芹沢さんも泣く子には逆らえない。
悠里と一旦別れ、日向は祖父母の家に向かう。
玄関に入り帰宅した事を告げると、相も変わらず廊下奥から蕾が突進してくる。
「おにいちゃん、おかえりー!」
「ただいま、蕾。身体はどう? 吐きそうだったりお腹痛くなったりしないかー?」
ぽすん、と胸に収まる蕾を抱き上げながら、日向は蕾の首周りなどを触り、体温を確認する。
平熱より、ほんの少し高いだろうか?
手早く手の甲で体温を確認され、蕾はくすぐったそうに身を捩った。
「だいじょぶ! ぜんぜんいたくないよ!ごはんもたべたよ!」
「そっか、気持ち悪くなったりしたらすぐ言うんだよ。幼稚園はどうだった?」
ぐいぐいと日向の身体をよじ登り、首周りにぶら下がる蕾を落とさないように抱え直す。
外気温が高い所為なのか微熱があるのか、蕾は少し汗ばんでいる。
「ちゃんといけたよー。りっくんとあんなちゃんに、どうしたのーだいじょうぶーってたくさんきかれた。」
「そっか、皆も心配してくれたんだな。もうちょっとちゃんと治して、完全復活しないとな。」
「うん!」
ちょっと身体が弱って、気持ちも弱気だったのか蕾は日向へぐりぐりと頭を擦りつけるように甘えだした。
日向はそんな蕾の背中をぽんぽんと叩きながら擦ってやると、次第に落ち着いたのかズリズリと蕾は日向の身体から降りる。
そうしていると、居間から祖父が顔を出して玄関側へ歩いてきた。
「日向、おかえり。早かったな」
「ただいま、爺ちゃん。今日はちょっとこの後用事あるから、このまま蕾は連れてくね」
玄関口で蕾を抱き上げたまま、鞄も降ろさずにそう告げる日向に対し、祖父は特に気を悪くする事も無く「そうか。気を付けてな」とだけ言った。
会話を聞いていたのか、奥から祖母もやってきた。何か手に袋を抱えている。
「日向、おかえり。もう帰っちゃうなら、これ持っていきなさい」
言いながら祖母から手渡された袋には、茄子や胡瓜、人参等の野菜が入っている。
最近は蕾の看病で買い物に行ってない事が分かっていたのだろう。
「婆ちゃんありがとう、助かるよ」
「偶にはここで夕飯食べて行く日も作ってね。爺ちゃんと二人だと、寂しくって仕方ないんだから」
「うん、次はそうする。それじゃ、行ってきます。」
「ばいばーい!」
自宅に帰るのに行ってきます、は変な言い回しだったかなと思いながら、日向は祖父母宅の玄関を開けて外に出た。
帰り道がてら、時間を確認すると五時の丁度十五分前。
ここから自宅までは十分も掛からないので、悠里が来る前には帰宅出来るだろう。
「蕾、家に帰ったらなんか楽しい事があるかもよ」
「えー!えー! なんだろ! 新しいおもちゃ?」
「違う違う、おもちゃは無いけど、家に行けば今日はちょっと楽しい事が待ってるんだ。だから真っ直ぐ帰ろうな」
「はーい! まっすぐ帰る!」
テンションがさっきよりも幾分か高くなった蕾は、握った日向の左手を大きくぶんぶんと振り回しながら帰路を急いだ。
その後、二人で自宅に入り、蕾は一目散に洗面台へ行き、手洗いとうがいを終えた。
日向は軽く居間の掃除を行い、とりあえずと米砥ぎし炊飯器のタイマーを起動させておく。
丁度終えた頃に、ピンポーンと来客用ベルの音が聞こえた。
来たかな、と思ってリビングでテレビを見ている蕾へ声を掛ける。
「蕾、お客さん来たみたいだからちょっと出てみてくれない?兄ちゃん手が離せなくて」
「いいの? はーい!」
防犯上の問題から、普段は来客応対などさせて貰えない蕾が喜んで玄関へと走って行く。
ドタドタと足音が小さくなり、玄関からもう一度「はーい!」という声が聞こえた。
一旦静まり、ガチャンという音が聞こえたと同時に今度は「きゃー!」という歓喜の悲鳴が聞こえてきた。
ドタドタドタドタっと足音が近付いてくる。
「おにいちゃん! ゆーりちゃん! ゆーりちゃんきたよ!」
両足で飛び跳ねながら、興奮した表情で蕾が日向を呼ぶ。
すぐさま玄関へ戻ってしまった蕾を追って日向も玄関へ応対しに行くと、そこには蕾に手を引っ張られて中腰になりながら、何とか靴を脱ごうともがく悠里の姿があった。
「お、お邪魔します……」
「いらっしゃい。ね、元気でしょ?」
お互いに苦笑いで挨拶を済ませると、三人一緒にリビングへ向かう。
