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子守り男子の日向くんは帰宅が早い。  作者: 双葉三葉
【三章 稔る秋、夕映えを友の影と。】
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体育祭:後編

 母との通話が終わり、現地に居る友人達と競技を応援しながら過ごしていると、いよいよ午前中最後である二人三脚の時間となる。

 場内に一年生から順に準備を行って下さいという旨のアナウンスが流れ、日向は緊張した面持ちで集合場所を見据えた。


「さて、俺達も行こうか」


 その言葉に悠里と唯が頷いて、二人で顔を見合わせる。


「やっべーあたし、緊張してきちゃったよ……」

「唯も何故か本番弱いわよね……いつも通り、ふわふわした態度で居ればいいのに」


 緊張を解す為か、軽口を叩き合っている二人を見ていた日向の後ろからも声が掛かる。


「頑張れよ、日向。芹沢も、恵那もな。転んで怪我なんてしないでくれよ」

「先輩方、頑張って下さいね! 私も此処から応援していますので!」


 雅と日和から激励の言葉を貰い、三人は揃って頷く。


「うん、ありがとう。行ってくるよ……見苦しくない程度に頑張らないと」


 親指を立てる雅と、拳を握って胸に抱き締める様な姿の日和に見送られ、三人は競技へと向かった。



 集合場所に着くと、一年生が既に出走しており、二年も出走順番に並びながら待機場所でその光景を見守る。日向の隣にはペアの栁秀平が居たが、緊張で肩の力が入ってしまっている日向と違ってリラックスしている様だった。


