勉強会Ⅰ
ピピピピ…ピピピピ…とアラームの鳴る音が、部屋に響く。
夢か現実か、どちらか判断出来ない朦朧とした意識を、日向は次第に覚醒させていく。
やがて、部屋の外から何かが走ってくる音が聞こえた。
足音は部屋の前で一度鳴り止み、次にドアノブがガチャリと開く音が聞こえた。
次の瞬間、蕾が姿を見せると同時に日向のベッドへ向けて飛んだ。
「あーさーだーよー! おにーちゃん、あさだよー!」
ポフッ、と布団が小さな体を受け止める柔らかな音と共に、日向は蕾の体重を全身で受け止めた。
五歳児とは言え、成長期の身体は昔と比べて重くなっており、勢いがあるとなかなかの衝撃になる。
「うっぐふ……」
「あはは! へんなこえ! あーさーだーよー!」
起きて起きて、と言われても、上に乗っかられていては身体を起こす事も出来ない。
蕾が丁度、日向の胸元で座るように乗っている為、重心が上がらず日向はベッドに寝たままだ。
「……こんにゃろー、そこに居たら兄ちゃん起きれないだろ!」
お返しとばかりに、自由になる両手で布団を左右から跳ね上げる。
そのまま蕾を布団で包み込み、ごろりと横に退けた。
「ぎゃー! やーめーてー!」
蓑虫のように布団に包まれた蕾が、ケタケタと笑いながら叫ぶ。
「参った?」
「まいった! まいったー! あはははは!」
笑い声の止まない蕾を布団から解放し、そっと抱き上げて床に立たせる。
ツボに入ったのか、蕾は笑い過ぎてまともに立てない状態になっている。
仕方なしに日向がしゃがみ込むと、前から抱き着いてくるので、そのまま蕾のお尻辺りを支えて立ち上がる。
「きょうは、おうちでべんきょうかい?だもんね」
「あぁ、それでお前、今日はそんなテンションなのか……」
朝から蕾のテンションが高いのはままある事なのだが、今日はとりわけ凄かった。
あまり頻繁に来客がある訳じゃない新垣家に、年上の人達がやってくる。
蕾ぐらいの年齢にとっては、幼稚園に高校生が交流で遊びに来るような感覚と変わらないのだろう。
「でも、お勉強する人も居るんだから、邪魔しないようにするんだよ。手が空いてる人は遊んでくれるって言うからさ」
日向が少しだけ真面目な声で言うと、蕾は「はーい!」と元気よく返事してくれた。
日向が学校に着くと、雅や悠里、唯と言った友人達は既に登校していた。
各々と挨拶を交わしながら席に着くと、唯が不服そうな顔で日向を見上げる。
「………新垣君のいけず」
「義務は果たしたよ」
昨日のメッセージでのやり取りの事を言っているんだろうが、言葉だけを取ると妙な艶っぽさが出ていたので慌てて返事をする。
二人のやり取りを見た悠里が、首を傾げながらこちらを見る。
「何の話?」
「昨日、恵那さんに今日の夕飯リクエストを聞いたんだよ。なんて言ったと思う?」
口を尖らせる唯の代わりに日向が答えると、悠里は「んー」と考え込んだ後。
「七面鳥?」
「……悠里の頭の中で、あたしは毎日がクリスマス気分な人間なの?」
割と悠里の唯に対する扱いも大概だなと思いつつ、日向は悠里に首を振る。
「惜しいね、ガパオライスだよ」
「惜しいの?!」
「チャレンジ精神だけは旺盛だよね」
驚愕した悠里に疲れた顔を向けると、同情めいた瞳を向けられる。
二人の会話を聞きながら、唯は腰に手をやり身体を反らした。
「あたしリベロだから」
「リベロはバレーのポジションであって人生のポジショニングではないぞ。日常生活ではディフェンシブに構えるもんだろ」
横からやり取りを聞いていた雅が思わずと言った風に口を挟む。
げんなりした顔の唯が、雅を見ると口元を「フッ」と皮肉気に笑わせる。
「ディフェンシブに構えてるから、存在感が希薄なのよ成瀬。最近のあんた、新垣君よりこの辺りじゃ気配が薄いわよ」
「やめろ!昨日に引き続き俺の心を抉るな!」
「は?昨日?」
思わぬ雅の反応に唯は首を傾げたが、雅は「なんでもない……」と机に突っ伏してしまった。
そんな二人の様子を見て、日向は授業が始まる今からこれで放課後まで気力が持つのか心配になる。
ポンと背中を叩かれる感触に顔を向けると、悠里が同情めいた視線で静かに首を振っていた。
悠里の優しさに心を洗われながら、日向はそっと授業の準備を開始した。
そして来たる放課後、四人は打ち合わせていた通り、日向と雅、悠里と唯に別れて下校を開始した。
深い意味は無いが、四人で一緒に帰ると何より目立つ。
