夏の出会い
キャンプから帰宅して二日後、日向は商店街の書店で参考書を選んでいた。
高校二年の夏、志望校へ向かうには今から準備の必要がある。家でテレビを付けても学習塾の『高二の夏が正念場』という煽り文句が出てくるので、どうにも落ち着かなくなってしまうのだ。
「………ん」
参考書の棚から、一冊手に取ると中身を軽くパラパラと捲る。
自分の学力に見合ったものを選ばなければ意味が無いので、この辺りは慎重に見る。
そうして蟹の様に横に歩きながら背表紙を眺めていると、ほんの至近距離に人の気配を感じた。集中して気付かなかったらしい。
「と……すみません」
肩が当たりそうになり、慌てて身を引くが、相手も集中して気付いてなかったようで反応が無い。
その横顔に、どこか見覚えがある気がして、失礼と思いながらほんの少しだけ覗き見る。
「あれ、えっと、初島さん?」
日向がそう声を掛けると、件の相手……初島霧子が、はっとした表情で日向の方を向く。
「え、私?」
突然名前を呼ばれた霧子は、一瞬周囲を見渡し、それから声の主である日向を見た。
「はい。ええと、覚えて無いかもしれませんが、以前……初島さんが演奏している時に、ご挨拶させて貰った新垣です。妹の蕾と一緒に居た」
そう言われて霧子は、じーっと日向の顔を数秒見つめ続け「あぁ!」と顔を綻ばせた。
「覚えてる覚えてる、あの小さい可愛い女の子と一緒に居た! 私の顔なんてよく覚えてたね。ごめんね、こっちはすぐ思い出せないで」
掌を目の前に立て、霧子がウィンクしながら日向に謝る。
彼女の人目を引くルックスと、モデルの様なシルエットで、その仕草は恐ろしく似合っている。
「確か……日向君、だっけ。どうしたの、エッチな本でも買いに来た?」
「ち、ちがっ……」
出し抜けにそう言われて、日向は珍しく狼狽する。
ほぼ他人と言っても差し支えない相手から、性的な冗談を飛ばされるとは思っていなかったのだ。
「ごめんごめん、冗談よ。君は真面目そうだからね、勉強道具でも買いに来たのかな?」
日向の反応を見て笑った霧子が柔らかい表情になり、日向に尋ねる。
コロコロと変わる表情は、日向の知っている女子達とはまた異なる……特に近しいのは唯だろうが、彼女の自由さとも異なる雰囲気を纏っている。
「はい、参考書を買いに……初島さんは、何を探してたんですか?」
日向は霧子が眺めていた本棚の背表紙を見る。
そこには英会話やTOEIC用対策試験問題集など、様々な英語関係の書物が置かれている。
「んー、ちょっとね、この先、必要になりそうな本を探しておこうと思って。ご覧の通り英語関係だよ」
霧子も本棚を見つめて、日向の問い掛けに答える。
そうした後、「あ、そうだ」と目を丸くして呟き、日向を再び視界に捉えた。
「日向君、高校生でしょ、で……こんな所に来るって事は、勉強は結構頑張ってるんだ。英語の成績はどのぐらい?」
訪ねてくるその表情は『面白い事を考えた』と顔を見れば分かる程…愉快に笑っている。
日向は、彼にしては珍しく霧子に警戒心を覚えた。
何故だろうか、本能とも呼べる部分が、霧子に安易に近寄ってはいけないと警告している。
「……悪くはありませんが、よくもありませんよ。普通の成績です」
「嘘だね」
日向が答えた瞬間、霧子は更に面白そうに口角を上げた。
「一瞬だけ何か考えたね、目が泳いだ。でも嘘は吐き慣れてないみたいだ。そんな事を言うのに決心し過ぎだよ、堂々とし過ぎて却って嘘臭い」
「………まだ出会って数分しか経ってない人に、俺の事が分かるとも思えませんが」
そう答えると、霧子はきょとんとした表情になり、次の瞬間には声を殺して笑った。一応は書店の中で他の人を気にしているようで、口を押えて声が漏れるのを防いでいる。
「ぷっ……ふふ、くっく……それもそうだ、そうだね。ごめんごめん、悪気は無いんだ、ほんと。癖みたいなものだと思ってていいよ」
そうやって笑う霧子の表情は、先程までとは打って変わって無垢な少女の様だった。
その時々、その瞬間で印象が違い過ぎる彼女に、日向はどう接していいのか分からずにいる。
