親の心、子知らず。
蕾と二人で遊び歩いたその日の晩、日向は父親の仁が風呂から上がってくるのを、ダイニングテーブルに座りテレビを見つつ待っていた。
画面の中では少し前にロードショーされていた洋画が、地上波初放送という名目で流されているが、それを横目で見ながら麦茶を口に含む。
「蕾、大分はしゃいだのね。ぐっすり寝てる」
母の明吏が蕾の部屋から戻って来た。帰宅してから間もないのか、明吏はまだスーツ姿のままで、日向の向かいに座った。
「今日は始業式とホームルームだけだったから、遊心堂まで遊びに行ってたんだよ。だからかな……」
「そう……いつもありがとうね、日向」
明吏はそう言うと立ち上がり、風呂上りの仁と夕飯にする為、作り置きの料理が乗ってある皿をレンジへ入れ、味噌汁の鍋を火に掛けた。
暫くすると、仁と明吏がテーブルに着いて夕飯に口を付ける。
日向も同じくテーブルに座り、先程と同じ様に画面に流しっぱなしの映画を見ながら、両親が食べ終わるのを待っていた。
その様子に、仁が訝しみながら隣の日向を見る。
「どうした……? なんか食い終わるのを待たれてるみたいで気持ち悪いんだよ、小遣いでもせびるつもりか?」
半分冗談交じりの言葉に、日向は苦笑いで返す。
「違うよ、ちょっと学校の事で相談があって。食べ終わった後の方がいいかなって」
「そういう事か、別にいいから言っちまえ言っちまえ。別に悪い事じゃないんだろ?」
「うん、そういうのじゃないよ」
仁が味噌汁を啜り、一旦食器を置きながら日向にそう返して来たので、日向も姿勢を前に戻す。
「学校祭、あるんだけど。それのクラス委員……っていうのになって。準備期間中は勿論だけど、そこから連絡会とかあるともう少し遅くなりそうなんだ。予想だけど、準備の開始は二週間後、そこから学校祭がある十月の下旬までは続くと思う」
日向の意外な言葉に、両親は揃って驚いた様に口を開ける。
テニスの再始動に引き続き、去年までとはまるで違う長男の行動に驚いているのだろう。
「それで、爺ちゃんと婆ちゃんには話して来たんだけど、蕾を夜まで預かって貰うかもしれない、って。先に父さんと母さんに相談しなかったのは、御免。今日のホームルームで議題に上がって、急だったんだ……それで」
「日向」
焦って一気に説明しようとする日向を、仁が静かな声で止めた。
「学生が学校の行事をするのに、親の許可なんて必要あるか。好きにやれ、って言ったろ」
呆れた様に笑って言う仁に、日向は「うん……」とだけ頷いて、少し肩の力を抜く。
「いいじゃないか、クラス委員。学校祭、去年は行けなかったからなぁ……お前が適当過ぎて、日程が伝わって来なかったからよぉ……」
小皿の料理を突きながら仁がぼやくと、明吏も日向を見て一度頷いた。
「日向。母さんね、有給が余っててそろそろ消化しないといけないの。二週間ずっとは無理だけど、一週間ぐらいは取れるのよ。まぁ明日急いで申請して、会社に説明しないとだけどね? 小さい子供が居るっていうのは会社にも伝えてあるから、融通は利かせてくれるでしょ」
普段通りの穏やかな声で話す母に、日向はまた「うん」とだけ頷いた。
恐らく、言う程簡単では無い筈だ。明吏が蕾を産んだ後、育休が終わると仕事に戻ったのは日向に蕾を任せられる、という部分もあるが、それ以上に明吏の会社にとって明吏の存在が必要だったのだろうと日向は思って居る。
だけど、それを表には出さずに居るのは日向に後ろめたい思いをさせたくない、その一心だという事も、日向には分かる。
だから、日向にとってここでの親孝行とは、両親の気遣いに子供らしく甘える事だと思えた。
「父さん、母さん。そういう事なので、宜しくお願いします。それと……皆で楽しいものを作るから、今年は蕾や爺ちゃん達と一緒に来て欲しい」
頭を下げた後、少しだけ恥ずかしそうに言う日向を見て、仁と明吏は顔を見合わせて笑うのだった。
風呂に入り、自室に戻った日向はスマートフォンを確認すると、時刻が午後の十時半を示していた。
特にする事も無く、何となくラケットバッグを漁って愛用のラケットを二本取り出すと、軽く握ったり回してみたりして手の感覚を思い出す様に動かしてみた。
