寺教諭の表情に一切の乱れが生じないお蔭で、まるで裁判に掛けられて無罪放免を言い渡された気分になる。
振り向き、自分の机に戻るまでの間に教室を軽く見渡すと、そこには見慣れた幾つかの顔が日向を見ていた。
日向と同じく、いつもと変わらぬ朗らかな笑顔を向けてくる悠里。
試験の答案用紙返却も立派な授業の一つなのに、糸目になって半分夢の中に居る唯。
理知的な眼鏡の奥で、柔和な表情を浮かべている麗美。
そして残りの三人に関しては、ほとんど同じ表情だった。
即ち、日向が無罪を勝ち取った勝者であるのなら、ここから見える三人……雅、秀平、沙希に関しては死刑執行を言い渡される直前の罪人と言った面持ちである。
席に戻り、ほっと息を吐きながら返却された答案用紙を改めて覗き込む。
「……今回は、えらく難しかったけど、良かった」
用紙の下部に記載された【95】という数字を眺めながら、満足気に頷いて机の中に仕舞い込む。
それから十分の間、教室内では地獄の釜が開いた様な悲鳴が響き渡っていた。
「う、うわぁぁヤバいよ、ヤバいよぉ……これお母さんに見せられないよぉ……」
昼休み、一部どこかのお笑い芸人みたいな台詞を吐き出して半泣きする沙希を、日向達は何とも言えない表情を浮かべながら取り囲んでいる。
『折角勉強会を行ったのだから、その後の結果も含めて皆でお互いを讃え合い、そして更なる友情を紡いでいこう!』
そう、沙希は試験が始まる直前の朝に全員にそう言い含めて、意気揚々と試験に挑んだのだが。
(い、いたたまれない……!)
沙希の右手にはくしゃくしゃになった英語の答案用紙、そこに記されている【52】という数字から日向を含めた一同は目を逸らすべきか向き合うべきか、今だ答えを出せずに居た。
「う、うわぁぁあ! うあぁぁ!」
「ったく、しょうがないね沙希は……あたしに任せて」
半狂乱で机に突っ伏す沙希を見て、やれやれと溜息を吐いて唯がそっとその肩を抱く。
「沙希、勉強なんてもんはね、適当にやって適当に流しちゃえばいいんだよ……こんなつまんないの、一生懸命やって高得点出したって何の意味も無いんだから……」
ふっ、と唯が憐憫めいた視線を沙希へ送ると、沙希はむくりと顔を起こして「唯……」と瞳をうるませた。
「……そっか、唯もなんだ。良かった。唯はその……何点だったの?」
「ん? あたし? 98点」
唯が答えた瞬間、狂乱した沙希が唯の襟元を握り締めて前後左右に激しく振り出す。
「うわぁぁあぁ! あんたは! あんただけは許さない! 納得いかないぃぃぃ!」
「ぎゃあぁぁ! 回る!! し、死ぬってば!」
そして唯が色んな方向へとグルグルと振り回される度、相も変わらず小柄な体系なのに豊満な胸のそれが僅かばかりにゆさゆさと揺れる光景が広がり、日向達男子陣は一瞬だけそこに目を奪われてしまった。
「ちょ、ちょっと男子陣! 見ちゃ駄目だってば! 沙希! こんな所でそんな事しちゃ駄目ぇ!」
傍で同じ光景を見ていた悠里が、日向の両目を手で塞ぐ。
「悠里、な、なんで俺だけ……」
「う、うるさいよっ! いいからっ! 成瀬君も栁君もあっち向いてて!」
キッ、と悠里から本気の睨みを向けられた雅と秀平は、直立不動のまま後ろを向いた。
「まぁ、勉強会と称してその実、勉強に当てた時間は全体の半分にも満たないもんな」
「言うな栁。俺達は全員同じ条件で戦った。それに最後に外で遊びたいと言い出したのも鹿島だ……」
先日の事を思い出しながら、雅はこの結果がさも当然の様に受け入れている。
