幕間:長い夜
悠里達と練習をしたその日、日向はまだ若干ご機嫌斜めな蕾と手を繋いで帰路に着き、夕飯の支度に取り掛かった。
蕾はあれから少し機嫌を直してくれたみたいで、帰宅する頃にはいつもの笑顔を向けてくれていたが、今回のは完全に日向の落ち度だったので、今晩の夕飯には蕾が好きなハンバーグを焼いてあげる事にした。
食事の支度が整い、蕾をテーブルに呼ぶと二人で隣合わせで手を合わせる。
「いただきます」
「いただきまーすー」
ハンバーグの焼き加減を確かめようと箸を入れると、肉汁がしっかりと出てくるし、中に赤さは無く、火が通っているのが確認出来る。
「うん、ちゃんと焼けてる。……蕾?」
隣を見ると、蕾が箸を持ちながら少しだけ俯いたまま、何も言わずに居る事に気が付いた。
「どうした、お菓子でも食べてお腹一杯になってる?」
それとも、先程の事をまだ怒っているのだろうか、そう考えていた日向に蕾はハッとした顔で振り向いて、笑顔で首を横に振った。
「だ、だいじょーぶ! へいき! いただきまーす!」
そうして白米と小さめのハンバーグを交互に食べ始めるのを見て、日向はほっと安堵する。機嫌は直っているみたいだったが、まだちょっと不機嫌なのか若干顔が引き攣っている様にも見えた。
「……そっか、何かあったらちゃんと兄ちゃんに言うんだぞ。それと、今日はごめんな……」
蕾の頭をそっと撫でると、蕾はくすぐったそうに首を竦めて笑顔を返してくれる。
「おにーちゃん……あした、おまつりだよね?」
「お祭り……ああ、体育祭な。お祭りって言うよりは、なんていうか……皆で運動しましょう、って日なんだけど。いつもよりは早く帰れると思うから、早目に迎えに行くな」
「……うん、わかったー」
返事をした後、蕾が普通に食事に箸を伸ばすのを見た日向は、自分の分に箸を伸ばして食事を続けた。
夕飯の片付けが終わってお風呂の支度も済んだ後、蕾がソファーで横になっているの見付けた。今日は幼稚園で沢山遊んで、疲れているのだろうか。そう思って顔を覗き込むと、蕾は起きていたようで日向と目を合わせると、むくっと起き上がる。
「蕾、眠いか? お風呂沸いたけど……シャワーだけにするか?」
「……うん、ちょっと眠い」
「そっか、それじゃさっくりと終わらせちゃうか」
日向の首に手を回した蕾を抱っこの状態にして持ち上げると、日向はそのまま脱衣場まで向かった。
シャワーが終わり、パジャマに着替えさせると素早く蕾の歯を磨く。
先程から、蕾の反応が鈍い。
「……蕾、具合悪いのか?」
蕾の歯を磨きながら問い掛けると、蕾は首をふるふると左右に振る。
「ね、ねむいの……」
「……そっか。なら早く寝よっか」
そうして何でもないと答える蕾の歯を磨き終え、洗面所で口を濯いだ後に日向は蕾を部屋まで運んで、ベッドにそっと寝かせる。
蕾は眠気が限界なのか、抵抗せずにすぐに横になると、一度だけ日向の手を握った。
「……おにーちゃん…あした、がんばってね」
「ん……? うん、そうだな。でも頑張り過ぎて怪我しない様にしなくっちゃな」
「んへへ……おにーちゃんがたのしいと、つぼみもうれしいよ。あと……つぼみ、ひとりでねられるから、へーきだよ」
「そうか?」
そのまま手を離した蕾の顔を見ると、蕾はじっと日向の顔を見て笑っている。大丈夫そうなら、と日向が立ち上がってドアに向かう、その背中を蕾はまだ見続けている。
「おやすみ、蕾」
「おにーちゃん、おやすみー」
そうしてバタッとドアが閉じて数秒すると、蕾は身体をくの字に曲げた。
「……うぅ……」
夕方頃からだろうか、最初は小さい違和感だった。胸焼けと僅かな腹痛を覚えた蕾は、日向にそれを告げようとした。
けれど、今日の出来事や明日の体育祭の事、悠里達と過ごす時間を以前よりも楽しそうに話す日向を見ていると、言い出せなくなってしまった。
蕾は、自分が兄から大事にされている事を十分過ぎる程に理解している。
だからこそ、その兄が楽しみにしているであろう体育祭を邪魔する事はしたくなかった。
蕾の兄は、蕾が笑う顔が大好きだと言って頭を撫でてくれるけれど、蕾も兄の笑った顔や優しい顔が大好きだった。
「うえぇ……き…きもちわるい……」
胸元に吐き気がせり上がってくるのが分かる。自分の身体に何が起こっているのか、蕾には理解出来ない。
腹痛と胸焼け、身体が少しだけガタガタと震え出す。
そういえば今日、幼稚園で同じクラスの男の子が突然吐いてしまって騒ぎになり、途中で帰ってしまった事を思い出した。
蕾も今すぐにどこかに吐いてしまいたい衝動に駆られるが、部屋の中で吐いてしまうと後で兄に気付かれる気がして、我慢する事を選ぶ。
もう少し、もう少しで兄が寝る為に部屋に戻るだろう。
いつも何時に寝ているのか蕾には正確な時間は分からないけれど、兄が寝て……両親が帰って来たら兄には内緒で薬を貰おう。
「う、うぅ……うぇ……」
腹部の痛みが次第に増して行き、痛みに涙が出てくるのを必死に堪える。
(……せんせーが、いってた……なんだっけ……きゅうせー…ちょーえん……)
昼間に先生達に介抱されていた同じ組の男の子に、先生が言っていた言葉を思い出す。
けれど、その思考も次の瞬間にやってくる吐き気で全てが消し飛んでしまった。
そうして、蕾の長い長い闘いの夜が始まった。