歩くような早さで
日向の立候補に、教室が喧騒に包まれると小野寺教諭が咳払い一つで生徒達を黙らせる。
「それでは、学校祭のクラス委員代表に新垣。補佐に成瀬、芹沢、恵那の三名を置く。他に意見がある者が居れば挙手する様に………居ないか、ではこの四名に委員を決定する。委員ではない者も、準備期間や当日は積極的に支援してあげるように。以上、今日はここまで、帰宅して良し」
その言葉を皮切りに、教室は再び喧騒に包まれる。
日向は呆然とした面持ちで椅子に座ったままだったが、周囲で話すクラスメイト達の声が耳に届く。
「新垣が出てくるって珍しいな……」「でも助かったね」「いいんじゃない? 新垣君なら真面目そうだし、ちゃんとやってくれると思うなぁ」
幸いな事に否定的な意見は無く、むしろ物珍しさを言い合う声が多く聞こえた。
それについては日向自身も自覚しているので、むしろ当然の結果と思える。
そんな教室の空気の中、ふっ、と息を吐いた日向に、隣の雅が声を掛けてきた。
「思い切ったな?」
鞄を机に置きながら言う雅の顔は、特に驚いた風でもなくいつも通りの表情だった。
「それ、こっちの台詞なんだけど……雅こそ、よくあそこで手を挙げられたよね」
そんな親友の言葉に、先程まで感じていた緊張感が緩むのを感じて日向は顔を綻ばせる。
「新垣くーん、あたしも! あたしも手を挙げたよ! 褒めてよー!」
「うん、恵那さんもありがとう。助かったというか、ほっとした、カッコ良かったよ」
「うおおストレートに褒められて感謝された! いっそ恥ずかしい!」
横合いから声を掛けてきた唯が、素直な日向の言葉に両手で顔を覆って悶えている。
そして席から立ち上がった悠里もやって来ると、日向を見て嬉しそうに微笑んだ。
「最近の日向君、何かちょっと変わったから……ここら辺で大きい事やりそうだなーって思ったら、ほんとに手を挙げちゃったんだもん。驚いたよ」
「俺が手を挙げた時に、声を挙げちゃったのって悠里だった?」
「き、聴こえてたんだ……」
日向の指摘に、恥ずかしそうに髪の先を指先で弄りながら悠里が視線を泳がせた。
「それでも、一緒にやってくれるって言ってくれて嬉しかったよ、ありがとう……」
言いながら軽く頭を下げる日向に、悠里が手を振って「ううん」と答える。
「誰かがやらなくちゃいけない事を、進んでやる……って、大変だもの。凄いね、日向君は。毎日ちゃんと、前に進んでる。私はその勇気とか、行動を見習わなくちゃ、って思っただけだもん」
「そうかな……? 今のは結構自分でも、無茶したな……って思ってるんだけどね」
「それでも、最後まで訂正しなかったでしょ。そういう所はね、格好良いよ」
こうして目の前で女子から褒められると、流石の日向も表情が崩れる。
「あ、……いや…」と困惑しながら照れた表情で、視線を悠里から外した。
「悠里、こんな教室のど真ん中で新垣君を口説くとは……恐ろしい子……」
唯が演技掛かった台詞を呟きながら、目を白目にしてみせる。
「く、口説いてないわよ! そしてその顔止めてよ! ちょっと怖いから!」
そんなやり取りをしている内に時間は過ぎて行き、教室からは半分程の生徒が既に居なくなっている。
少なくなった生徒達の中でも賑やかな四人は一際目立つのか、残った生徒達から好奇の視線を向けられており、その視線に気付いた悠里が恥ずかしそうに顔を伏せながら唯を見る。
「わ、私達も帰ろうか……唯、今日は部活あるの?」
「んー、ミーティングだけだったかな。三十分ぐらいで終わるけど、どっか行く?」
その提案は悠里に向けたというより、この場に居るメンバーに向けた言葉に聞こえる。
悠里は少しだけ首を傾けると、考える様な素振りを見せた。
「うーん……今日は帰ろうかな、って思ってたんだけど。二人はどうするの?」
そのまま、日向と雅に話を振ると、雅は軽く憂鬱そうな顔をする。
「俺も同じだよ、ミーティングがあるからな……」
雅の答えを聞くと、悠里はそのまま視線を日向へと移す。