「成瀬は何点だったんだ?」
「俺か、74点。普通だろ」
「普通だな……俺も78点だ。過去問のお蔭で生き延びれた感がある。それにしても今回の小野寺先生の試験はエグかったな……仁科も大丈夫だったのか」
秀平が背後で起こっている騒ぎに唯一加勢していない麗美に問い掛ける。
「うん、私も一応、80は超えられたよ。あの勉強会の後、この浮ついた気持ちで本番に挑んだらヤバいなーって思ったから、家に帰って頑張って勉強したの」
「勉強会やったらケツに火が付いたと…果たして当初の目的は成功と言えるのか失敗と言えるのか、微妙だな……」
学習意欲を高める為の勉強会だったが、結果として勉強する事で意欲が向上した訳では無く、あまりやらなかった事で危機感が煽られて学習に向かい始める。
酷いマッチポンプが作用した勉強会の結末に対して額に手を当てて溜息を吐く雅に、秀平も麗美も何を言えばいいのか分からず、ただ苦笑いを浮かべるだけに留まった。
その後、一度感情を発散させてスッキリしたのか、沙希は麗美を連れて隣の教室の友人達とお昼を摂るらしく、そのまま出て行ってしまった。
先程のやり取りで身体を痛めたのか、唯が腕を枕にして机に突っ伏したまま、うなじの部分を日向に見せつける様にと僅かに揺らす。
「あぁーちょっと、首が痛いんだけど……新垣君、ちょっと揉んでよー」
「出来る訳無いでしょ、この教室のど真ん中で……」
「度胸が無いなぁ……女の子にボディタッチ出来る貴重な機会を無下にするなんて……」
流石に周囲からの視線が痛すぎるので、こんな場所で女子の素肌を触るという愚行を冒す気が無い日向は、やんわりと後方から聞こえてくる唯の戯言を受け流した。
唯の背後からは、彼女の発言を聞いた瞬間から据わった瞳で悠里が唯の首筋を狙っていたのだが、幸運にもその視線に気付いた者は雅以外には居なかった。そして勿論該当の人物は世界の平和を願う為に、今日も不都合な真実からはそっと目を背けるのだ。
「しかしまぁ、これで当面の問題は学校祭ぐらいか。会合はいつからあるんだ?」
ここ数日ですっかり馴染んでいる秀平は何食わぬ顔で日向の机を半分間借りし、弁当を広げながら話題を提供する。
同じ様に日向も弁当を広げながら、担任から伝えられていた日程を頭の中で思い返して行く。
「最初は来週の月曜で、土台部分の擦り合わせがあるんだ。その後は月曜と金曜日に定期報告会って形で行うらしいよ。基本的には各クラスは教室を使ってやるんだけど、家庭科室の使用時間分配とか、出し物の精査と安全性確認……要するに、高校で出すのに適正なジャンルなのかとかをチェックするんだ」
「割とやる事多いんだな、もっと簡単に進捗のチェックだけなのかと思ってた」
「うん、でも厳しく判定されるとかは無いらしいよ。どっちかと言うと、各クラスのやりたい事が、期限内に終わる算段があって、ちゃんと参加出来る様にするサポートの側面が強いんだって」
日向の説明を受けて、秀平が「あぁ」と頷く。
「無茶な期日や予算組んで、机上の空論になってないかをチェックするって事か」
「うん、一年生とかは特に、盛り上がってポンポンと決まったものの……って、ありそうじゃない?」
「ありそう……だな」
一年の時に思い当たる節があるのか、秀平が苦い顔をする。
日向の説明が一旦終わると、傍で二人の会話を聞いていた悠里が心配そうな表情で日向を見た。
「それで、日向君、蕾ちゃんは平気なの? 委員会の事は伝えてあるんでしょ?」
「うん、大丈夫。そっちもちゃんと何とかなりそうだから」
