日向の魔女
花火大会の日からおよそ三日程が経過したが、夏休みはまだ半分も終わらない。
日向の日常も普段の落ち着きを取り戻し、いつも通りの日々を過ごしている。
リビングではテレビアニメを見ている蕾の背中が見える。
ダイニングテーブルに勉強道具を広げ、午前中の空いた時間を学習に費やしていた日向は、ノートへ数式を書き込みながら、ふとカレンダーを見る。
そう言えば、初島霧子という女性と出会ってからそろそろ一週間となる。
(宿題……)
あれから、何となく幾度か考えてみたものの、霧子が言う答えには一向に辿り着かない。
そもそも、自分が何故そう感じたのか、なんて曖昧過ぎる問題に対して答えを出せるとは思えない。
けれど推測でもいいから、考える事が大事だと言われた気がする。
(俺が……そう感じた理由。なんだろうな、単純にウマが合わないとか、そういうんじゃ駄目なのかな)
あの人と出会ってから、分からない事だらけだった。
一つだけ確かな事と言えば、彼女と出会った時、自分の中に得体の知れない反抗心に近いものが芽生えた事だ。
日向は自分を攻撃的な人間とは思っていない。事実、周りからそう評価された事も無ければ、両親や担任等の近しい大人からそう指摘された事も無い。
その自分が、何故か霧子には反発する気持ちを覚えた、その理由すらも自分では分からない。
(もしも、その事が……俺が見た、あの人の笑い方と繋がるのなら、原因は俺自身にあるって事なんだよな)
もしそうであれば、自分は悪感情で人を判断する様な視野の狭い人間だったのかと思えて、少し自己嫌悪してしまいそうだった。
そう考えていると、テーブルに置いたスマートフォンが振動する。
その相手が正に今、考えていた相手からならどうしよう、と一瞬身構えてしまうが、画面に表示されたのは全く別の人物だった。
送信者:恵那唯
『部活なう。ちょー暑いよ今日……脱水で死にそう』
拍子抜けの相手と内容に日向が肩の力を抜くと、再度メッセージが送られてくる。
送信者:成瀬雅
『俺もだ……室内競技きついよな……日向、生徒会長になって体育館に高性能なエアコン付けてくれ、お前なら出来る』
送信者:芹沢悠里
『二人とも頑張ってね、私は今日はお婆ちゃん家に居るけど、こっち涼しくて過ごし易いよー!』
送信者:上月日和
『芹沢先輩いいなぁ……室内じゃなくてもキツいですよ今日は……テニスコートって防風林とかに囲まれてるから、風が来ないんですよ……』
先日、唯が全員で話せるグループトークを作ってしまった。
曰く「いちいち何かある時に全員に連絡するの超面倒だから、こっちでいいよね!」らしい。
こうして家で勉強しているだけなのに、メッセージを読むと十分に友人達の姿が思い描ける。
同じ夏休みでも、去年は級友達と触れ合う事も無く、偶の土日などに雅と二人で何処かに繰り出す事が数回あった程度だったので、なんだかこうやって複数の友人達と話せる今の状況は、日向にとってどこか懐かしいものだった。
そんなやり取りを見ていると、家の中でじっとしているのも何か勿体ないという気がして、日向は勉強道具を片付けに入る。
そして麦茶をストローで呑みながら、今は教育番組を熱心に見ている蕾へと声を掛けた。
「蕾、ちょっとお外に出てくるかー? 暑いけど、天気良いし。ずっと家の中も退屈だろー?」
日向の声に蕾はバッと振り返って、待ってましたとばかりに頷く。
「いーくー!」
反応の速さから、もしかすると日向が勉強を終えるまで待っていてくれたのかもしれない。
最近は変に気を遣う事が増えた蕾の成長に、日向は微かに笑うと蕾の帽子や自分の財布などを持ち、外出の準備に取り掛かった。
特に何処に決めて歩き始めた訳ではないが、やはり何かあると行ってしまうのは駅前のモール周辺だ。
公園もあり、駅直結のモールがあり、この時期ならばソフトクリームやかき氷といった冷たいものを並べる露店商も居る。
そこへ至る道を蕾と二人、手を繋ぎながら歩く。
今日の蕾は以前に悠里から買って貰ったワンピースと、麦わら帽子。いつぞやの悠里の様に、ちょっとしたお嬢様みたいな恰好になっている。
