止まった針を、もう一度
霧子が発った翌日、日向はまた少し遅めの起床となった。
昨夜は考え事が多くて、寝付きが悪くなってしまったが、頭はスッキリしている。
やるべき事は、もう決めていた。
正確には、やりたいと思う事を幾つか決めていた。
これまでの生活を大きく変える訳では無い、今までの生活にほんの少しだけ変化を付ける。ただそれだけだった。
部屋の片隅に置かれたテニスバッグに歩み寄ると、ジッパーを開けて中を改める。
ガットの切れたラケットが二本、持ち主の帰還を待ち続け、眠っていた。
先ずはここから始めよう。
以前の様にプレーが出来なくてもいい。
練習時間だって毎日は取れない。
それでも構わないと、誰の為でもなく、自分の為にやりたい事をやろうと思えた。
一度バッグにラケットを仕舞うと、階段を昇って廊下を走る音が聴こえてくる。
いつもの朝だ、何も変わりはしない。
日向は腰を屈めて、朝一番の笑顔と衝撃に備えた。
蕾を抱えてリビングに行くと、週末で仕事が休みの両親が居た。
父は相変わらずダイニングテーブルでコーヒーを、母はキッチンで洗い物をしている。
テーブルの上には日向の分に用意された朝食が、ラップを掛けられて置かれていた。
「おはよう、ちょっと遅くなった」
日向が席に着いて、隣の椅子へ蕾を座らせながら言うと、対面に座る父の仁は日向を見てにやにや笑う。
「なんだ、女の子と電話でもして夜更かししてたのか?」
この色ボケ親父は最近、何かと勘繰ってくる事が多くなったが、ある意味ではそれも日向が送る学校生活が気になっての事かもしれない。そう思うと親心というものを少しだけ理解出来たのかもしれない。
だがそれはそれとして、反応すると調子に乗る事は目に見えていたので仁は一旦無視しておき、キッチンに居る母親に声を掛ける。
「母さん、今日俺……商店街の方に行くけど、なんか買ってくるものある?」
その提案に母の明吏は手元を見ていた視線を一度上げ「うーん……」と考え始める。
「今晩食べるものにもよるんだけど……何がいい?」
「おすし!」
間髪入れずに蕾が答えるが、当然ながら寿司なんてものは何かの節目や、祝い事じゃないと食べられない。
明吏が困った様に笑った。
「残念、お寿司は良い事があったり、お祝いする時に取るものなのよ」
その返事に蕾は唇を尖らせて、少しむくれてしまう。本気で食べたかったのかもしれない。
蕾の表情に苦笑いしながら、明吏は日向にもう一度向き直る。
「商店街って、参考書か何かを買いに行くの?」
そう言われて、日向は結局参考書も買っていない事に気が付いた。
買いに行った日は結局、霧子に振り回されて日和に連れられ、書店には戻らず仕舞いだったからだ。
「あー、そうか……それも買っておかないと、だけど」
言い出す事が少し恥ずかしくて、ちょっとだけ語尾が濁ってしまう。
「おにーちゃん、おかいものいくの?」
隣に座って会話を聞いていた蕾が、日向に爛々とした目を向けてくる。
その瞳に背中を押されて、日向は自分の願いを口にした。
「ラケットに、ガットを張って来ようと思って」
そう口にした瞬間、キッチンに居た母と、対面に座る父が日向を凝視して沈黙した。
「…………また、やるのか?」
「うん、部活には入らないし、スクールにも戻らないけど。もう一回、やりたいなって」
父が驚いた風に聞き返してくるので、日向はその表情に笑いながら返答した。
「蕾、今日はお寿司でいいわよ……」
「ほんと?! やーったーー!」
キッチンでは顔を綻ばせて母がそんな事を言い出し、蕾が両手を万歳する。
たったこれだけの事で、こんなにも大騒ぎする程、今朝の新垣家は平和だった。
朝食を食べた後は母に頼まれた買い物メモをポケットに仕舞い、ラケットバッグを背負って日向は靴を履く。
「蕾、本当にお留守番でいいの?」
玄関まで見送りに来た蕾に声を掛けるが、蕾は父に後ろから抱き締められて動けなくなっている。
「今日は蕾は俺と一緒に居るんだもんねー!」
悲壮な顔で告げて来る父親に、何とも言えない表情で日向は目線を返す。
