夏休みキャンプ編7 星を見上げるという事
現在時刻は二十時三十分。
浴場からテントへ戻った日向達は、純基から指定された場所へ向かっている。
小道には周囲に灯りが無く、手元のフラッシュライトだけが足元を照らしてくれる道標だ。
「はー、ここら辺は夜になると涼しくていいですね……風が気持ちいいです…」
手元にアイスバーを持った日和が、穏やかな声で呟く。
同じように、アイスを手に振りかざす唯が遠目に森を見て、戦々恐々とした声を発する。
「でも森の中はおっかなそうだね……あたし怖いのはダメだなぁ、理解出来ないものって怖くない?」
「私は時々、唯が理解出来なくなるけど怖くは無いわよ?」
「その例えはおかしいよね? え、私そんな理解不能な事してる?」
唯と悠里がじゃれ合うようにやり取りをしている後ろから、日向と歩いている雅は周りを見渡した。
「ほんと暗いな、この辺り。蕾ちゃん、兄ちゃんから離れるなよー、迷子になったら危ないぞー」
「うん、わかってる!」
雅の言葉に大きく頷いた蕾が、日向の手を強く握り返してくる。
ぷにぷにとした掌の感触を楽しみながら、日向も手を握り返した。
「……そろそろいいかな? ここら辺なら、十分見えそうだね」
日向が言うと、一同は立ち止まり、シートが二枚ほど展開されていく。
そうして、片方のシートには女性陣が、もう片方に男性陣が座ると、早速の星天観測の開始となる。
「じゃあ、いい? 全員、目を閉じてー仰向け!」
唯の掛け声が響き渡ると、それぞれがシートに寝そべるガサガサっという音が暗闇に鳴り響く。
……そのまま、数秒が経つ。辺りからは木々の中からか、夏の虫が鳴く声だけが微かに聞こえる。
とても静かで、目を瞑っていたら周りに誰も居なくなっている錯覚を日向が覚える頃。
「……まだぁ?」
蕾の少し不安そうな声が聞こえてきた。
「唯、あんまり溜めてないで早く早く! 蕾ちゃん怖がってるから!」
悠里が叱責する声が聞こえると、辺りを包んでいた少し緊迫した空気が弛緩する。
「あはは、ごめんごめん、頭の中でドラムロール鳴っててさ……それじゃ、御開帳ー!」
唯の一言で、日向はゆっくりと目を開いた。開いて、息が詰まった。
視界に瞬くのは、数えきれない星と、月と、それだけだった。
視界の両端にさえ、夜空以外何もない。
「うっそ………」
「うわぁ…………」
「うわー!」
悠里と日和の呆然とした呟きが聴こえ、その後から蕾の歓喜した声が続いた。
日向の隣から、雅の「うおぉ……」という微かな声が聞こえてくる。
その声を聞きながらも、日向は一言も言葉を発せないでいる。
ただただ広がる、目の前の光景に圧倒されていた。
大小様々な星々が、ちかちかと点滅して生き物のような息吹すら感じられる。
黄金に輝く半月も、優しく光を放ち、暗闇に慣れた瞳が見る世界を少しだけ照らしてくれた。
「夏の星座って、何がありましたっけ……」
心ここに在らずといった声色で、日和が呟くのが聞こえる。
その言葉に、日向は心の中で思った事をそのまま口に出していた。
「………分からなくても、いいよ」
声が届いたかは分からないが、何となく日和が少しだけ笑った気がした。
「うん、そうかも。そうですね……」
そうして、暫くの間、ただ星空を見上げ続けた。
どのぐらいそうしていただろうか、不意に悠里の声が聞こえてきた。
「あ……蕾ちゃん、寝ちゃった」
「おっと……」
日向はゆっくりと身体を起こして、悠里達のシートへ向かう。
既に三人は身体を起こしており、寝入ってしまった蕾の寝顔を覗きこむ。
「かーわいー、新垣君じゃないけど、天使だねこりゃ……」
唯が眉尻を下げて笑う。
「今も可愛いけど、小さい時はヤバかったですよ……寝顔なんて一日中見ていられるぐらい……」
日和も、蕾が起きないように囁くような声を発した。
「……そろそろ戻るか、布団に寝かせてあげないと」
日向は蕾の膝下と、背中をゆっくりと持ち上げて腕に抱き抱える。
頭が落ちないよう、二の腕部分を枕替わりにしてやると、足に力を込めて立ち上がった。
「俺が先導するから、芹沢は日向の足元照らしてやってくれ」
敷いていたシートを片付けながら、雅が悠里へ予備のフラッシュライトを手渡す。