「でも、困ってるのは本当なんだ。どんなのがいいか、選ぶの手伝ってくれないかな? 私は勉強なんてして来なかったから、どういうのがいいのかサッパリだ。ここは一つ、勉学に励む学生の助言が欲しいと思ってる、お願い出来ないかな?」
眉を下げて肩を落とすその姿は、本当に困っている様で少なくとも先程のように警戒すべき所は無い。
そうやって正面切って頼られると、無下に断れないのも日向の性格だったが、それでも少し抵抗したくなる。
「……俺が習ってるのは、受験用の英語です。イギリス英会話は分かりません」
どうにか逃れようと、日向は理屈を捏ねる。
その言葉に、霧子は手を顎に添えて「なるほど……それもそうだ」と呟いた。
だが次の瞬間には。
「なら、基本的な英語でもいいさ、何となくなら通じるだろうし」
と、かなりアバウトな事を言い始める。
「アメリカ系とイギリスの英語だと、文法や単語の用法に細かい違いがあります。日本で地方の方言と共通語を話す様なものですよ、伝わらない部分は伝わらないので……は?」
日向が言い終わらない内に、霧子が日向の腕を引っ張った。
霧子が周りに目配せしたので、周囲を見てみると、他の客が僅かに顔を顰めている。少し立ち話し過ぎたようだ。
「……ここじゃなんだから、近くで話そう。あんまり騒ぐとここに来れなくなっちゃいそうだ」
言って、さっきと同じように日向にウィンクしてみせる。
「ちょっと待って下さい、俺は別に……」
「いいからいいから、細かい男は嫌われるよ」
日向の言い分を意に介さず、霧子はぐいぐいと書店の入り口まで歩いていく。
流石に年上と言えど、女性相手に乱暴な事は出来ず、されるがままに日向は書店の外まで連れてこられてしまった。
「あそこでいいか、涼しそうだし。コーヒー飲みたいし……」
そのまま目に付いた喫茶店……以前、日和と話をするのに使った喫茶店に連れて行かれる。
「ちょっと、ちょっと初島さん……俺の話を少しは聞いて下さい」
「なんだようるさいなぁ……ここまで来ちゃったんだ、少しぐらい付き合ってくれてもいいじゃない」
「俺は参考書を買って帰りたいんです。長話する程の時間は無いんですよ」
「君達高校生はこの時期、夏休みだろう? なら時間なんて余るほどあるじゃない」
知人達が見たら驚く程、日向の態度は頑なで、言葉遣いさえも、普段のような穏やかさが鳴りを潜めている。というのに、霧子は全く意に介さない。
「あ、私はどうしようかな。アイスのエスプレッソラテで。日向君どうする? 私が誘ったんだし奢るよ。何でもいいなら私の同じのでもいいけど、苦いよ。ブレンドの方がいいと思うけど」
黙っていると次々と繰り返される言葉に、日向は二の句が告げずに居ると、本当に勝手にオーダーを入れて商品を受け取っていた。
「あの……俺は付き合うとは一言も言ってませんけど」
「それじゃ、あそこに座ろうか。あーでも、本当ーに嫌なら帰ってもいいよ、流石に悪いし。で、そうじゃないなら、少しだけ相談に乗って。困ってるのは本当なんだ、私は英語のえの字も知らないからね」
悪いと思ってたのか、と心の中で驚く日向だが、霧子の屈託なく笑う顔と、本当に困っているという言葉に弱り切ってしまい、仕方なく頷く。
「分かりました……俺も丁度、貴女に聞きたい事もあったので」
最初に会ったあの日、何故か彼女と目が合った。その時の貌が忘れられない。
その理由を、知りたかった。
「私に? 日向君が? なんだろ。まぁいいや、それじゃ座ろうか」
そう言って彼女は、あの日に日和が座っていた席へ座り、日向もまた同じく対面に座る。
霧子は手に取ったエスプレッソラテを一口だけ飲み、苦い……と顔を顰める。
「さ、何でも聞いていいよ。私に答えられる事なら答えてあげる。でも、その前に……私の要望にも答えてね」
霧子の性格上、凄く早く筆が進みました…
一つだけ追記しておくと、霧子はヒロイン枠ではありませんので、ハーレムにはなりません…笑
(ハーレム化を懸念していた方が結構居そうなので、あらかじめ)