そんな事をして五分程が経過した辺りで、スマートフォンが通知を伝える。
片手でタップして画面を見ると、日和からのメッセージが入っていた。
送信者:上月日和
『こんばんは、日向先輩。夜分遅くにすみません、何かしてます?』
そのメッセージに、日向は一度手元のラケットを見てからスマートフォンのカメラモードを起動させて一枚撮る。
アプリのチャット欄から画像を送ると、画面には日向が撮ったラケットの写真が掲載された。
送信者:新垣日向
『日和、こんばんは。いや、何もしてないけど、何となく手持ち無沙汰でこいつを軽く触ってた』
日向がメッセージを送って、すぐに既読状態となったが、その後日和からは数分間メッセージは届かない。
もしかしたらベッドに入りながら操作している内に寝てしまったのでは、と日向が考えた頃にスマートフォンから着信のメロディが鳴る。
「お……っと!」
驚いた日向が慌てて通話状態にして耳に当てると、日和の小さい笑い声が聞こえてきた。
『ふふ……なんですか、今の声。ごめんなさい、ちょっと声が聴きたくなって……電話にしちゃいました』
日和のか細い声が耳元に掛かる。夜更けだからか、日和の声は内緒話をする時の様に抑えられていて、それが逆に電話での距離を感じさせない。
「いきなり着信鳴ったから驚いたよ、マナーモードにしてなかったから……」
言いながら日向はラケットをバッグに仕舞い、そのままベッドに仰向けになる。
『試合の日以来、直接先輩方と会えてなかったから……日向君とお話したいなーって、ちょっと我侭しちゃいました』
敬語を交えながらも、日向の呼び方が昔に戻っているのは無意識なのか意識的なのか、日向には判断出来なかったけれど確かにあの日以来、日和とは直接対面していない。
「なんだか夏休み中は前半から沢山遊んだからね、全員疲れ果てた様に大人しくなってたなぁ」
あの試合の後、日和は自分が不参加だった個人戦を、上級生の応援にと現地に行っていたり、唯や雅は部活の関係で少し遅くなったお盆なんかを過ごしていた。
時折何処かに行こうか、という声もグループトークで持ち上がったが、全員が揃う機会は遂に無く。結局は各々が悠々自適に過ごす時間となった。
『先輩は、あの後少し練習とかしてたんですか?』
何の練習を、とは言われなかったけれど、日向と日和の間でその言葉が指すのは一つしかない。
「うん。壁打ちぐらいだけどね。最初、全っ然打てなくてさ……サーブ打ったら空振りした時は呆然としたよ。ベンチで見てた蕾に笑われて、暫くショックで立ち直れなかった」
『あははは! 日向君が空振りする所とか、凄いレアですね! つっついいなー私も見てみたかったぁ……』
「いやいや、勘弁してよ……悠里や恵那さんなら兎も角、昔のプレー知ってる人に見られるのは相当恥ずかしいんだから……」
思わず漏れた日向の言葉に、日和が「むっ……」と息を顰めるのが分かった。
『なーんか今のは、芹沢先輩や恵那先輩なら恥ずかしい所見られても平気って言ってる気がするー……』
棒読みの様な言葉に、電話の向こうで唇を尖らせる日和が浮かんで、日向は思わず笑いそうになったが必死に堪える。
「ち、違う違う。あの二人はさ、俺が何となく経験者だってのは知ってるけど、実際にどういう風にやってたのか知らない訳でしょ。だから下手でも納得してくれそうで……」
『ふー……ん、まぁ、そういう事でいいですよ。成瀬先輩と同列なのがちょっと気に入りませんが、私達には恥ずかしい所見せられない、格好つけたいって事ですもんね!』
格好つけたい、の辺りを多大に是正したかった日向だが、そう言われると確かに間違ってもいないと思えるので、何も言えなくなる。
そうして話が一段落した所で、話題が学校についての事に移り変わった。
始業式の校長の話、夏休み中に付き合いだしたクラスメイトの話などなど、些細な事でも日和は何でも話してくれて、そうして日向に何でも聞きたがった。
『日向君のクラスは、学校祭って何かやるの? いいなー、そっちは皆一緒で……』
問い掛けと同時に愚痴る日和の口調は大分砕けていて、完全に昔の状態に戻っている。
「ん、特にまだ決まってないんだけど……」
