突撃! 隣の……
昼食を挟んで勉強会後半戦。全員の手元にはコーヒーや紅茶等が並び、食後の眠気を抑える為にリビングの隅に設置されているオーディオからは軽快な洋ロックが申し訳程度の音量で流れている。
前半の流れからそのままグダグダになってしまうかと思われた勉強会だが、試験が近いという現実は変わらない。故に、ここで手を抜けば後で痛い目を見るのは自分達なので、誰ともなしに食事後は教科書を広げ始めた。
「……あめ……かーさ、すいか……」
その中で、蕾は平仮名の読みを覚える為の知育グッズと向き合っている。かるたの様にイラストと文字が書いてあるボードを指差し、声に出して勉強中だ。綺麗な正座で、何一つ文句を言う事無く真剣に取り組んでいる。
流石にこの光景を見せられて、自分だけ遊ぶという選択肢を取れない高校生達は、意地を見せるかの様に勉強に没頭している。
「栁……そっちの過去問、もっかい見せてくれ」
「あぁ、これか。……しかしほんと、よくもこれだけの過去問題を集められたな、鹿島……」
「持つべき者は良い友人と良い先輩なのよ」
「でもこれ、半分以上集めたのは私だよね?」
「そうそう、だから言ったでしょ麗美、持つべき者は良い友人だって」
「それ私の事だったんだぁ……!」
聴こえてくる声に、日向はふと顔を上げ、テーブルを囲う友人達を見渡す。そこには、お互いにノートやプリントを見せ合ったり、小声で問題の解き方を教え合う光景が広がっている。
「………うん」
また先程と同じく臍の辺りがむず痒くなる様な不思議な感覚に捉われるけれど、一人だけ気を緩めてはいけないと口元を引き結んだ。
「…………ふへへ」
そして、その光景を盗み見る人物が一名。
日向が何かを思い出したかの様に周囲を見渡した時、そして彼の口元が綻ぶ時……日向と目線が合ってしまわない様、注意しながら覗き込む悠里の顔も、同じ様に綻んでしまう。口元から変な声が洩れてしまう程に。
「むー………」
けれども、そうやって幸せな気分に浸った後、悠里の脳裏を過るのはあの夜に見た記事の事だ。あの記事で知った日向と、今の日向の姿が悠里の中では結びつかない。結び付けられる、そのビジョンが何もない。その事が、悠里には酷くもどかしい。
「………はぁ」
「悠里、さっきから何を百面相してんの?」
「い゛っ?!」
思わず漏れた悠里の溜息を察知した唯が、机に頬をくっつけた状態で悠里を見上げてくる。
「な、なんでもないよ! 問題が難しかったから……」
「ほーん……ほーん?」
「何よその声……」
無表情で悠里を見上げて来る唯に、悠里が若干身体を引きながら訊き返す。
「いやぁ、確かに難しそうな問題ですなぁ、と思っただけでね」
ぼそりと呟いた唯が見るのは、日向の隣に座る日和だ。日和は午前中程には密着していないが、それでも日向に熱心に質問を飛ばしたり、隙あらば日向の腕にくっつく様な仕草を見せている。
その光景に既に慣れてしまったのか、沙希達は例の噂話についての追及を悠里にして来なくなった。
それはつまり、彼女達の中では悠里と日向の関係よりも、日向と日和の関係の方が強いという印象になったという事で。
「………あんたさ、いいの?」
「何がよ……」
「外聞とか、気にしてる場合じゃないと思うんだけど」
小声で交わされる会話の中、唯の顔はいつものおどけた表情では無く、本気で親友を心配する表情だった。
「………わ、私は」
この光景が見られただけで、満足なんだよ。そう言おうとしたのに、口が回らない。口籠ってしまった悠里の顔を見ていた唯が、どうしたものかと苦笑いを浮かべる。
と、その時、沙希が突然に立ち上がって両手を天井に向けて伸ばした。
「もー限界! 超がんばった! 一旦休憩しようよ休憩!」
