残暑、教室にて。
八月の下旬、某日。
およそ一ヶ月の夏休みも終わりを告げ、今日から再び学校が始まるその日。
日向は最近の日課となった朝方のランニングを終えて家に戻った。
時刻は午前七時前。八月も終わり、九月に入ろうとするこの時期は朝の気温が丁度いい。
軽く汗を流す為に五分程でシャワーを浴び、制服のズボンとシャツを着た日向は蕾の部屋に入る。
蕾の夏休みはまだ数日だけ続くが、日向も両親も不在となる間は祖父母の家で日中を過ごす事になっている。
部屋の中はまだカーテンで朝日が遮られており、部屋の主を起こさぬ様に静寂で包まれている。
ベッドで眠る蕾は寝顔こそ天使そのものだが、寝相は混沌の様相を呈していた。具体的に言えば日向が部屋に入った瞬間に枕を踏みつけた。
「どれだけ飛ばしたんだ……」
日向は溜息を吐いて蕾のベッドの傍へ行き、先にカーテンをシャッと開けた。
白い陽光が部屋の中を明るく照らしてくれるが、蕾は微動だにしない。
「まぁ、夏休みの間結構ぐうたら生活にもなってるから……こんぐらいで起きるとは思ってないけど、なっ!」
くーかーと寝息を吐く蕾を眺めているのは日向の幸せの一つでもあるが、それに飲み込まれると遅刻は必至なので、日向は心を鬼にして蕾の両脇に手を差し込み、小さい体をシェイクする様に左右に軽く揺すった。
ついでに少しだけ指先で脇をくすぐる。
「……んー!」
蕾が機嫌悪そうな声を出し、背中を日向に向ける様にして寝返りを打つ。
「つーぼーみー。朝だよ、支度しないとじいちゃん家に行けないぞ」
横向きになった蕾の肩を揺すりながら声を掛けるが、蕾は全く反応せずに顔をタオルケットに埋ずめたまま寝息を立てる。
「あくまでも抵抗するか……なら……」
日向は右手を素早く蕾の首元へ持っていき、指先で再びくすぐる。
「……!」
蕾がビクッと驚いた様に身体を竦ませて、縮こまる様に丸くなる。
その拍子にパジャマから背中が見えると、日向はその背中を指先でツンツンと突く。
「………!」
更なる追撃に蕾は身体を素早く捩ると、タオルケットを身体に被せる様にして隠れてしまう。
が、既にその時点で頭は起きてる事が実証されてしまった。
日向は丸くなったタオルケットに苦笑いを浮かべると、ベッドに座ってドアを見たまま蕾に語り掛ける。
「今起きたらリビングまでおんぶしてあげるけど、起きないなら引き摺って行くよ?」
「………」
その言葉が効いたのか、蕾がのそりのそりと顔を出し、眠そうな半目状態で日向の背中を覆い被さってくる。
まだまだ甘えたい盛りの妹を背負って、日向はリビングへと向かった。
蕾の支度を整え一緒に母の作った朝食を食べていると、キッチンに居る母の明吏が日向に声を掛けてきた。
「日向、そろそろ十二月の修学旅行、案内来るだろうから忘れないで見せてね。お母さん有給取るから」
「あー……そっか、修学旅行あるんだ」
「あるんだ、ってあんた……他の子達は楽しみにしてるんじゃないの? 話題に上がるでしょ、そろそろ……」
日向のぼんやりとした返事に、明吏が溜息と共に肩を落とす。
九月は体育祭、十月は中間試験と学校祭、十二月の修学旅行。夏が終わったと思えばまた新たなイベントがやって来る。
「おにーちゃん、りょこういくのー?! つぼみもいきたーい!」
母と兄の会話を聞いていた蕾が苺ジャムを付けた口のまま、日向におねだりをする。
「学校の旅行だよ。お土産買って来るからさ」
「えー! おみやげだけやーだー! ずーるーいー……」
日向の返答に下唇を突き出す様に不貞腐れてしまった蕾だが、こればっかりは仕方ないので波が収まるのを待つしかない。
その後も蕾は日向が家を出るまで、少し離れた位置から「ずるい……ずーるいー……」と繰り返し呻いていたので、日向は登校中に蕾のご機嫌を取る方法を考えなければならなかった。