今朝あれだけ教室の中心でバカみたいなやり取りをしていて今更だったが、だからと言ってわざわざゴシップに取られそうな行動を表立ってする必要もない。
日向と雅は、先ずは日向の祖父母宅へ蕾を迎えに行った。
祖父母宅に入ると、相変わらず祖父が真っ先に顔を出す。なんだかんだで、孫の日向にも甘いのが祖父だった。
「日向、おかえり。……おお、今日はマサも一緒か。珍しいね」
マサというのは、祖父が雅を呼ぶ時の癖みたいなものだ。
雅という漢字を中学のジャージに付けているのを、勘違いして呼んでから定着してしまった。
中学時代から面識のある二人なので、雅も特に新垣家の祖父母に構えた態度は取らない。
「うっす、お久し振りっす。お邪魔してます」
体育会系の独特な挨拶を、祖父は鷹揚な笑顔で迎える。
そんなやり取りをしていると、廊下からロケットが飛んでくる。
「おーかーえーりー! あーみやびくんだ!」
両手を一杯に振って廊下を駆けてくる蕾に、雅が腰を落として構える。
「よし、来い蕾ちゃん! 俺が受け止めてやる!」
そうして勢いよく、蕾は日向へダイブした。
腰を落としたままの雅が、すっと立ち上がって何事も無かったかのように居住まいを正す。
「それじゃ、じいちゃん、今日は言ってた通り友達来るから、このまま帰るね」
「あぁ、気を付けてお帰り。マサも、今度はゆっくり涼みに来なさい」
どこか引き攣った顔をしていた雅も、祖父の言葉に頷いて「そうさせて貰います」と答える。
そして今度は、三人で玄関を出て、新垣家へと向かった。
新垣家に着いて、蕾の手洗いうがいを済ませると、リビングを軽く掃除する。
事前に清掃は済ませてあるが、室内というのは時間が経つとすぐに埃が溜まるものだ。
「ここでやるのか?」
「うん、俺の部屋だと狭いし、男子の部屋に女子を閉じ込める訳にもいかんでしょ」
「紳士だねぇ」
二人で手分けをしてリビングに座布団、麦茶等を用意していく。
蕾はテレビの教育番組を入れて、大人しく座っていた。
やがて来客用ベルが鳴り響くと、素早い動作で蕾が立ち上がり玄関へ走って行く。
「いーらーっしゃーい!」
大きな声が廊下に響き渡り、女子の黄色い声がリビングまで聞こえてきた。
「蕾ちゃん! ちょっとだけお久し振りだねー! こんにちは!」
「ゆーりちゃん! こんにちは! えへへ、こちらへどうぞー」
「うへー、改めて見るとほんと可愛いねこの子。新垣君と同じ遺伝子入ってんの?」
一部、非常に不敬な言葉が入っていた気がするが、今は何も言うまいと判断した日向もリビング側から廊下へ顔を出した。
「いらっしゃい、二人とも入って。こっちのリビング使えるから」
お邪魔しまーすの声と共に一気に人口密度が上がった新垣家のリビングには、女子特有の甘い香りが立ち込める。
キョロキョロと辺りを見回した唯が「へー」だの「ほーん」と言いながら、着席する。
予想外だったのは、悠里と唯が制服ではなく、既に着替えていた事だった。
悠里はノースリーブで少しヒラヒラした服と、薄手の生地を使ったロングスカート。
一方で唯は、Tシャツにハーフパンツという、かなりラフな出で立ちだったが、妙にイメージと合う。
日向の視線に気づいた唯が、ニヤっと笑うとハーフパンツから覗く脚をすっと前に出して見せた。
「なになに? あたしの健脚に見惚れてた? ほらほら、女子の脚だぞー、生足だぞー」
「やめなさい」
横から悠里の平手が唯の後頭部を叩き、前を向かせて座らせる。
そのまま日向へじっとりとした視線を向けてきた。
慌ててコホン、と咳払いした日向は。
「それじゃ、始めようか」
当初の目的を果たすべく、勉強会を開始したのだった。
コツコツ、とシャーペンが紙片を叩く硬質な音が聴こえる。
日向の隣には、同じく小さな椅子に座って白い紙に絵を描く蕾が居た。
和室あたりで、誰かが代わる代わる相手をしようと思ったのだが、日向達が着席した所へ自ら椅子を持って来て、自分のスペースを確保してしまったのだ。
「蕾ちゃーん、それ何描いてるの?」
唯が蕾の手元を覗きこむと、蕾は顔を上げずに「あいす!」と答えた。
アイスという単語を聞いた唯が、胸元へパタパタと風を送り込みながら「あーいいなアイス、アイス食べたいねー」と天井を仰ぐ。
「唯、やーめなさい、もう……。恥ずかしいわよ」
隣で唯の仕草を見ていた悠里が苦い顔をする。