蕾はそんな父の頭を困った顔で撫でてあげているので、これはどちらかと言うと蕾が気を遣ったのだろう。
(五歳児に気を遣われる父親か……)
苦笑いと共に鼻から息が出てしまうが、確かに蕾は最近、日向にべったりだったので偶にはいいのかもしれない。
「昼過ぎまでには戻るだろうから」
「いってらっしゃーい!」
「蕾、塩を撒け塩を」
温度差のある父と妹から見送られ、日向は商店街へと向かった。
通学路の途中、交差点を曲がって商店街に入る。
昨日と同じ様に辺りには学生と思われる人達が居たが、今日は少しだけ景色が違って見えた。
その理由は漠然としているが、悪い変化では無い。見えなかった物が……見ようとしていなかった物が、見える様になったのだろう。
そして目的の看板を見付けて店内に入る。
新品の商品の匂い、店内モニターに映るスポーツ関係の試合録画。
そこは二年もの歳月一度も訪れなかった場所なのに、懐かしさよりも心地良さがあった。
「いらっしゃいませー! 御用件があればお伺い致しますので、お気軽にどうぞー」
声を掛けて来たのは、日向の見知らぬ女性店員だった。
新しいアルバイトだろうか、以前は大卒の男性店員が居た筈だったが、その姿は見えない。
「すみません……ガット張りお願いしたいんですけど、店長って居ますか?」
ガットは張る技術もプレーに大きく影響を与える。
日向がいつもガットを張って貰っていたのは店長だったから、出来る事なら店長に頼みたい。
もし居なければ出直そうか、そう考えていたが店員は笑顔で頷いた。
「はい、少々お待ち下さいね!」
そうしてカウンター奥に引っ込むと、女性が店長を呼ぶ声が聞こえる。
事務所に居て仕事をしていたなら申し訳無かったな、と思っていると奥から壮年の男性が顔を出し、日向の顔を見てかなり驚いている。
「………日向君、久し振りだね」
「お久し振りです、店長。御無沙汰してました」
久し振りに見る、このスポーツ用品店の店長……新藤秋紀に、日向は少しはにかんだ笑顔で挨拶をする。
「引退したって聞いて、もう来ないと思ってたよ……ガット張るって事は、またやるのかい?」
「はい。色々思う所があって……現役最前線みたいなプレーは出来ないと思いますが、身体を動かす方が性に合ってそうで」
新藤店長は日向の言葉に静かに笑って頷きながら、そっとラケットバッグを開けた。
「こいつも久し振りに見るなぁ……二年も経つと、もう使ってる人も少なくなって。芝の王者がウィンブルドンで愛用したラケットか。好きだったもんなぁ、日向君」
ラケットに付いた傷や重さを確かめる様に、新藤店長が呟く。
「テンションは?」
「……とりあえず、52で。片方は48まで落として下さい」
「緩めだね、まぁ今はプロでも30台まで落とす人も居るからね」
新藤店長は手早くカウンターの上でメモを取り、カレンダーを見る。
「高めに張ると打てる自信が無くて。先ずはリハビリからやらないとですから」
「結城の所にも顔を出してあげなよ。日向君がコートから遠のいちゃって、えらく落ち込んでたんだから」
結城というのは、日向や日和が通っていたスクールのヘッドコーチの名前だった。
現役時代に一から日向を育て上げた人で、今でも都市対抗戦でバリバリにプレーするアマチュアのA級選手だ。
アマチュアと言っても全国ランキングでは当時上位十名に食い込む程の人で、日向ですら一度もセットを通して奪った事が無い。
「はい、今のままだと手も足も出なさそうなので、少し鍛え直してから顔を見せに行きます」
日向の返事に満足気に笑った店長は、カレンダーの日付をボールペンで指しながらコンコンとペン先を当てた。
「少し詰まってるから、明後日……いや、三日後かなぁ。そこまでには出来てると思うから、好きな時に取りにおいで。ガットはいつものでいいのかい?」
「はい、同じものを」
そして代金を支払うと新藤店長に礼を言って、日向は店の外に出る。
店の外に踏み出した一歩が、懐かしくも新しい日々の第一歩を予感させる、そんな気分だった。
日向の再起動回、ここからは青春爽やか系で甘酸っぱいラブコメ路線を織り交ぜようと思います。
たぶん!(定型文)