道中には日向の級友や、恐らくは同世代と思われる人々も居て、知り合いには軽く挨拶をしてすれ違ったりもした。
皆、それぞれの友達と一緒に遊びに行ったり買い物をしたり、夏休みであれば雅達のように部活動もあるのだろう。
すれ違う人達は皆、活き活きとしていたり、逆に憂鬱そうにしていたりもするのが面白い。
そんな風景を横目に蕾と二人、手を繋いで歩く。
日向を見上げてニッと笑う蕾の笑顔は、何ものにも代え難い、日向の宝物だ。
やがて二人は駅前の公園へ到着すると、暑さを避けるように噴水の近くへ向って行く。
噴水の傍に寄ると、霧の様に細かい水の粒子が周囲に舞散り、暑さを和らげてくれる。
「はぁーこれきもちーね……おみずのなか、あるいてもいい?」
顔を綻ばせた蕾が、噴水の周囲で浅く溜まった水に濡れて遊ぶ子供達を見た。
中には水着で遊ぶ子も居て、この駅前臨海公園の噴水周辺風景は夏の風物詩と化している。
「歩くだけな、着替え持ってきて無いし……パンツびちょびちょで帰るの嫌だろ?」
「うん、あるくだけにするー」
言いながら日向は蕾の足から靴を脱がせ、ワンピースの裾を少し絞る様に結ぶ。
準備が終わった蕾は、意気揚々と水辺を歩いて、その水の冷たさに黄色い声を上げ始める。
「うー! つめたーい! きもちー! おにーちゃん、つめたーい!」
「周りに一杯友達居るけど、ぶつかったりしない様になー!」
傍にあるベンチに腰掛けた日向に蕾が手を振るのが見えて、日向も応答しながら息を吐いて座り直す。
ふと空を見上げると、快晴までは行かないが、雲が少なくて十分に良い天気を維持していた。
そうして蕾の水遊びが終わると、足を乾かしがてら二人で露店で販売していたソフトクリームを食べて過ごす。
「つぼみもこーんのほうがいいな……」
日向の持つソフトクリームのコーン部分を見ながら、蕾がぼそっと呟く。
蕾が持つソフトクリームはカップにスプーンだ。
「蕾が持つと溶けちゃって落ちるから、もうちょっと大きくなったらな。兄ちゃんの食べさせてあげるからさ……」
そう言いながら日向が手に持つソフトクリームを差し出すと、蕾は笑顔に戻ってコーン部分に噛り付き、再び自分の分にスプーンを差し込む。
周りを見ると同じ様な風景があちこちで見られる。炎天下のソフトクリームは砂漠の水に等しい癒しを与えてくれるのだ。
そんな一時も過ぎ、一度暑さを凌ぐ為にモールの中へ入って軽くあちこちを見て、シーズン的な人の多さに圧倒されて移動して……そうこうしている内に、すっかり夕方近くになってしまった。
蕾は歩き疲れ、今は日向の背中で船を漕ぐ様にうつらうつらとしている。
休み休み歩きはしたけれど、公園でもモールでも、たっぷりはしゃいで体力を使い果たしたのだろう。
日向は背中に蕾の重さを感じながら、ゆっくりと臨海公園の遊歩道を歩く。
日中の暑さは少しずつ鳴りを潜め、今は涼やかなそよ風を感じられる。
少しずつ駅から離れるにつれ、人も疎らな状態から段々と人気が薄くなり、世界からぽつんと切り離された様な錯覚を覚える。
そして、その日向が歩く先……海を臨む様に備え付けられたベンチに、その人は居た。
驚きはしなかった。今日ではなくとも、いずれまた出会う事になると思っていたから。
その人物は……初島霧子は、歩み寄ってくる日向の気配に気付いてか、元々気付いていたのか、海を見据える視線を日向へと向けた。
「こんにちわ、日向君」
「霧子さん」
日向は軽く会釈をすると、傍らにある大きなバッグに目を向けた。
「……もう、出発ですか?」
「うん、もう出発だ」
霧子は言った後に、一瞬だけ目を瞑って、すぅ……と息を吐いた。
黄昏時の海は、金色に輝いて直視すると眩しい程に神々しい。
まるでその風景を瞳に焼き付ける様に一望した後、霧子は笑って自分の隣にあるスペースを叩いた。
「立ちっぱなしだと疲れるよ、座ったら?」
その言葉に一瞬日向は迷ったが、ゆっくりと背中の蕾を一度抱き直し、ベンチに横たえると自分も座る。
霧子とは丁度、間に人が一人入るぐらいのスペースを空けて。
霧子は寝そべる蕾の寝顔を見て、柔らかく顔を綻ばせる。
「可愛い。本当に天使みたいだ」