「そんな、失敗しても死ぬ訳じゃあるまいし……もっと気楽に行けよ」

「それもそうなんだけどさ……なんかこう、ちゃんと練習したからには、ちゃんとやらなくちゃと思って」


 軽く笑いながら日向に語り掛ける秀平に、日向も若干肩の力を抜いて答える。


「まぁ……気持ちは分からんでもないけどな。新垣ってこういう場面は慣れてないのか?」

「どうだろう、試合とかで観衆の前に出た事はあるけど、そういう時は直前で一気に集中するから、試合始まると全く気にならなかったんだけど」


 全国の試合と体育祭、明らかに今回の方が規模は小さくて、かつ責任という意味では無いに等しいのだが、心構えの問題だろうか。

 一人で試合に臨む時よりも、こうして誰かと一緒に何かを成し遂げるシーンというのは、通常よりも気を遣うものなんだな、と日向は再確認した。


「ほら、今走ってる一年とか見てみろよ。何人かは盛大にコケてるけど、笑いが起こったり逆に盛り上がってんだ。そのぐらいでいけよ」


 秀平の言葉に釣られて50メートル程の距離を一心不乱に走る下級生達を見たが、確かに皆は笑って居て、その姿を馬鹿にする者は居なかった。



 そして遂に日向達の出走が始まる。

 秀平と二人、お互いの片足を縛って肩を組むと、お互いに拳をコツンとぶつける。


「さっきはああ言ったけど、俺は転ぶ気なんかねーからな?」

「だよね。俺もだよ」


 高揚感からか、日向も秀平も小さく笑って周りを見る。

 日向達のレーンは一番内側の第一レーンで、そこから外周に向かって三つのペアが並ぶ。

 全員が揃ったのを見計らって号令係の教師がピストルを掲げたのが見えた。


 パンッ! という乾いた音と共に日向と秀平の脚が一斉に前に出る。ほとんど抵抗が無くスムーズに進んで着地した片足を確認して、すぐに外側の脚を前に出す。

 驚いたのは、練習の時に走るよりも余程スムーズだった事だろう。日向も秀平も、相手の呼吸を覚えたかの様に脚が前に出る。

 横をちらりと確認しても、日向達より身体一つ分は遅れているペアがほとんどだ。


「新垣ッ! 加速するか!」


 声に余裕すら感じさせる秀平の声に、日向も笑って返す。誰かと息を合わせて競技に臨む、久し振りの感覚は楽しくて、童心に還ったかの様だ。


「うん、行ける行ける! 併せるよ!」


 日向の言葉に応える様に、秀平と結んだ片足が柳の脚力によって前方に引っ張られる。

 それを上手くいなしつつ、次の一歩では抵抗感が無くなる様に日向も反応を早く返す。むしろ秀平の脚を前に引っ張り出すぐらいの勢いで。


「お前ッ! それ以上やったらコケるだろうが!」

「コケるつもりは無かったんじゃないっけ!」

「ああ?! ねーよ! くっ……ははは!」


 最早二人でお互いに脚を前に引っ張り合う様な形になり、お蔭でスピードは出ているが不安定極まりない走行ペースとなっている。

 ちらりとだけ横を見るが、勿論日向達に付いてこれるペアは居なく、視界にすら入らない。


『せんぱーい! もうちょっとでゴールですよ! 速い速い! 凄いです!』


 何処かから聞き慣れた声がした。日和の声だろう、確認しなくても日向には分かった。


(そうだ、こうして誰かと一緒に何かするなんて……最後にやったのは、日和とのダブルスだったっけ)


 去年、雅と時折関係の無い話をしながら、ただ流す為に終わっていた体育祭ではない。


 誰かと目標を作って、皆で楽しんで、応援し合って過ごしている。

 帰ったら蕾に今日あった事を全部話してあげよう。

 悠里が、日和が、唯が、雅が、自分がどういう一日を過ごせたのかを。きっと楽しそうに聞いてくれるだろう。

 もしかしたら、すぐに同じ事をしたがるかもしれない。そうしたら一緒に脚をこうして結んで、家の中でやってみて遊ぶのもいいかもしれない。


 そんな事を考えながら、更に更に加速していき、目の前にゴールラインが迫ってくる。

 それなのに日向も秀平も、スピードを弱めるつもりは毛頭無かった。

 ゴールを決める最後の一歩を踏み込むと、そこでようやく減速する為に脚でブレーキを掛ける。ところが、このブレーキのタイミングだけは最後の最後で合わなかった。


「え、おい、ちょっ……!」


 秀平が焦った声を上げるのと同時、日向も体勢を崩してしまうのを自覚する。勢いが付いているので、ここから二人同時に体勢を整えるのは無理だろう。

 日向と秀平は、蹈鞴たたらを踏む様に二歩ほど片足を衝いた後に、それぞれ地面へと倒れ込んだ。


「いっつ……! 新垣! 足、足首が締まるって!」

「暴れないで暴れないで! 余計に紐が痛いから……栁!」


 足首が固定されて不自然な恰好で倒れ込んでもがく二人の周囲に、やがて人が集まってくる気配があった。


「お前ら……バカじゃないか……」


 日向が見上げると、雅の呆れた様な笑い顔がある。


「日向先輩! け、怪我はしてないですか!」


 その横から、日和がオロオロとした心配そうな顔で覗き込んできた。


「新垣、栁! お前ら速ぇーよ! ゴール前ぐらい抑えろよ!」

「まぁでも見てて面白かった、新垣があんな馬鹿みたいに走るの初めて見たわ……」


 更に周りに、倒れる自分達を見下ろすクラスメイト達が居て、日向達を見て笑っている。

 何か返事をしようかと思ったが、身体が上手く起き上がらない。体勢が変になっているので、どういう風に身体を起こせばいいのか一瞬分からなくなってしまったのだ。


「痛ってぇ! 新垣、足を動かすな足を! 先ずはこの紐外すぞ!」


 足を動かした拍子に秀平の悲鳴が聞こえてきたので、慌てて足の紐を外そうと上半身だけ腕の力で無理矢理起こす。

 秀平も同じく、紐を外そうと上半身を起こした所で日向と目が合った。そしてお互いの体勢と汚れたジャージを見ると、吹き出す様に笑い合う。


「くっ……ふっはは……お前な、任せるとか言って自分から加速してるんじゃねーよ!」

「ご、ごめんごめん…柳ならあのぐらいでも平気かなと思って。まさか最後まで抑えに来ないとは思わなかったけど」


 走行後でテンションが高くなっている為か、呆れている周りを差し置いて二人で笑い合っていると、今度こそ現場に居た教師から「そこは危ないから、早く退く様に!」と注意を受けて慌てて紐を外す。


 すぐに係の生徒が二人に一着用の飾りを持って来て、それを掛けてくれるのを待つと一同はコースから外れる。


「お前らがバカしてる間に、もうそろそろ芹沢達が走る順番になってる。ほら」


 雅がスタート位置を指差すと、次の出走者に悠里と唯が見えていた。女子のトップバッター組だったのだろう。周りに居たクラスメイト達も、自分のクラスの女子と言う事で応援に入る様だった。