悠里の杞憂を払拭する様に、日向は悠里へと出来るだけ柔和な表情で応えた。
「という事は、月曜と金曜はお祖父ちゃん達の家で夜まで過ごすの?」
「ううん、その週に二日だけ、母さんが早く帰れる様に職場に掛け合ったらしいんだ」
日向の学校祭における委員活動について相談した所、翌日には母親からそう伝えられた。
正直、手回しの早さに驚いた日向は友人達の協力を求めればもう少し減らせるかもしれないと伝えたのだが、母親からは。
『余計な事は気にしないで、好きにやって来なさい』
と一蹴され、雅達の協力は本当にどうしようもなくなったら、と言う事になっている。
その言葉は、いつか父の仁から聞いた「日向自身に何かあった時は最優先に自分達が動く」という事を体現している様だった。
「なんか意外……かも、日向君の事だから、極力蕾ちゃんと一緒に居る選択肢を取るんだとばかり思ってた……」
珍しいものを見た、と言わんばかりに悠里が呟くと、日向は微かに笑って頷いた。
その顔には以前の様な気負いは見受けらない。
「俺も最初はそう思ったんだけど……ちゃんと親にも甘えようって考えたんだ。それと、皆にも」
全てを自分一人で抱え込める程、自分の器は大きくは無い。
そして、蕾に関しても、自分一人が頑張れば蕾が絶対に幸せという事も無い。
この数ヶ月、様々な出来事を通して再認識した事実達は、日向の行動を大なり小なり変化させた。
今日までの間に見る事が出来た蕾の楽しそうな表情も、自分一人では絶対に引き出せないものだったと、今の日向には断言する事が出来る。
「俺は俺のやれる事を、ちゃんとやって、皆と一緒に……学校祭を楽しみたい。想い出を作りたい」
かつて日向は、何かを護る為に何かを手放した。
「あ、でも蕾が学校祭に来るから、蕾が楽しいって言ってくれるのが最優先かな」
自分の出来る器を見極めて、その中にある選択肢のみを選び取って、その結果生まれた自分の中の悲鳴から目を背けて来た。
「お前は結局それか。まぁいいや、そういう分かり易い目的がある方が、俺は好きだ」
「くっはは、完全に権力の私物化じゃないか」
雅と秀平がそれぞれ、日向のオープン過ぎるシスコン発言に笑いながら答えてくれる。
「いいねいいね権力の私物化、あたしそういうの大好物だよ……あ、でも出来るだけ楽なポジション宜しく! あ、沙希と麗美にも手を回しておこうよー! あえて野党としてあたし達に何かと反対意見を突き付けてくるけど、結局は最後に賛成派に寝返って貰う事で表向きは完全な二院体制を見せつつその実、独裁政治をだね……!」
唯がいつもの賑やかしが似合う笑顔を向けてくれる。
日向は最後に、悠里を見る。
「皆、頼りにしてるから。頑張ろう」
その言葉を掛けられた瞬間、悠里は胸に熱い物が詰まり、ぐっと息を堪えた。
あの日の夜に感じた、自分の知らない日向に対する距離感も、寂寥感も、今この時だけは、全てがどうでもいいとさえ思えた。
ただ、日向がこうして友人達に囲まれて、自分に対して手を伸ばしてくれている。
「……うん!」
鼻の奥に感じる、ツンとした痛みを堪えながら、悠里は力強く頷いた。
本当の勝負は、ここからなのだ。
大変、お待たせ致しました……!
今回ばかりはストーリーどうのこうのではなく、改稿作業に取り掛かって遅れました……。
なるべく投稿速度は一定を保ちたいのですが、時折切羽詰まる事があるかもしれませんので、温かい目で何卒……。
(改稿と投稿を交互にやると、脳が混乱するという事を学びました。なのでこの話はリハビリ兼ねております)