日向も蕾を見て、そっと顔に掛かった髪の毛を払う。
柔らかくて、細い、絹の様な子供の髪は触っているだけで気持ちがいい。
少しの間、二人で蕾の寝顔を眺めていた。
やがて霧子が口を開く。
「宿題は、出来たかい?」
ゆっくりと話すその言葉に、日向は首を横に振る。
「いえ……考えましたけど、分かりませんでした。だけど推測でいいのなら、貴女は俺に……どうして自分がそう思ったのかと言いました。なら……原因は俺自身にあるのかな、って。それぐらいです」
うん、と霧子が日向の言葉に一度頷く。
「霧子さん、何故こんな宿題を出したんですか?」
根本的な問題として、それがあった。
あの時、確かに日向は霧子へ質問した。だけどそれは勘違いで、本来ならばそれだけで済む話だったのだ。
「……日向君はさ」
「はい」
「日向君は、今までどんな生き方をしてきたんだい?」
「……どんな、って言われても」
尋ねられて、日向はどう答えればいいのか迷う。
「小学校や、中学校の時は、どんなだった?」
「えっと……そう聞かれても……普通ですよ、小学校の時からテニスしてて……中学でもやってて、部活行ったり友達と遊んだり、それだけです」
特に何か特別な事をしていた訳でも無い、本当に普通の少年時代を過ごして今まで生きて来たのだ。
日向の言葉に、霧子は「そっか……」とだけ答える。
「蕾ちゃんの事は、高校生になる前からよく見てるの?」
「……高校に入る、ちょっと前からです。三年に上がって、引退した後は自分の受験勉強しながら両親に代わって見る事が多くなって」
今更ながら、日向は割と無茶したもんだなと思う。
日向達が通う進学校は、極端に難しい学校ではないにしろ、この辺りではそこそこ優秀な学校だ。
蕾の事を見る為に削られる勉強時間があって、それでもちゃんと合格出来たというのは、それなりの努力が実ったからだと自負している。
「蕾ちゃんは、可愛い?」
「はい、そりゃ勿論。例え妹であっても、あんまり普段から聞き分け無かったり邪険にされてたら憎たらしくもなりますけど、蕾は素直に育ってくれて……兄妹仲は良好なんじゃないかな、と俺は思ってます」
「君等は本当に仲良いもんね、見ててこっちが癒される」
目尻を下げて笑う霧子に、日向は少しだけ恥ずかしくなる。
日向としては、いつも普通に蕾と接しているだけなのだが、周りから時々こうやって微笑ましく見られるのはくすぐったい部分が強い。
そして、少しの間だけ沈黙が流れた。
口火を開いたのは、やはり霧子からだ。
「宿題の答え合わせ、しよっか」
「はい」
何となく日向は霧子の横顔を眺めるが、相変わらずその視線は水平線に沈みそうな陽に注がれている。
「あれは、君自身が、君を笑った結果なんだと私は思ってる」
「……俺が、俺を?」
「私はね、自分で言うのもなんだけど……自由に生きて来たんだ。姉さん……私の姉に、今の蕾ちゃんの様に温かく包んで貰って、姉さんが望む様に自由に。それが私が出来る恩返しだと思っていたから」
日向が何も言えずに黙って耳を傾けていると、霧子はベンチから立ち上がり、身体を一度大きく伸ばす。
「私と君は正反対のものなんだ。君は柔らかく誰かを包む羽毛の様で、私はその中で愛情をたっぷり注がれて育てられて、自由に羽ばたく事が許された存在だ。でもね、そんな私達だからこそ、自分を大切にしてくれる人達にはもう少しだけ……その人自身の事も、大切にして欲しいと願う事もある」
霧子が振り返って、そっと一瞬だけ、日向の頬に手を添えた。
「君が私を苦手だったのは、君の中にある、君の一部が……私の生き方を望んでしまったんじゃないかな。自分がやりたい事を誰憚る事無くやっている、私を……」
その言葉を聞いた瞬間、日向の中に冷や汗が走る感じにも似た、ひんやりとした感触があった。
まるで、親に悪戯を見咎められた時の様な。
「違いますよ。そういう生き方があるぐらいには理解出来ますが、俺は羨ましいと思う事はあっても、望む事はありません」
反射的に日向は否定する。霧子が言う感情を肯定する事は、今までの自分の足場を揺るがす事にもなり得ると思ったから。