「うん、分かった。それじゃ、行こうか日向君」
「ごめんね、宜しく」
先に歩みを進め始めた悠里の後を追うように、日向も歩き出した。
「あたし帰ったらアイス食べたくなってきたなー、成瀬ーもう一本買ってきてー」
「これ以上俺の財布に小銭は無い……!」
馬鹿なやり取りも、少しだけ声が潜められている。
そうして、満天の星空を見ながら、ゆっくりと一同はテントに戻った。
「星はどうだった?」
テントに戻った後、日向は蕾を悠里達に任せて、今は中で様子を見ててくれている。
雅も荷物を整理しているので、一人外に出た日向に声を掛けてきたのは純基だった。
「凄かったです……なんか、それしか言えない感じで」
日向の言葉を、純基は目を閉じて頷く返事で答えた。
「いつも、どこにでもある筈の風景も、見ようとしなければどんなものだったか忘れてしまう。偶には、こうしてただ見る事だけに目的を作るのもいいもんだよ」
純基の言葉は、星を示しているかのようで、また違った事を話しているようにも思えた。
日向は黙って、純基の言葉に耳を傾けた。
「大人になれば、やりたくったってそうは行かない時もある。勿論、学生だからいつでも出来るって訳じゃないんだけどね、それでもやっぱり、大人よりは子供の時の方がチャンスは多いんだ。だからかな、僕は皆をここへ連れてきてあげたくなった。いつも唯が楽しそうに話していたからね」
ここからでは、少し見え辛くなってしまった星を見上げて、純基は子供のように笑う。
この人もまた、ここに童心を取り戻しに来たのだろうか。
仁も偶にこういう子供っぽい事をするので、だからこそ二人は気が合うのだろうと日向は感じた。
「それじゃ、僕もそろそろ寝るよ。火はこのままでいいよ、寒かったら足すといい、朝方には勝手に消えるからね」
「はい、おやすみなさい。今日は……ありがとう御座いました、また明日もお世話になります」
そうして純基は、呑み掛けのビールを持って車へと向かう。
その背中にお礼を言いつつ、日向は純基を見送った。
十分程すると、蕾以外のメンバーが続々とテントから出てきて、バーベキューコンロを取り囲むように椅子を並べて座る。
爛々と光る赤い炎は、こんな広い草原の中でも安心感を与えてくれた。
「……今日は良い一日だったなぁ、一生もんの想い出になりそう」
唯が発した一言に、それぞれが頷いて返す。
「家族で来た事はあっても、同級生や後輩とキャンプってのもなかなか無いよなぁ」
雅も火を見ながら、笑い声混じりに同意する。
その後で、日和がすっと立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。
「今日は私も一緒に連れてきて下さって、ありがとう御座いました……凄く充実して、多分普通に過ごしていたら、皆さんとも仲良くする機会が無くて……だから、ありがとう御座います」
それに照れたように、唯が手をわたわたと振る。
「い、いいっていいって! 日和ちゃん来てくれて、すっごい楽しかったし! あ、でもお礼って事なら……あたし、日和ちゃんと新垣君の馴れ初めが聞きたーい! ここまで深く聞いて来なかったけど、結構前からの知り合いなんだよね? 二人の距離って想像以上に近い時あるし、なんか若干通じ合ってるっぽい雰囲気あるし……一体どういう経緯で、どういう関係になったのか、すごい興味あるんだけど!」
と、そんな事を言い始めた。
「あ、私もちょっとだけ興味あるかも! 普通に考えたら、こんな可愛い子と日向君の接点があるとは思えないし……でも言いたくない事とかあるなら、気にしなくていいからね! なんか野次馬根性丸出しで恥ずかしいし……」
悠里も唯の言葉にうんうんと頷きながら、会話に入る。
急な提案に日和は「え、ええ?!」と驚きながら椅子に座り直し、日向を見る。
特に日和とのこれまでは隠すような事も無いのだが、一部……そう一部、最後の最後だけは日和のプライバシーにも関わるので、日向は勝手に了承する事もせず、日和の判断に任せる事にして、軽く頷いた。
強く否定はされていないと分かった日和は、ふうと一つ溜息を吐くと。
「そうですね……ええと、私が初めて日向先輩と出会ったのが、私が転校して来た小学四年生の時ですね、テニススクールで一緒になりました」