「あ……私、ここじゃお邪魔かもしれないので、あっちへ……」

「いいっていいって、今更だし」


 上級生に囲まれた日和が、身を小さくして移動しようとするのを雅が止める。

 日和の顔を見たクラスメイトや栁達が、日和の顔を見て「おや?」という顔をしている。


「なになに、この子……成瀬の彼女?」

「今更だけど凄ぇ可愛い……」


 囃し立てる男子陣に、日和は顔を伏せてしまい、恥ずかしそうに視線を動かして日向を見る。


「違ぇよ、この子は日向のだ」

「ちょっと成瀬先輩!? こんな所で何言ってるんですか!!」

「うぐぉ……! ひ、日和ちゃん、そこはヤバい、ヤバいって……!」


 けれど次の瞬間には、その雅の発言によって一瞬で激昂して雅の背中に握った拳を打ちつけた。

 幸か不幸か、そのやり取りで居辛さは吹き飛んでしまったのか「まったく……」と呟いた後、腕を組む様にして日向の隣へと立ち、悠里達へと視線を戻した。


 そして日向は、周りの男子から注がれる疑惑の視線に狼狽えながらも、掌を必死に振って「違う違う! そういうんじゃないから!」と否定せざるを得なかったが、そのお蔭で隣の日和は一層機嫌が悪くなってしまったのだった。



 かくして悠里達の出走を見届ける事になったのだが、日向の位置から見える悠里達は既に足を結び、お互いに肩を組んでいる。

 遠目から表情までは完全には見えないが、何となくリラックスしている感じが見えている。


 号令が鳴り響き、一斉にスタートしたペア達は最初横並びで、しかし悠里と唯がその後にやや遅れ気味になる展開となってしまう。悪くは無いのだが、やはりどこかまだぎこちなさが残ってしまい、加速するまでには至れていない。


 二人が日向達の前を通り過ぎるタイミングで、日向達からは激励の言葉が飛ぶ。


「芹沢! 恵那ぁ! 行け行けぇー!」

「いいぞいいぞー、転ばない様に人生安全運転でいけよー」


 秀平の気合の籠った声と、のんびりとした雅の声が重なる。


「芹沢先輩ー! 恵那先輩ー! がーんばーってー!」


 一生懸命にお腹から声を出す日和も、必死に二人を応援していた。


 日向も二人に声援を掛けようとした、その時……一瞬だけ目線を動かした悠里と目が合う。

 なんて声を掛けてあげようか、考えていた言葉は日向からその瞬間に消えてしまった。だから、一度だけ頷いて『大丈夫』というを言葉を視線だけで伝える。


 伝わったのかは分からない、けれどその視線を受け取った悠里もまた一度大きく頷いて、再び前を向く。


「わ、わ! ちょっと悠里!」


 唯の慌てた声だけが日向達に残されて、二人はグングンと加速した。

 突然の悠里の加速に、唯は体勢を崩しそうになりながらもしっかりとバランスをキープし始める。

 そうして、先頭走者をゴール直前で抜いての一着となった。


「やるなぁ、練習の時より全然いいじゃん」

「うん、元々息の合う二人ではあるから、本来なら最初からあのぐらいは出来てたと思うんだよね……なんで練習前はあんなだったんだか」


 秀平がゴールした二人を遠目で見ながら感嘆とした様に呟くのを聞いて、日向も安堵した表情で悠里達を見やる。

 二人は係員から一着の飾りを掛けて貰った後、日向達の方を振り向いて笑顔でピースを掲げて来た。その仕草に、思わず日向も応える様に手を挙げた。


「これで日向先輩も、芹沢先輩達も一着で、皆で揃って一着取れて良かったです! 日頃の行いですよね!」


 隣では日和が満面の笑みで手を合わせて喜んでいる。


「いや、あの、日和ちゃん……俺……二着なんだけど……」

「成瀬先輩はある意味そのポジションが一番おいしいのでいいんです」


 気まずそうな顔でぼやく雅の声すらも、日和は一蹴して黙らせる。鮮やか過ぎる返しに、日向も周りに居たクラスメイト達も思わず笑い声を漏らした。



 その後、昼食の時間となり競技は一時中断され、生徒達は思い思いの場所で食事を摂る事となる。

 ほとんどの生徒は弁当を持って来たり、コンビニへ買い出しに行ったりと様々だったが、中にはラーメン屋にまで抜け出して後々教師にそれがバレてしまい、正座で説教されている生徒まで出る始末だった。