移動中も蕾はずっと悠里の手を握っていた。
「はいここ、どうぞー!」
一足先にソファーに座った蕾が自分の隣をぽんぽんと叩く、ここに座れという事だろう。
悠里は笑いながら、スカートが皴にならないよう裾を畳んでソファーに座った。
「蕾ちゃん、ちょっと具合悪かったんだって?」
「うん、ちょっとだけ、ようちえんおやすみしちゃった。でももうへいきよー!」
悠里の前だからか、ちょっとだけ彼女の口調を真似してお姉さんぶってる蕾に日向は思わず吹き出しそうになるが、後で怒られるのが怖いので堪えて冷蔵庫から麦茶を取り出す。
背後からは二人の会話が聞こえてくる。
「そっかー、良かった良かった。お姉ちゃんね、プリン買ってきたから一緒に食べましょうか! これ食べてもっと元気になってねー!」
「プリン!やったー!食べたい食べたい!ゆーりちゃん、ありがとう!」
蕾のテンションがどんどん上がる。
「良かったな、蕾。芹沢さんもわざわざありがとう、麦茶あるけどコーヒーの方がいい?紅茶は呑む人間がいなくて、置いてないんだけど……」
ソファ上ではしゃいで飛び跳ねる蕾に顔を綻ばせながら、日向はカウンター越しに悠里へ声を掛ける。
「うん、今日は外が暑かったから、麦茶がいいなー」
悠里の返答に日向は三人分のコップをリビングのテーブルに置いた。
各々が麦茶に口を付けると、蕾は早速プリンの包装を剥がし始める。
その様子を微笑ましく見ていると、ふと悠里と視線が合った。
なんだろう?と日向が考えていると、悠里は微笑みながら軽く首を左右に振る。
「ごめんごめん、なんでもないの。ただ、やっぱり新垣君って蕾ちゃんを見る時の瞳が凄く優しいな、って、そう思っただけだから」
「あ、な、なるほど……。なんだかそう正面切って言われると照れるね……。」
「ふふ、新垣君にとって蕾ちゃんは特別なんだもんね。見てて癒されるよ」
そう言ってもう一度くすりと笑う悠里を見て、日向はいよいよ照れが勝って悠里を直視出来なくなり、手元の麦茶を口に含んだ。
と、不意に蕾が二人を交互に見つめて一言だけ呟く。
「ゆーりちゃんって、おにいちゃんのかのじょなの?」
ぐびり、と麦茶を嚥下した日向の喉と、コップをテーブルに置こうとしていた悠里の手が止まる。
「……なんだいきなり、違うよ。お姉ちゃんは、兄ちゃんのクラスメイト。お友達だよ」
苦笑いしながら蕾へと答える日向だったが、蕾の眼は好奇心に満ち溢れたままだ。
「そうなの?おにーちゃん、おねえちゃんの事好きじゃないの?」
「ぶっ……!」
思わず悠里が蕾の隣で麦茶を吹き出しそうになっている。
テーブル上のティッシュを何枚か取りながら、顔を真っ赤にしてあわあわとしていた。
「そんな事はないよ、兄ちゃんもお姉ちゃんの事は好きだよ」
「あ、新垣君?!」
「やっぱりー! じゃあやっぱりおねーちゃんはおにいちゃんの、かのじょじゃないの?」
蕾の質問に堂々と受け答えする日向に、悠里は『な、なんて答え方してるのよ!?』と非難めいた視線を送るが、日向はとりあえずその視線を無視した。
「蕾は、幼稚園の友達に好きな子とか居るかい?」
「うん、みちるちゃんと、れんちゃんと、じんたろうくん!」
「みちるちゃんとれんちゃん、は女の子かな?じゃあ、じんたろうくんは男の子?」
「そうだよー」
「じゃあ蕾は、じんたろう君の彼女になっちゃうのかな?」
「えー!?ちがうよー、なかよしだけど、かのじょじゃないよ」
「そうだね、仲良しだからって彼女にはならないよね。」
「うんー。……うん? そっかー、なかよしだけだと、かのじょにはならないんだー」
日向と蕾があまりにも何事でも無いかのように会話を続けているので、悠里はぽかんと口を広げてその光景を黙って見ていた。
そして、蕾の疑問に蕾が納得する形で答えてみせた事に、感心する。
「そういう事だよ、兄ちゃんはお姉ちゃんと仲良しだけど、彼女とかじゃないよ」
そう言いながら『勝手に仲良し設定になっちゃったけど……』と申し訳無さそうに視線を悠里へ向ける日向の事がどこか可笑しくて、悠里は「まったく……」と笑う。
そうして蕾が納得してくれた事で、先程までのよく分からない空気感は霧散し、今は和やかに過ごしているのだが、唐突に日向のスマートフォンに通知音が数回、連続で鳴った。