「日向君、君がやっている事は本当に大変で、そして褒められるべき行いだ。それだけは確かなんだ。だからこそ皆、君の行いを支えてくれる、君の事を応援してくれる」
霧子の声は、日向を非難する訳でも無く、ただ優しい。
それなのに日向には、その声がまるで自分の中に入り込み、誰にも見つからず仕舞った宝箱が見つかってしまう様な錯覚を覚える。
「でもね、その言葉や周りの態度は、君を強く支えてくれると同時に、君の中にあるもう一つの想いを、強く押し込めてしまう事にも繋がるんだ」
違うと叫びたかったのに、声が出ない。
自分は何も押し込めてなんて居ないと、霧子がそう生きている様に、日向もまた自由に生きている。
そこに行動の差異はあれど、それ以外のものは無い筈だ。
「俺は……」
ようやく出た声は、後に続かない。でも反抗しなければと思った、これは認める訳にはいかない感情だ。
「日向君」
強い声が響く。
霧子の表情は、悲痛でいて懇願する様なものに変わっていた。
「君が、君のやりたい事を望んだとしても、それは君が蕾ちゃんに与える愛情を疑うものにはならないんだよ」
その言葉に日向は、心臓を掴まれたのかと思った。
「君だけは知ってる筈なんだ、本当は自分にもやりたい事があった筈だって。でも言えなかった、言い出せなかった。もしそれを認めてしまえば、君は蕾ちゃんよりも自分を優先した自分に、深く失望するから」
「あ………」
例えばそれは、教室で放課後に談話するクラスメイト。
例えばそれは、休日に友人達と過ごす同年代の少年少女達。
そして、自分達のやりたい部活動を思う存分にやる友人達。
それらを遠くに見ながら、今の自分には必要無い物と割り切っていた。
だけれど、過去には日和が、今までは雅が、そして今は悠里が、唯が。日向をそこへ引っ張り出してくれる。
そしてその度に、割り切った感情は少しずつ日向の中で再び育ってしまう。
でもそれを認めてしまえば、それは逆説的に自分は蕾との時間を否定する事になるのかもしれないと。
「誰も君の行いを非難する事なんて出来ない。間違った事なんて何一つしてないんだから。大人はそれを否定出来ない、友人達もまたそれを否定出来ない。正しさは認められなくちゃいけない、優しさは何よりも尊い。だけど、そうやって周りの大人や友人達が君の正しさを認める度に、君の中にある君の願望の一つは、少しずつ声を上げる事を止めてしまったんだ」
日向の肩に両手を置いて、地面を見ながら話す霧子は、何を思っているのか日向には分からない。
「君が、周囲へ応えようとする度に、自分の優しさに誠実である為に」
もう一度上げられた瞳に、日向は真っ直ぐに見詰められた。
「自分で、自分の願望を見なくなってしまったんだ」
何故、自分がこの霧子という女性に対して、覚えのない警戒心や反抗心を抱いているのか、日向は理解した。
日向の周囲には居ない大人、価値観の違う人、見ている世界が違う魔女。
日向が見ない様にして、無かった事にした物を暴き出す人。
自分が今日、ここまで歩くのにすれ違った同年代や、悠里と出会う前に教室で雑談に興じていたクラスメイト達の顔を日向は思い出せない。
思い出せないのではなく、思い出さない様にしていたから。
不意に、あのキャンプの日に見た星空を思い出した。
無数の星々は、夜空に煌々と輝いていて日向の世界を一瞬で染め上げた。
自分の図上にあんなにも星空があった事すら、日向は忘れていた。
純基の声が頭をリフレインする。
『どこにでもある筈の風景も、見ようとしなければどんなものだったか忘れてしまう』
自分の中から、何かが食い破って外に出ようとしている。
まるで、卵から雛が孵る様に。
「俺は……」
もう一度何かを言おうとしても、言葉が続かない。果たして自分が何を言おうとしているのか。
口にしてしまえば最後、自分はそれを認める事になる。もう見なかった事には出来ない。
それでも、頭の中を流れる想いは、水門が開くのを待つ様に次々と溜まって決壊を待っている。
「大丈夫だよ、日向君。言葉にしてもいいんだ」
何かを必死に堪える子供に、ゆっくりと諭す様に霧子が話し掛ける。