「日向君は……まぁ、聞くまでも無いのかな?」
「そうだね、このまま蕾を迎えに行って……夕飯の買い出し、支度、その他諸々かな」
「ほんと、そこは全く変わらないよね。ふふ……それじゃ、帰宅部組も帰宅という部活に励みましょっか」
日向の答えに悠里達三人は目を合わせて笑うと、悠里の言葉に頷いて各々は荷物を纏める。
やがて手を振りながら教室を出て行く雅と唯に別れの挨拶を済ませ、日向は悠里と共に教室を出た。
「それじゃ、俺もここで。また明日ね」
生徒用の玄関に着いた辺りで日向も悠里へと挨拶を済ませると、悠里は驚いた様な顔になった後、じっとりとした視線を日向へと向けた。
「……なんでここまで来て別々に帰ろうとするのよ、商店街付近までなら一緒なんだから、一緒に帰ってもいいじゃない? なによ日向君、私の事が嫌いなの?」
「ち、違う違う、そうじゃなくて。えっと……なんて言えばいいのか、そのね。ちょっと周囲が騒がしいから、あんまり人目に付く様な事はしない方がいいかな、っていうのか、あー……」
不貞腐れた様に頬を膨らませる悠里に、日向は慌てて誤解を訂正するが、何と伝えればいいのかを迷ってしまう。
望から探りを入れられた件もあり、更に身から出た錆とは言え自分でクラス委員みたいなものに立候補までして、そこに悠里を含む友人達が助力を申し出てくれたのだ。
ここに下校が一緒というシチュエーションが加われば、噂が加速するのが目に見える。
「あ、そういう事ね。別に手を繋いで帰りましょう、って言ってる訳じゃないんだから平気だよ。それに、モールだってキャンプだって、花火だって行ったんだよ? 私達。 日向君はそんな相手を、見られて恥ずかしいから……って理由で一人で帰る事を要求するのかなー」
日向の逡巡に呆れた様に笑う悠里だが、彼女も恥ずかしいのだろうか、冗談交じりの言葉を言うその表情には照れの様なものが浮かんでいる。
そして、そこまで女子に言わせたとあっては、日向もむしろ決心が付いた。
「分かった、何時までも此処に居る方が目立つ。うん、このまま一緒に帰ろう」
そう言って神妙に頷く日向が面白かったのか、悠里が少しだけ照れた顔色のままで笑った。
通学路を歩く日向の半歩だけ後ろから、悠里が歩いて付いて行く。
学校から離れて、生徒の数が疎らになった辺りで悠里が口を開いた。
「学校祭、楽しく出来るといいね」
「うん、俺にどこまでやれるか、分かんないけどさ。今までずっとクラスの皆とはあまり話もしてなかったし……」
高校に入って、二年生になって今になるまで、日向はずっと蕾と一緒に過ごす時間を優先して生活してきた。
その自分に、どれだけ他の人間が協力してくれるだろう、その不安だけは尽きない。
「平気だよ、少なくとも私達は日向君と一緒だし。皆もね、折角の学校祭だから楽しくやりたい筈なんだよ」
「そうかな、そうだといいな……」
悠里の言葉に、日向の心は少しだけ軽くなる。どちらにしろ賽は投げられてしまった、日向自身が投げてしまった。
なら後は自分に出来る事を精一杯やるだけだと、気持ちを入れ直そうとした日向の隣に悠里が並び、その顔を覗き込む。
「皆と上手くやる事は、私達に任せて。日向君は、蕾ちゃんが楽しめる様にする事を一番頑張るといいんだよ」
「……蕾が?」
唐突な悠里の発言に日向が面食らう。
「そう。学校祭は学外の人も来れるでしょ? 父兄父母もそうだし、他校の生徒まで。それとも、蕾ちゃんを呼んであげないの?」
その言葉に、日向がハッとして立ち止まる。悠里も一緒になって立ち止まると、二人は向かい合う様な立ち位置となる。
「私はね、日向君が蕾ちゃんの事になると一番強くなれる事を知ってるの。蕾ちゃんの事を考える日向君が、一番……格好良いんだよ。だから、大丈夫。蕾ちゃんの為に頑張る日向君なら、絶対に失敗なんてしないよ」
真っ直ぐに向けられた瞳で、力強い声で押し出された声に後押しされるように、日向は一度頷く。