「日和ちゃん、転校組だったんだ!? っていうか新垣君がテニスって、えぇ?! 聞いてないんだけど!」
初っ端から唯の突っ込みが入る。
「そりゃ、言ってないからね。高校から帰宅部だし、わざわざテニスしてました、って吹聴するのもおかしいでしょ」
日向が苦笑いしながら唯に返すと、唯は唇を尖らせて日向を睨んだが、すぐに日和に視線を戻した。
茶々入れが終わった所で、日和が再び口を開き始める。
「それで、私はその……自分で言うの恥ずかしいんですけど、スクールでは結構上手い方で、同じ女の子の練習相手では釣り合わなくて、それで日向先輩が私との練習相手に抜擢されたんです、それが始まりですね」
あまり自分の事を誇示したがらない日和は、少し肩を狭くしていた。
「……スクールで結構上手い日和ちゃんで、その相手が日向君?って事は、日向君も結構上手いんだ? 中学でも二人が仲良くしてたって事は、日向君も中学ではテニス続けてたの?」
今度は悠里が意外そうな目で日向を見る。
「うん、中学校まではね、引退した後は全然やらなくなったけど」
「へー、今の姿からじゃ全然想像付かないわー……何となく運動は出来るのかな、って印象があったけど。そういえば成瀬とも中学からだもんね、成瀬は知ってたんだ?」
唐突に話を振られた雅は、今まで黙って火を見ていた顔を上げる。一度炭火を足し、軍手を取りながら唯へと頷いた。
「勿論、知ってたぞ。俺達は……なんだったっけか、もう思い出せねーな。何となく話すようになって、ウマがあって、それから今まで続いてるんだよな。男同士なんて大体そんなもんだけどさ」
「そうだね、俺もなんで雅と仲良くなったのか思い出せない」
二人で笑い合う。
「ふーん…確かに、仲の良さって出会いじゃないんだよねー、仲良い人ほど、どうやって知り合ったか覚えてないのは分かるなぁ。……で、新垣君のテニス成績はどれ程?結構強かったの?」
唯が手元のコップに氷とサイダーを注ぎながら、日和へと質問をする。
向けられた日和は、ちらりと日向に視線を向ける。
「結構強いっていうか、一昨年の中学選抜戦なんか……」
そこまで言って、一瞬言い淀む。
日和の視線を受けて、日向は代わりに答えた。
「いい所まで行ったんだけど、最後に足を捻ってね、それで何とか試合は続行したんだけど、結局負けちゃった」
日和がその言葉に視線を落とすと、辺りには少し沈黙が下りた。
虫の鳴き声が聞こえる中、不意にテントの入り口が開けられて蕾が顔を出した。
「………ずるいー……」
寝惚けているのか覚醒してるのか分からない言葉が出る。
唐突な一言に、その場に居る全員が堪えきれずに笑い出した。
「ず、ずるいって、つっつ……どうしたの、夢でも見てたの? 寂しくなった?」
歩み寄ってそっと視線を合わせる日和に、蕾がぎゅっと抱き着いた。
そのまま動かなくなるのを見ると、また寝入ってしまったのだろう。
「……寝惚けてたね、ごめん日和、もう一度寝かせてあげて貰える?」
「はい、大丈夫です。任せて下さい」
近くで蕾の様子を確認した日向に、日和は頷いてそのままテントの中へと入る。
その場に残った四人で顔を見合わせると、もう一度笑った。
「そろそろテントに入ろうか、俺が片付けるから、後は寝ててもいいよ」
「……そう? じゃあ、お願いします。私も蕾ちゃん見て来るね」
最初に悠里がテントへ戻り、続いて唯も周りのコップ等を片付けて、テントへ向かう。
「それじゃ二人とも、おやすみー……覗くなよ?」
にやにや笑いながらテントへ入る唯を、掌を振って見送る。
「雅も、先に寝ててもいいよ。俺はちょっと目が冴えちゃったし、蕾がまた起きたら困るから、もうちょっとだけ起きてる」
虫が来ないよう、食料や飲料をクーラーボックスへ仕舞う雅に声を掛けると、雅は「分かった」と返事をしてテントへ向かう。
入口を開けたまま、一度雅が振り返った。
「………覗くなよ?」
「鼾かいてたら起こすからね」
くだらないやり取りを済ませ、雅はテントへ入って行く。
一人になった日向は、火の赤さを楽しみながら、静かに星を見続けた。
星は好きです。でも、蚊が多いのは嫌いです……