 この日は日向も珍しく買い出し組で(これは単に晴れた場合に弁当の置き場所次第では悪くなる事を懸念しての事だったが)同級生達に誘われてコンビニまで出向き、雑談しながら戻って昼食を摂る事になった。


「日向君……もうすっかりお友達も出来たのね……あたしゃ嬉しいよ……」


 その光景を見て唯が芝居掛かった口調で涙を拭く真似をしたのを、日向はやや離れた位置から凍り付く様な視線で見咎めた。


 午後の長縄跳びでは、男女交互に並んで跳び、前に居た悠里の長い髪が跳ねる度に日向の頬に当たるのを唯にバカにされ、秀平達には冷やかされ。

 綱引きでは女子の声援を一心に受けたクラスの男子達が奮起し、決勝まで残ったものの三年生のトップチームには流石に勝てず、学年一位の総合二位という成績を収めた。


 最後のリレーでは、女子の中では思わぬ素早さを見せた唯の活躍により一位まで浮上し、短距離走では不甲斐無い成績に終わってしまった雅が唯からのバトンを受け、アンカーとして見事に一位で返り咲きを果たした。



 全ての競技が終わり、校長の長い演説を最後に聞いた日向達のクラスは、全員で一か所に集合して団子状態となる。

 その場所から少し離れた場所で、他クラスの女子生徒が一名、日向達に向けてスマートフォンを横向きに携えていた。


「それじゃ、撮りますよー、せーの!」


 女子生徒の言葉を皮切りに、日向達は全員で突き上げた拳と共に人差し指を一本、天に向けて指す様に立てる。

 競技での学年総合順位、一位。その言葉を示すかの様に、全員が笑顔と共に誇らしげな表情をしてファインダーに収まる。


 こうして、日向の高校二年での体育祭が幕を閉じた。





「さーて疲れた疲れた、疲れたけど……時間はまだ三時! こりゃ打ち上げ行くしかないね!」

「それもいいけど……私はお風呂入りたいかも、もう汗と土でべとべとだもん」

「ご安心ご安心、そういう女子の声が多いから、打ち上げは一時間後の四時スタートよ。カラオケの大部屋を貸切ろうって事になってる。あたしだって、汗臭い男子と一緒のカラオケなんか入りたく無いしねー」


 身体を大きく反らして伸びをする唯とは反対に、悠里は自分の姿を見て少しげんなりとしていた。

 確かに季節が秋になっているとはいえ、今日の様な晴天模様で一日中外に居たのだから、汗の量はいつもよりも余程多い。女子にとっては死活問題だろう。


「日向君は……どうするの? 打ち上げ、一応あるみたいだけど、行く?」


 不意に話を振られた日向は、咄嗟にいつも通りの言葉を返そうと口を開く。


「いや、俺は……」

「新垣、行こうぜ。一緒に遊んだ事とか無いんだから、偶には付き合ってくれてもいいじゃんよ」


 横から日向の言葉に被せて来たのは秀平だった。思えばここ最近で一番話す様になったのは、この秀平かもしれない。

 周りを見てみると、何人かが日向に興味の視線を向けているのが分かる。こうした催しにはレアキャラクターを通り越して未発見の珍獣クラスの出現率を誇る日向が参加するかどうか、気になるのだろう。


「成瀬も行くだろ? 芹沢も恵那も行くだろ、ならお前も来なきゃどうするよ」


 秀平の言葉に、日向は懸念を払拭するべきか考える。今日、この行事を通して仲良くなれたクラスメイト達と交流を深める事は悪い事ではない、どころか今の自分には必要な事だろう。