「うん……うん、そっか。そうだね、それなら……俺にも出来るかもしれない」
一人ではなく、友人達と一緒に挑戦するからこそ、お互いの不足をフォローし合う。
そんな当たり前の事をついさっき、教室の一幕で雅から思い出させて貰ったのに、自分はまた忘れているらしいと日向は内心で自分を笑った。
「でもさ、俺も……ちゃんとやるよ、皆と話して、全員で良い想い出にしたい。蕾の為にも、皆の為にも頑張ろうって思う。そうじゃないと……手を挙げた意味が無くなっちゃうからさ」
片方だけを見て、もう片方を見ない。
その生き方は既に今の日向は望まない、だからこそ。
「どっちも楽しいのが一番だよね」
自然と口に出せる今の自分を、日向は嫌いではない。
「欲張りさんになったね?」
歩き出した日向を追う悠里の顔も、期待に満ちて綻んでいる。
二人はそのまま、お互いの道が分かれる交差点まで他愛の無い話をしながら歩き続けた。
日向が祖父母の家に着いた頃、蕾はお昼寝の真っ最中で、リビングを覗くと子供用のマットレスを敷いた上で大の字になっている蕾が可愛らしい寝息を立てている。
「大体三十分ぐらいは寝てるから、もう少ししたら起きるんじゃないかね。起こすのは可哀想だし、日向も少し休んで行きなさいよ」
一緒にリビングへと入ってきた祖母が蕾にタオルケットを掛け直しながら日向に柔和な笑みを浮かべる。
時計を見ると時刻はまだ午後の一時にも満たない、夕飯までには十分過ぎる程に余裕がある。
「それじゃ、起きるまで待ってるかな……」
祖母から貰った麦茶のコップを片手に、日向は蕾の傍に腰を降ろす。
時間があるなら、今日は考える事が沢山あって事欠かないのだ。
微風に設定してある扇風機の風に揺れる、蕾の髪の毛を軽く触る。
相変わらず柔らかい、猫の様な毛がはらりと落ちて、くすぐったそうに蕾が寝返りを打った。
その姿を微笑ましく見届けてから、日向はテーブルの傍に座り直し、祖父母に声を掛ける。
「爺ちゃん、婆ちゃん。……すぐに、じゃないんだけど、もしかしたら蕾を長く預かって貰う日があるかもしれないんだ」
突然の日向の告白に、祖父は「うん?」とだけ訊き返す。
「俺さ、学校でちょっとやらなくちゃいけない事があって……それの関係で帰りが遅くなる時があるかもしれない、その関係で……なんだけど」
「なるほど、そういう事か。なら、好きなだけ預けたらいい。夕飯だってウチで食べればいいんだしなぁ」
日向にとっては申し訳無く思ってしまうお願いだったが、祖父母にとっては真逆らしい。
祖父は好々爺めいた笑みを浮かべて、蕾との夕飯を楽しみにしている様だった。
「爺ちゃん、いっつも日向が蕾ちゃんをさっさと迎えに来ちゃうから、その後は大体寂しそうにしてるんだよ。だから、偶に晩御飯一緒に食べれると嬉しいんでしょ」
お昼のバラエティ番組を見ながら祖母が呟く。その顔は祖父と同じく、何かを期待するように浮かれている風にも見えた。
祖母からの指摘に祖父が「ふん」と鼻息を鳴らすと、そそくさと眠る蕾の傍に寄って行き、蕾の頬を撫でてから添い寝する様に横になってしまう。
「あれ、日向の時もあんな感じだったのよ。お母さん達が日向を此処に預けた日はね、大体爺ちゃん一緒になって昼寝しようとするんだもの。変わらないわね」
昔を思い出したのか、可笑しそうに笑う祖母の視線は、日向達に背中を向けてしまっている祖父に注がれている。
日向は覚えていないけれど、日向もかつて蕾の様に、祖父に……恐らくは祖母にも、一緒になって寝て貰った事があるのだ。
そんな遠い日の事を覚えていないのに、何故だろうか……思い描く事は、容易く出来てしまった。
蕾が大きくなって自分に甘えなくなったら、少しだけ……ではない、相当な寂しさがあるかもしれない。
(今度から、もっとちゃんと甘えよう……)
親の心、子知らず……という言葉の一端を理解出来たひと時だった。
お待たせ致しました。
月初……月初め……書く時間を悉く削りよってからに……。