両親からの連絡だろうか、と内容を確認しようとして、日向は一瞬固まった。
その様子を見ていた悠里が怪訝な顔をする。
「どうしたの? 新垣君。スパムメールでも届いた?」
悠里がそう問い掛けるのと同時に、部屋の中に『ピンポーン』というチャイム音が響く。
日向はげんなりするような顔で、スマートフォンの画面を悠里へ見せた。
そこには……。
送信者:成瀬雅
『もしもし、わたし雅……。今、貴方の家の前に居るの。』
送信者:成瀬雅
『もしもし、わたし雅……。蕾ちゃんのお見舞い持って来てあげたの。』
送信者:成瀬雅
『部活早く終わって暇だから遊ぼうぜー。』
最後はネタが無くて切れたのか、それとも面倒になったのか、いつも通りの雅の軽口になっていた。
「え、ちょっと、これって成瀬君がここに来るって事?! なんで!?」
「いや、残念ながら。今のチャイムが正に雅だよ……もう来てるんだ」
「なんでー!? 今日遊びに来る予定だったの?!」
「ううん。特に約束とかはしてないよ。でも大概雅と遊ぶ時って約束なんてしない事がほとんどだから…。」
日向と雅は付き合いが長い。両親も蕾とも既知なので、雅自身も気後れする事無く家に遊びに来る。
最近は部活動で来る事が無かったから、完全に油断していた。
さて、どうしたものか、と日向が思案しているその脇で会話を聞いていた蕾は。
「えー! みやびくん、きたのー?! つぼみおむかえしてくる!」
とロケットの如く玄関へ走ってしまう。
「あ、ちょっと蕾!? 待って待って!」
という日向の声も虚しく、玄関からガチャっとドアを開ける音が聞こえてくると同時に。
「みやびくん! こんにちはー! いらっしゃいませー!」
「おー、蕾ちゃんがお出迎えかぁ、身体は大丈夫?日向ぁ、病み上がりの蕾ちゃんにお出迎えさせんなよー。あ、上がるねー」
「みやびくんいまね、ゆーりちゃんもきてるんだよ! おみまいにきてくれたの!」
「んあ、ゆーりちゃん? 蕾ちゃんの友達?」
「うん、ともだち!」
「そうかぁ、友達も来てるのか、良かったなぁ」
噛み合いそうで噛み合わない会話が聞こえてくる。
日向が悠里の方へ視線を向けると、悠里は鞄を片手に和室の方に逃げ込んでいたが、そちらには出口は無い。
悠里の顔は焦りに焦っていて、挙動不審さが全開になっている。
人間、追い詰められるとあんな顔をするんだなぁ、と日向はむしろ冷静になれたのだが、状況は混沌と化すばかりだ。
やがてリビングのドアが開かれ――
「お邪魔してまーっす!日向ぁー出迎えぐらいしてくれよぉ」
「いらっしゃい雅。ちょっとね。事情があってね……」
そう二人が言葉を交わしている間に、同じく部屋に戻ってきた蕾が辺りをきょろきょろ見渡す。
「ゆーりちゃんは?」
そう呟いて、暫くリビングを見回すがそこに悠里の姿は見えない。
兄の方を見やるも、日向はどうしたものかと困った顔で笑うだけだった。
その反応を見て、蕾の目はみるみる潤んでゆく。
「ゆ、ゆーりちゃんいなくなっちゃった……」
蕾の声が段々と萎んでいき、やがて湿った鼻声混じりになってしまう。
日向はそんな蕾の状態を見て、丁度自分にしか見えない角度、和室の隅に身を潜める悠里へ目をやると、悠里もまた頭を抱えていた。
「ゆ……ゆーり…ちゃ……どこ……いったの……」
蕾は目尻に涙が浮かび、服の裾をぎゅっと掴んでいる。
いよいよダムが決壊するかと思ったその瞬間、悠里はグッと頭を上げ、何かを吹っ切ったような表情でリビングの方へ向かい、襖の陰からそっと顔を出した。
「は、はーい!悠里ちゃんでーす!!蕾ちゃん大丈夫だよー!かくれんぼしてただけだよー!」
その瞬間、蕾は声の方へばっと振り向き、そのまま悠里の方へ駆け出す。
そして半身を隠したままの悠里の足元へ抱きつき、思いっきり顔を埋めた。
「ゆーりぢゃんいだぁぁぁー! かっでにいなぐなっちゃだめえええ!」
そうして結局ダムが決壊したかのように大泣きする蕾と。
「ゆ、ゆーりちゃんって……芹沢じゃん……」
呆然とする雅に、芹沢はバツが悪そうな顔になり。
「はーい!実はゆーりちゃんは、この私、芹沢ゆーりちゃんでしたー!!!………ふ、ふふ…」
謎のテンションで乗り切る手段に出たのだった。