 だが、その返事をする前には一つ確かめておかなければならない事もある。


「その前に、ちょっと家に連絡だけ入れておくよ。……そのまま家で過ごす予定だったから、何にも言ってないんだ」


 そう言って少し離れた場所へ行き、念の為に母の携帯電話へコールすると、程無くしてコール音は途切れて通話状態になる。



『もしもし、日向? またどうしたのよ?』


 少しだけ呆れた様な明吏の声が日向の耳に届く。


「母さん? 今……体育祭終わって、これから一度帰ろうと思うんだけど」

『あら、そうなの。ならそのまま帰って来たらいいのに……なんでわざわざ電話してくるのよ』


 笑い声交じりに母が言われ、確認したい事があった為とは言え日向も少しだけ恥ずかしさを覚えた。


「その後、クラスメイトから打ち上げに誘われてるんだ。……それで、蕾の様子はどうかな、と思って。さっき聞けなかったから……」


 言いながら、普段と違い母が家に居るというのに、その母に二度も電話して妹の様子を確認するなんて、自分の事ながら過保護だな……と自嘲しそうになるが、それでも気になってしまうのだ。


『あぁ……えっと、打ち上げ行くなら、行っても平気よ。私は家に居るから……」


 だから、だろうか。

 前の電話の時や、今の電話越しに聞く母親の声に何か少しだけ、引っ掛かる所があるのは。


「………母さん?」

『うん?』


 日向は、少しだけ語気を強めて、しかしゆっくりと母親に問い掛ける。


「蕾に、なんかあった?」


 その言葉に、電話越しの明吏は少しの間だけ黙り……次に聞こえたのは軽い溜息だった。


『はぁ……。あんたの事だから、大袈裟に騒ぐんじゃないか、って思って私も黙ってようかと思ったんだけどね、帰って来るなら分かっちゃうだろうから、今の内に言っておくわ』


 母の返事に、やはり何かあったのかと、日向の背筋に一本の氷が入った様にヒヤリとした物が突き刺さる。


『蕾ね、急性腸炎で今日はずっと寝てるの。朝方には病院に行って、それがさっきあんたと電話してた時の事よ。薬も貰って、症状も落ち着いてるし重篤なんて事は無いから安心しなさい』

「な……」


 思わず息が詰まる。蕾が急性腸炎……それは分かる。病名は分かる。普通に大人も子供も罹る病気だ、日向自身も子供の頃に罹患した事がある、結構キツくて、お腹がジンジンと長い間痛むのを憶えている。


 だけど、今……明吏が言った事は、なんだったか。


「あ……朝方……から?」

『日向、後でちゃんと説明はしてあげるから、友達と行く場所があるなら、あんたはそっちに行きなさい。蕾には私が付いてるんだから。……日向?』


 母の言葉が、上手く日向の頭に入って来ない。


 朝方、と母は言った。今朝の事を思い出す。いつもより早く起きていた蕾が居た。

 ―――早く起きていた? 本当に、()()()のだろうか?

 もし、もしも蕾が発症していたのが今朝じゃなくて、その前からだとしたら?

 痛みで眠れない夜を過ごしていたのではないのか。


 すれ違った時の、あの匂いを思い出す。蕾が使う、果実の匂いがする歯磨き粉の芳香。

 何故か……簡単な話だ、口臭を消す為かもしれない。何の為に? 急性腸炎、その言葉と自分の体験を思い出す。

 すぐに思い至る。嘔吐したのだ。吐いて、その事を日向に気付かせない為に、歯を磨いた?


 必死で記憶を探ると、幾つもおかしい点は存在していた。

 寝る前と朝に見た時、蕾のシーツが変わっていた気がする。タオルケットも変わっていた? 確信が無い。


 でも、そんな幾つも幾つもある引っ掛かりは何の意味も無い。

 そう、問題はそこじゃない、そこじゃなくて……。


 ぐるぐると思考が回る、ジクジクとした痛みが胸の奥からやってくる。


「馬鹿か………」

『日向?』

「御免、一度切るね、すぐ帰るから」


 明吏の返答を待たず、スマートフォンの通話状態を落とす。

 そしてすぐに悠里達の元へと戻ると、自分の鞄をコンクリートの地面から持ち上げて踵を返す。


「俺は行けない。今日はありがとう、皆。……それじゃあ、また来週学校で」

「日向君?」


 悠里の戸惑った声が背後から聴こえてくる。けれど、今は一刻も早く家に戻らなければと、その想いだけで頭が一杯だった。


(おにーちゃん……あした、おまつりだよね?)

(んへへ……おにーちゃんがたのしいと、つぼみもうれしいよ。あと……つぼみ、ひとりでねられるから、へーきだよ)


 昨夜の蕾の声が、表情が頭の中で何度もリフレインする。


(おにーちゃん、ほらほら、おでかけのじゅんびしよー?)


