日向の受難
霧子とテーブルを挟んで向かい合い、日向はスマートフォンをテーブルに置いている。
画面には、通販大手のサイトが表示され、検索バーに『イギリス 英会話 初心者』という単語が並ぶ。
それを眺めながら、霧子が唸った。
「そっか……通販すれば良かったのか、盲点だった。レビューというものを忘れてた」
「正直、俺にもどれがいいかなんて分かりませんからね。こういうのはレビューを見て自分と似た状況の人の使用感を読むのが一番いいと思います」
返事をしながら日向の指は幾つかの商品を指先でタップしている。
「ほら、これなんか『これからイギリスへ留学するので、その勉強の為に買いました。非常に分かり易く、生活で日常的に使う例文などがあり、非常に良かったので☆4です』って書いてますよ。というか、初島さんは何をしにイギリスへ?」
「日向君、この人なんで『非常に良かったです』とか言いながら☆4なの? 算数出来てないんじゃない? 新しい皮肉?」
「俺が知る訳ないじゃないですか……それで、初島さんは何故イギリスに行くんですか?」
「霧子でいいよ。私の知人は皆そう呼ぶ。だから初島さんと呼ばれても自分が呼ばれてる気がしない。小学校の先生に呼ばれる時ぐらいしか記憶が無いから」
にこりと笑って霧子が言うが、日向は体中の力が抜ける程に疲れていた。
会話が噛合わない。
いや、噛合わないというより、霧子の応答が自由過ぎる。
話の内容や流れは理解しているのか、非常に危ういバランスで会話が成立している。
話したい時に、話したい内容を話す。前後の会話が繋がってないようで繋がる、逆も然りの状態だ。
「日向君は気が利く子だなぁ、私とは大違いだ。私がこういう喋り方をすると、大体皆、煩わしく思うか、自分の用件だけさっさと伝えて何処かに行ってしまう。まぁ私も直すつもりは無いんだけどね」
日向が溜息と共にアイスコーヒーを口に含むと霧子は日向を見て呟いた。
「とりあえず、英会話本はレビュー見ながら選別してみるよ。その時はまた一緒に選んでね。それで日向君が私に聞きたい事ってなにかな?」
さり気なく次もまた予定を組まれている。もはや何を言う気にもなれない日向は、彼女にぶつけようと思っていた質問を口にする。
「ええと……霧子さん、あの初めて会った日なんですけど、なんで俺を見て笑ったんですか?」
その質問に霧子はきょとんとした顔をする。
「んー、あの時か、つらーっと観客を見渡して……あぁ、なんか可愛い子が居るなーと思って、日向君はお父さんなのかな? でも若いなーみたいな事を考えてたけど……お客さんに笑顔を振り撒くのって変?」
逆に質問を返され、今度は日向が困った顔をする。
「いえ……変ではないんですけど、俺を見た時が……なんていうか、嘲るみたいな…そんな顔だったなぁ、って思ってて。ひょっとして、何処かで俺が初島さんに失礼な事でもして、俺が覚えてないだけなんじゃ…とか思って」
「……嘲るように笑った、か。ふぅん……」
霧子は一瞬真剣な目で日向を見る。
「ううん…私にはまるでそのつもりが無かった、ってのは言えるよ。不快にさせたなら御免ね。……そもそも私と日向君、あそこで会うのが初めてだよね? その私が日向君を見て、お客さん用じゃない笑顔を向ける道理が無いよ」
一度頭を下げて、日向に謝罪した後にそう続ける。
確かに、日向と霧子が出会ったのは、あの駅前広場の時が初めてだ。
「あ、いえ、俺の勘違いだったら良かったです。こちらこそ不躾な質問ですみません……」
日向も慌てて頭を下げるが、霧子は何かを考え込むように、じっと日向を見ていた。
「……私は日向君をそんな風に見た覚えは無いのに、日向君は私に嘲られたと思った……か、少し面白いね。興味が出てきた」
そうして手元のドリンクに入っている氷をストローで掻き回しながら何かを考え始めた。
霧子が真剣な表情をすると、その美貌も相まって絵画の様な風景になる。
何をするにも、この霧子という女性は影響力が強過ぎる気がする。普段から周囲に紛れる日向とは全く逆のタイプだった。
「よし、なんで君がそう思ったのか、それを夏休みの宿題にしようか。期限は……そうだな、一週間だね」