そして麦茶のコップを手に取ると、コクリと喉を潤して一息吐く。
扇風機から送られた風が悠里の髪を軽く揺らすと、悠里は涼しげに顔を綻ばせた。
「なんか、割とまともな勉強会になってるよね……」
ぽそりと口にした言葉には、感心したような驚きが含まれている。
同じ事を、実は日向も思っていたので、心の底から共感出来た。
「うん、正直、恵那さん辺りが遊んで遊んで、それどころじゃなくなると思ってた」
「それだよな。俺も最終的には日向だけが真面目に勉強するんじゃないか、と」
男性陣の二人が、交互に頷く。
その言葉に不服なのは唯だけだ。
「なによ! あたしも真面目に勉強ぐらいするよ! でもね、一つだけ言っておく事がある!」
ドンッ、と机に拳を軽く叩き付けると、蕾がビクッと肩を震わせて、頬を膨らませた。
「あ、御免ね蕾ちゃん……。えーと! とりあえずね、あと三十分しっかり勉強したら、あたしはリミッターを外すよ!」
(リミット付いてたんだ)
咄嗟に頭に浮かんだ言葉を、日向は瞬時に呑みこんだ。ここで蛇をつつく真似はしない。
具体的には何をするのかと聞きたいような、聞きたくないような。周りを見ても、誰もが神妙な顔をしている。
「これ勉強会なんだけど……」
やむを得ず日向が言葉を差し込むと、唯は大きく首を左右に振った。
「違う、違うの! 確かにこれは勉強会だけど、高校生活における青春としての勉強会ではないの。こんな真っ当な勉強会、勉強会と呼ぶ事すら烏滸がましいわ」
勉強会と言う言葉を肯定しながら否定を重ねる高度すぎる唯の弁舌に、日向はいよいよ『勉強会』という単語に対してゲシュタルトが崩壊しそうになる。
「後に控える真の勉強会の為に、あたしはここからの三十分に脳細胞を活性化させるぜー!」
そう叫んで三十分、参考書の問題を素早く解いて行くその姿は、しっかりと真面目な姿勢だったので日向も悠里も、雅でさえも逆に驚いた。
ただ、その姿に日向は違和感を覚える。
今しがた、唯が見ている参考書の数Ⅱは試験の範囲のど真ん中、最も学習が必要な場所だ。
にも関わらず、参考書の問題を解く唯の速度は衰えない。
こっそりとノートを見て問題を確認するが、当てずっぽうでは無い。しっかりと正答を書き出している。
「恵那さん……?」
「なぁに新垣君、あたし超集中してるんだけど」
「恵那さん、数Ⅱ出来てるよ?」
「そりゃ、習ったもん、出来るでしょ」
「苦手なんじゃないの?」
「苦手だよ?」
噛み合わない会話に、日向はいよいよ混乱してくる。
そのやり取りを横で見た悠里が、片手を額に当てて溜息を吐いたのが見えた。
「ごめん日向君、私も普段の唯の言動に惑わされてすっかり忘れてたんだけど……」
気まずそうに一度言葉を区切った悠里は、視線を日向から唯へと移した。
「唯、あなたにとって、苦手って何点からを指すの?」
「90点未満」
「ゴッ……グッフォ、ゴッホゴッホ!」
日向の隣で雅が盛大に咽たところ、蕾から「みやびくん、きーたーなーいー!」と叱責を受けている。
日向もまた、言葉を返せずに硬直した。
「………つまり」
ごくり、と口に含んだ麦茶を一度嚥下し、日向は唯へゆっくりとした言葉づかいで確認を取る。
「恵那さんは、勉強が出来ないんじゃなくて、自分が満足する点数以下のものは、苦手だと」
「うん、そうだよー、全く出来なくはない」
日向は改めて、この恵那唯という特異点の認識を改める。これ以上触れてはいけないものだ。
そして聞いてもいいのか迷ったが、今聞かなければいけない事を、日向は悠里と雅へ聞いた。
「ちなみに二人とも……大体、試験だとどのぐらい点数取れてる?あ、嫌なら答えなくてもいいんだけど……」
その日向の質問に、悠里と雅は順番に答えた。
「私は……大体80点以上90点未満ぐらい、理数系がちょっと弱い時は80点届かない時もある、ぐらいかな…」
「俺は大体70点から80点、調子いいと90点取れる。英語が70点平均だなぁ……日向は、まぁ聞く必要も無いけど、一応どのぐらいか聞いていいか?」
「およそ90点以上かな……という事は、つまり」
三人は顔を見合わせて、今日最大の問題点を発見した。
「「「勉強会、必要無いんじゃない?」よな」わね」
前回に引き続き、少しコメディタッチで描いてみました。
後は、本来ののんびりスタンスである日常的な部分と……色んな風景を、メリハリ付けて書けるようになると楽しいかな、と思って。