「誰にも聞かれたくない君の想いは、ここで吐き出しちゃってもいい」
「俺は………」
「私が、ロンドンまで持っていくから。誰にも聞かれない遠い場所まで、ちゃんと持っていく」
言葉にしてもいいと言ってくれた、それは蕾との絆を否定する事にはならないと。
その言葉に後押しされる様に、日向の口から声が洩れる。
「皆と一緒に、遊びたかった……」
「うん」
「皆が見ているドラマの話題に入って行きたかった……」
「うん」
「テニスを、続けたかった。もっと強くなって、上手い人と試合して、思いっきり動き回りたかった……!」
口から洩れる言葉に、法則なんて無く、ただの散らばった感情を吐きだしているだけだった。
その純粋で、子供の様な叫び声を、霧子はただ頷いて聞いている。
知らない内に、頬を涙が一筋だけ伝っていた。
泣いた覚えも、悲しくも無いのに。
「俺は」
「うん」
「好きな子が……居たのに……」
自分を慕ってくれて、いつも一緒に居て、可愛くて。
同じ物を見て、同じ事をして、沢山同じ時間を過ごした。
その女の子の勇気も、自分と一緒に仕舞い込んでしまった。
「そっか」
一言だけを返してくれる、霧子の言葉が今は温かい。
「馬鹿だな、君は」
困った様に笑う霧子は、日向の頭を一度だけ撫でる。
「全部今からでも、幾らでもやり直せるさ」
そのまま、親指の腹で日向の涙を拭う。
「ちゃんと、自分をもう一度見付けられたんだ。前は同時に出来なかった事でも、今ならやれる事もある」
霧子の姿に、父の姿が一瞬だけ重なって見える。
『長い目で見てみろ。今出来ない事があったとして、それがなんだ? 前に出来ない事があったとして、それがどうした? 出来るようになったらやりゃあいい』
「今の君には、友人達が居るだろ? 勿論家族だって居るんだ。ここまでやって来れた日向君なら、少しぐらい周りの手を借りながら、ちゃんと今まで通り蕾ちゃんへ愛情を注げるさ」
そう言ってから、霧子は傍らのバッグを片手に立ち上がった。
頭の中がふらふらして、思考が上手く定まらないまま、日向はその姿を見る。
「なんで……俺にこうして構ってたんですか」
日向の口から出た質問に、霧子は最初に出会った頃と同じ、飄々とした笑顔で答えた。
「そんなの」
帽子を被りながら、言葉を一度区切る。
「八つ当たりに決まってるでしょ」
金色の海を背中にして、あっけらかんと答える霧子に日向は呆然とするだけだったが、最後の見送りをする為に立ち上がる。
「行ってらっしゃい、霧子さん」
「うん、行ってきます。……さよなら、日向君」
段々と遠ざかる背中を、日向は眺め続けた。
やがてその背中がほとんど見えなくなると、ベンチで寝ている蕾をゆっくりと背負う。
揺すられた拍子に少しだけ目が醒めたのか、背中の蕾が動く気配がした。
「おにーちゃん……おうち、まだー……?」
いつも通りのその口調と、背中の重さを感じながら、日向は「もうちょっと歩いたらかな」と答える。
もうすぐ夜が来る。
ぴったりと日向に頬を寄せて負ぶさる蕾へ、日向は歩きながら問い掛けた。
「なぁ蕾、兄ちゃんと一緒に居て、楽しいか?」
「うん、たのしいよー!」
そう言うと同時に、首に巻き付けた蕾の腕がぎゅっと一際強く絞められる。
「く、苦しいんだけど………」
「でもねー、つぼみはね。おにーちゃんがたのしいと、もっとたのしいよ」
「…………そっか」
首が少し締まった拍子に咽たお蔭で、少しだけ涙が出た。
個人的にはこっそりと『日向の魔女編』と名付けていた一連も、これで一応の収束です。
細かい部分等の補足などは、次の魔女編エピローグ後書きにでも書こうと思っています。
書きたい事を書くだけ書いてみたけど、どうすれば伝わるのか、何か感じて貰えるのか、何度も何度も書き直して、でもやっぱりこの辺りが今の自分の限界で。
そんな時に見ていたサイト?エッセイ?に、貴方が満足すればそれでいい、と書いてあって。
これが今の自分の精一杯なら、これでいい!と思えました。
作品としての出来栄えは兎も角、習作としては色々と学ぶ事の多かった章でした……ってそうだ、章分けをそろそろしないと……。