「……いえ、俺の勘違いだったならそれでいいんです。だからこの件は忘れて貰っても」
霧子の提案に日向は首を横に振ると、霧子はもう一度日向を見据えて言う。
「忘れない方がいいよ。多分、君の為にもなる気がする。ならない気もするけど……まぁそれを決めるのは私じゃないか。そう思うからには、必ず理由はあるんだ。推測でもいいから答えを探してご覧よ」
そう話す霧子の顔は、子供を見守る母親の様に、慈しみと、どこか寂しさを感じられるものだった。
「霧子さんは……もしかして、もうその理由に思い当たってるのでは?」
何となく、霧子の表情を見ていたらそんな風にも思えた。
「どうだろうね、可能性は幾つか考えてるけど、どれが正しいのかは確信していないよ。だから分からないとしか言えない」
そこまで言うと、霧子は空になったドリンクカップを持って立ち上がる。
「私は暇な時は大体この辺りに居るから、見つけたら声掛けてね。あ、日向君スマホある? ID交換しようよ」
言われてポケットからスマートフォンを取り出し、霧子とお互いに連絡先を登録し合った。
「それじゃ、私は失礼するね。今日は付き合ってくれてありがと」
そしてさっさと席を立ち去ってしまう。その背中を見ながら日向は結局幾つか答えてくれなかった質問を思い出しながら自分も店を出た。
喫茶店を出ると、正午過ぎの強い日差しが日向を襲う。ここ最近の晴天は、頭の表面を焦がしに来る程に強い日差しで、日向は今日祖父母と出掛けている蕾は大丈夫だろうか、と心配になった。
なんだか既に参考書を買う気にもなれず、商店街をふらふらと歩いている日向に声が掛けられる。
「あれ? 日向先輩?」
振り返ると、ラケットバッグを担いだ日和が居た。
「日和。部活帰り?」
「はい、今日は午前中の練習だったので、今さっき終わったんです。日向先輩は何してるんですか?」
日向の横に並んで歩き始める日和にそう質問され、日向は何て答えたらいいのか一瞬迷う。
「……そうだなぁ、参考書を探してたら、魔女に化かされた」
色々考えてみたけれど、この答え方が一番しっくり来る気がして、そのまま答えてみる。
「は……?」
ポカンと呆けて聞き返してくる顔が可愛らしく、日向は思わず笑ってしまう。
「いや、そのまんまなんだよ。他に言い様が無いと言うか――」
そうして、日向は先程まであった出来事を掻い摘んで日和に話す。
だが、説明し辛い霧子との間に出来た夏休みの宿題については触れず、書店での出来事と喫茶店で品物選びを手伝わされた事だけだ。
その話を聞いていた日和は、何故かみるみる機嫌が悪くなっていく。
唇が尖り、眉には皴が寄っている。どうしたのだろう、と日向が日和に目線を向けていると。
「……つまり、日向先輩は私が部活している間に、そのとんでもない美人さんと二人でお茶をしてたって事ですよね? しかも、私と再会して話をした、あの喫茶店で!」
付け加えるなら、そこに『席も一緒』という単語が入るが、ここでそれを言う度胸が日向には無い。
「いやいやいや、まぁ確かにそうなるんだけど! むしろ俺は歩いてたら災害に出遭ったぐらいの気持ちなんだけど!?」
慌てて弁解するが、日和の機嫌は晴れない。
何も後ろめたい事は無い筈なのだが、だからと言って放置出来る程の図太さも無い。
日和はじーっと日向の顔を睨むと、溜息を吐いてから告げた。
「日向先輩、お昼ご飯食べました? 私、部活上がりでお腹ぺこぺこなんです。お昼ご飯付き合って下さい」
一息で言うと、今度はスマートフォンを取り出してどこかに電話を始めた。
「…………もしもし、お母さん? 私、お昼ご飯は日向先輩と一緒に食べるから。うん、ごめんね、ありがとう」
「え、おばさんに掛けたの?!」
そして電話を切ると、もう一度日向に振り返る。
先程までの不機嫌さは一転し、いつもの太陽の様な笑顔が戻っている。
そんな顔をされては、日向もこれ以上無粋な事は言えなかった。
「……分かった、俺もお腹空いたし、なんか食べに行こうか」
「はい!」
そうして二人は、商店街の飲食店を物色し始めた。
雅だけじゃなく、日向も段々と振り回される展開になってきました。いいぞ女性陣もっとやれ……と思いながら。
ここから日和のターンが始まると思います。