学校祭の話になると、必然的にあの話を持ち出さなければいけないが、今さっきの日和の言葉が何となく日向に言い出す事を躊躇わせる。
『……何か問題でもあったの?』
「いや……ちょっと頑張り過ぎて、クラス代表に立候補しちゃった……」
『へー! 日向君がクラス代表やるんだ! 絶対見にいこ……』
日向の思い切った告白にも、日和はさして驚く事無く応じて見せた。それが逆に日向にとっては予想外の反応で、今までの友人、両親の反応と大きく違う事に疑問を覚える。
「……日和は驚かないね?」
『驚く、って。いや驚いたけど、そこまででも……? どうして?』
どうして、と改めて訊かれると、日向本人にしてみれば答え辛い質問でもある。
なんと答えたら伝わるかを必死に考えていると、不意に日和が『あぁ!』と納得した様な声を出した。
『そっか、日向君は今、学校ではヒッキーなんだもんね!』
一撃で精神を抉り取る言葉を放つのは、直接的な物言いを好む体育会系だなぁ、なんて呑気な考えをしながら日向は心の中で涙を流した。
「そ、そうだね、まあ、うん。皆と別に仲が悪い訳じゃないんだよ、ただお互い不干渉というか、相互不可侵を締結してただけだから……」
『それって単に日向君がつっつのお世話したいから、自分から構ってくるなオーラを放ってた、って成瀬先輩が言ってた気がするけど』
「いえいえ、滅相も御座いませんよ……」
畳み掛ける様なサーブ&ボレーにいっそ清々しいまでの純粋さを感じた。
『私は別に驚かないかな……だって、私の知ってる日向君……誰より真面目で、決めた目標には真っ直ぐで……個人プレーは多かったけど、チームリーダーみたいになっても絶対に活躍するって思ってたもん。成瀬先輩も同じだと思うよ? 凄く癪だけど……多分、日向君の事を一番理解してるのって成瀬先輩だから』
日和からそう言われて、日向は雅の言動を思い返してみると、確かに雅は大して驚いていない感じはした。
むしろ「やっぱり来たか」とでも言いそうな調子で、担任に返す言葉もあらかじめ用意していた節があったが、まさか……と日向は今一つその想像に自信が持てない。
「そう言われるとそうかもしれないけど、雅が何を考えてるのかは俺にはそこまで深く分からない事あるからなぁ、今日だっていきなり立候補してきて驚いたぐらいだし……」
『はぁ!? 成瀬先輩も立候補? 日向君に対抗してきたの?』
半分だけ呆れが混じった様な声を日和が出したので、日向は慌てて弁護しようとするが。
「あ、いやいや、補佐って立場でね。皆手伝ってくれる事になって」
『み・ん・な?』
こうして再び日和の疑惑を煽ってしまう結果となった。
順序立てて説明しようとしたが、こうなっては既に手遅れだと思い日向は一連の出来事を全て話す事になった。
『えー! 皆で一緒にクラス委員ですかー! そんなぁ、私一人だけ除け者じゃないですかぁ……』
案の定、驚いて声の高くなった日和だが、最後の方は段々と声が小さくなり、しょんぼりとした声色に変化する。
「俺が一人でやると、ほら……他の生徒達と連携取り辛かったり、蕾の事で離れなくちゃいけない時は会議とか代わってくれるって事でさ」
『うーわ成瀬先輩、カッコ付けすぎ……まぁ、良いと思いますけど、そういうの』
そう呟く日和の声は、やはりどこか寂しそうに聞こえる。
『まぁでも、こればっかりは仕方ないですよね。ウチのクラスもまだ何やるか決まってませんけど、当日はこっちにも来て下さいね! あー私もクラス委員とかやれば良かったなぁ……』
「そうだね、今年はちゃんと、色んな所を見て回ってみようかな……」
そうして、その後もぼやき続ける日和を宥めている内に夜は更に過ぎて行った。
日和の出番が少なくなりそうだな、と思ってましたが、今の日和はいけいけモード。
そして親子の会話。子供が大人に移り変わる様に、早過ぎた大人は子供へと少しだけ還ります。
日に日に増えるブックマークを見る度、読んでくれてありがとう御座います、という気持ちを忘れずに居る事が出来ます。
初めて筆を取って、今日で恐らく二ヶ月が経ちました。
書き始めて気付いた事や、学んだ事は数知れず……ここまで応援して下さった方々には感謝してもしきれません。