「さきちゃん、おへそでてるー」
「いやん……」
勢い良く背伸びをした所為で、お腹の部分のシャツが捲れているのを蕾が指摘すると、沙希はしずしずとお腹を隠す。
男子陣は『見ていません』アピールをする為なのか、一瞬だけ突然動いた沙希に視線を向けた直後、すぐにノートへと向き合っていた。
「もう、沙希……でも確かに、ちょっとこれ以上は眠くなっちゃうもんねぇ、何か眠気覚ましになる事でもする?」
麗美が眼鏡を外して目頭を揉みながら、一同を見渡して小首を傾げる。
すると意外な事に、秀平が右手をスッ……と挙げて厳かに宣言した。
「新垣の部屋が見たい」
「ちょっ」
突然の発言に、日向がほぼ反射で応える。確かに、今の一瞬で多少あった眠気は消し飛んだのだが。
「いや、単純に興味なんだが、マズイか?」
「ま、マズくは無いけど……自分で言うのもだけど、面白味が無いというか……」
「なら、少しお邪魔させてくれないかな。クラスの奴等に話す話のタネにもなる」
「栁……」
提案する秀平の声は、どこか日向を気遣う様な響きを持っていた。それは、この空気に染められて、秀平もまた日向をクラスに馴染ませてやりたいという想いから生まれた一言だったのだが、流石にクラスメイトに自分の部屋を見せるというのは、日向には若干抵抗がある。
というより、ほとんど来客が無かったこの家で、日和や雅以外に部屋を見せる経験が無かった。
「おにーちゃんのへや! いこー!」
「あっ、蕾ちゃん……?!」
逡巡する日向を完全無視した蕾がガバッと立ち上がると、悠里の手を引っぱり出す。
「よし来た、ガイドを得たぞ! 蕾隊員、行けー! あたし達を桃源郷に連れて行くんだ!」
「ちょっ……恵那さん!」
遂には悪乗りし始めた唯が蕾の背中を押す様に囃し立てる。
「悪いね新垣君……私も俄然、興味が湧いて来ちゃった……」
「あ、新垣君……私もちょっと見たいかも」
更には沙希と麗美が、その後に続く様にしてリビングを出ていく。沙希は悪い事を思い付いた子供の様に、そして麗美は申し訳無さそうだけど、眼鏡の奥にある瞳が好奇心を隠せていない。
「ちょ、皆……待った待った、せめて俺に案内を……」
言い掛けた日向の背後から、雅が羽交い絞めにしてくる。
「行け、行くんだお前等! 俺が数年掛かって見つけられなかった、日向の隠れたエロコレクションを見付け出してくれ!」
「そんなもん無いよ……!!」
蕾に聞かれて教育に支障が出たらどうするんだ、と思って雅を見るが、雅はニヤニヤと笑って拘束を解く気配が一切無い。
「安心しろ新垣、俺が……俺が見付けて女子の目には届かない位置へと隔離してやる」
そして秀平までもが、敬礼の様な仕草を取った後にリビングを出て行ってしまう。
リビングの中には、日向と雅、そして日和だけが残された。
「……あの、日向先輩、私止めて来ましょうか……?」
ドアに向かって手を伸ばす日向を憐れんだ瞳で見つめながら、日和がそっと呟く。
「い、いや……掃除はしてあるから、いいんだけどさ……まぁ、もう仕方ないや。とりあえず俺達も上に行こうか」
「だな。そういやお前の部屋に入るの、俺も久し振りか」
言いながら日向の拘束を解いた雅が、リビングを出ていく。その後に続いて自室へ向かおうとした日向の手を、日和がそっと掴んだ。
「あの、日向先輩……」
「日和?」
恥ずかしそうに伏せられた瞳と、少し赤くなった頬。中庭の事を思い出して、日向は少しだけ胸の鼓動が高くなる感覚を覚えた。
「………その、あるんですか? 部屋に……その、そういう本とか……」
「無いよ!! 断じて無いよ………!」
誰かが家に来た時に、リビングだけ案内して終わる。
そんな事が、あるはずもないのに……。