久し振りの通学路を歩き校舎に着くと、周囲には夏休み中の出来事を話題に会話をする生徒で溢れている。
その中を日向は黙々と歩き、教室に向かう。
いざ自分の中で何かを変えようと思っても、今までの生活から周囲と疎遠だった事に変わりは無い。
せめて修学旅行までにでも、雅以外にも親しい男の友人を作ろうと考えながら歩いていると、背後から肩を叩かれた。
振り返ると同時に、長い髪の毛が視界に入る。
「お、おはよう日向君……」
隣に並んだのは悠里で、少し走ったのか息が若干切れていた。
久し振りに見る制服姿が新鮮で、日向は一瞬だけ視線を奪われてしまったが、すぐに我に返るといつもの笑顔で頷く。
「悠里、おはよう。走ってきたの? 寝坊した?」
呑気に答える日向に、悠里は一瞬だけ目を彷徨わせてから「うん、そう、寝坊……寝坊したの」と返答した。
そうして二人で教室に入ると、一瞬だけ日向は周囲から向けられる視線に気付く。
ドアを開けた音で何人かが反応しただけかな、と思ったが、どうにも違う。
「……日向君、どうかした? 忘れ物?」
「ん……いや、なんでもないよ、ごめんごめん……」
「そう……? 早く座らないと先生来ちゃうよー」
悠里が突然立ち止まった日向に首を傾げて、そのまま自分の席に向かって行く。
日向は改めて周囲を見渡すと、自分と目が合った瞬間に不自然に顔を逸らす人間が数人居るのを確認した。
何か悪い噂でも立てられたのか、と思ったけれど、悪意のある視線ではない。
とりあえず気にしない様にして自分の机へ向かうと、一際強烈な視線を放つ人物が居た。
(寺本君が凄いこっちを見てる……)
クラスメイトの寺本望は、日向達が花火大会に行った時も現地に居た。
もしかしたら、同じ様に他のクラスメイトが居た可能性も十分に考えられる。
そこまで思い出して、ようやく事態の一端を理解した。
(加えて、一緒に教室に入ってきた俺達がいる……と)
状況証拠だけで十分に逮捕状が請求出来る内容かもしれない。
特に、望は以前からどうにも悠里に気がある素振りを見せていたので、もしもそれが正解なら望の内心は穏やかでは無いだろう。
「………お腹に週刊誌を仕込んでおいた方がいいかな」
そんな風に独り言を呟いていると、教室のドアが開かれて見知った顔が入ってくる、唯だ。
寝不足が一目で見て取れる表情で幽鬼の様にふらふらと歩いて来ると、日向の後ろの席へと座った。
「………ぉはよ……」
人を呪い殺せそうな視線で挨拶をしてきた唯と、果たして目を合わせるべきか悩む。
「恵那さん、おはよう。凄い顔だけど……」
悩んだ末に、流石に友人を無視は出来ない日向が挨拶と共にそう言うと、唯は一度目を閉じて眉間を揉んだ。
「昨日、最後の夏休みだったから出来るだけ起きてたの。寝なければ夏休みは終わらないから……」
「恵那さんって頭良いけど頭悪いよね?」
「そういう新垣君は顔は穏やかだけど結構毒を吐くよね?!」
零距離でお互いの胸に言葉のナイフを突き刺しながら日向と唯が言葉を交わしていると、また周囲が少しざわついた感じがして、日向は一度黙る。
唯もそれに気付いた様で周りを見渡すと、日向に向き合って首を傾げた。
「……なんか注目されてない?」
こそっと日向に向かって呟く唯に、日向も頷いて返す。
「………ほら、花火大会の時にさ、ウチのクラスの人が居たんだよ。多分それ見られて……」
日向がそこまで言うと、唯は納得した様に頷く。
「あーなるほどね……! 確かにねー、そう見えるよねー。皆若いなぁー、恋の季節だなー。……え、でもちょっと待ってよ、それってつまり……」
唯はそう言いながら、ロダンの『考える人』みたいに口元に握った拳を添えて数秒ほど黙ってしまい、不意に顔を上げる。
「あたしと新垣君が付き合ってるっぽく見えるって事か!」
「うんまぁ、可能性としては無くは無いね」
目を見開いて衝撃の事実を告げた唯に、日向は淡々と応じた。