 何故、蕾は自分に身体の不調を訴えなかったのか、なんて考えるまでもない。


(おにーちゃん、がんばってねー! みんなといっしょにー!)


 家を出る前に最後に見た、蕾の笑顔を思い出す。

 あれがきっと、その答えだ。



「馬鹿か………!」


「日向君、待って!」


 背後から悠里の声が響くが、日向は振り返らなかった。

 気付く為の切欠なら無数にあった、むしろ気付けない自分の方がどうかしてる、そう思えるぐらいに。

 何故気付けなかった? 答えなんて分かり切ってる。

 自分の気が緩んでいたのだ、学校の生活が楽しくなっていて、今日の出来事に対して自身で思っていた以上に期待してしまっていて。


 自責の念か、後悔か、自分でも処理しきれない感情が日向の中で大きくなっていくのを、日向自身が感じる。


「日向君っ!」


 ぐい、っと二の腕を掴まれる感覚と共に後ろへ少しだけ引っ張られ、足を止める。

 振り向くと悠里が心配そうな瞳で日向を見詰めていた、走って来たのか、その口元では少しだけ呼吸が乱れている。


「………蕾ちゃんに、何かあったのね?」


 余計な言葉を省き、確信を抱いた言葉で悠里が日向へと確認をする。悠里の表情は、何か良くない事でも起きたのだろうかと青褪めていて、その様子が逆に日向に平静を取り戻させる事となった。


「蕾が、急性胃腸炎だって。母さんが病院に連れて行って、もう薬も貰って、今は落ち着いてるらしい」


 母から伝え聞いた言葉を、そのままに悠里へと伝える。日向の雰囲気から、余程悪い想像でもしてたのか、悠里の顔から安堵の溜息が洩れる。


「そ、そっか……良くないけど、良かった……凄い剣幕だったから、交通事故か何かに巻き込まれたのかと思っちゃったわよ……」


 へなへなと日向の二の腕を掴みながら、膝の力が抜けた様に悠里の身体がずり落ちて行く。

 けれど対照的に、日向の顔色が晴れる事は無かった。


「症状が出たの……多分、早ければ昨日の晩か、それよりも前から。遅くても早朝なんだ。……俺が、家に居た時間なんだよ」


 絞り出す様な日向の声に、悠里は何かを感じ取ったのか両足に力を入れて真っ直ぐに日向を見た。


「……そっか。だから、そんな風に焦ってるんだ。蕾ちゃんの不調に気付けなかったから」


 焦っている、と言われても日向は自分が果たして焦っているのか、それとも苛立っているのか……悲しんでいるのかも分からない。


「だったら尚更、日向君が落ち着いて、そして帰ってあげないと駄目じゃない。蕾ちゃん、具合が悪いんでしょ? ……そんなピリピリした雰囲気の日向君が家に帰って着ちゃったら、もっと具合悪くなっちゃうかもしれないよ」


 悠里の指摘に、日向は何も言い返す事が出来ず、一度大きく深呼吸をする。

 悠里の言う事は尤もで、こんな状態の自分が家に戻っても蕾にも、母にも迷惑なだけなのだ。


「蕾ちゃんがなんで日向君に何も言わなかったのか、日向君なら分かるよね?」


 考えるまでも無い質問だった。蕾は賢い子だ。何かあったら必ず両親か日向に言伝する様に日々言い聞かせているし、危ない事はせず、些細な事でもちゃんと教えてくれる。


「なら、先ずはちゃんと、蕾ちゃんを抱き締めてあげないと。そして、ちゃんと叱ってあげる事。……それが日向君の役目だよ」

「……うん」


 兄として、蕾の気遣いで嬉しいと思う部分と、悔しいと思う部分、そしてしっかりと叱らないといけない部分。その全てが、今の日向が蕾にしてあげられる事だろう。


「後は、蕾ちゃんの容体がどうなのか、私達にも教えてよ。心配しているの、日向君だけじゃないんだからね」


 悠里の言葉に、離れた位置にいる雅と唯を見た。二人とも、何かを考える様にじっとこちらを見ている。


「うん、分かった。……ありがとう悠里」


 そう言って、ようやく日向は落ち着いた気分を取り戻して、それでも少し足早に家への帰路を急ぐのだった。

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