上月日和は二度立ち上がる。
ぶつぶつと文句を溢す雅を宥めつつ、三人はその後も今までの生活の事を、少しずつ話し始めた。
日向は蕾との生活を、雅は学校での日向の事や、自分の部活の事。
そして日和もまた、日向が居ない中学三年から、今の部活の事を。
気が付けば正午はとっくに過ぎて、午後の二時に差し掛かろうという所で三人は喫茶店を後にする。
「ふう、なんか色んな事、話せて凄くすっきりしました」
外に出ると日和は大きく伸びをして、小柄な体一杯に空気を吸い込む。
その表情は晴れ晴れとして、照り付ける太陽を真っ直ぐに受けていた。
「お二人は、この後はどうするんですか?」
ショルダーバッグを掛け直した日和が、日向と雅へ問いかける。
「俺はもう用事は無いけど、どこか行くなら付き合うぞ」
雅が時計を見ながら返事をする。
日向も時計を確認するが、今日は特に用事を入れていない。
どうせなら三人でどこかに、と思ったところで思い直した。
明日は勉強会だが、夕飯の支度も考えると食材を用意しなければならない。
食材を用意するには、献立を考えなければいけない。
「悪い、俺は一度家に帰らないとならないかも…」
「あれ、日向先輩…何か用事ですか?」
雅の言葉に少し期待してた日和が、少しガッカリという顔で日向を見る。
「明日使う食材が足りないかもしれないんだけど、蕾のリクエストとかも聞かないといけないから、このまま買いには行けないんだ」
折角、皆で何か作るのだから、それぞれが食べたい物を出来る限り作った方がいい。
ある程度予想は付けられるが、全て網羅しようとすると膨大な食材になる。
日向の言葉に、雅は思い出したような顔をした。
「あー、そうか、それがあるか」
「明日? 何かあるんですか?」
きょとんとした顔の日和に、雅は答えて良いものか一瞬迷って日向を見た。
恐らく先程のプレッシャーを恐れているのだろう。
「うちで皆で勉強会をする事になってるんだ。その後夕飯も一緒に食べようってなってて」
「勉強会、ですか……。それって、その、芹沢先輩も一緒ですか?」
「うん、後はもう一人、その友達で俺のクラスメイトも」
日向は気後れする事なく、正直に答える。
今は日和に隠し事も誤魔化す事も、どちらもしたくなかった。
何より先程、日向と日和は先輩と後輩の関係に戻ったのだ。
日和が今も日向へ好意を向けてくれる事に変わりが無いのは、向けられる眼差しで分かる。
彼女からしてみたら、日向が異性と一緒に日向の家で勉強会するなんて、と思うだろうか。
「……先輩のそういう正直な所、変わってないですよね」
少しだけ何かを考えていた日和が、微笑んでみせた。
「もし良ければ、日和も一緒に、来るかい?」
日向は正直、こうして誘ってあげる事が正解かどうかは分からなかった。
それでも、昔の自分ならばきっとこう言うのだろう。そう思うと、自然と声に出ていた。
「………いいえ、行きません」
ほんの少しの間、目を瞑って何かを考えていた日和は、日向を真っ直ぐに見て答える。
「流石にまだ、日向先輩の家まで行く勇気がありませんもん」
「……そっか、分かった。そうだ、母さんがその内、ちゃんと連れて来なさいよって言ってた」
「ふふ、では、今ではありませんが、そう遠くない内にお邪魔しないとですね。明吏おばさんにも、久し振りに会いたくなっちゃいましたし」
本当に、何気ない会話をするように、二人で言葉を繋げる。
少しずつ少しずつ、空白を埋めるように、でもまだまだ手探りの状態で。
小さな言葉の積み重ねが、懐かしさと、くすぐったいような感情を届けてくれる。
「さぁ、それじゃ日向先輩は早く家に戻らないと! つっつの食べたいもの作ってあげるんですよね! ほら行って行って!」
日和が日向の背中をぐいぐいと押す。
その心遣いに日向は逆らわず、家の方向へと足を向けた。
「うん、それじゃ、二人とも。またね」
振りむいて二人に手を振る。
日和は右手を小さく振って、雅は手刀のように手を顔の横に当てて見送る。
「はい、今日はありがとう御座いました先輩。また……」
「また明日な、日向」
そうして日向を見送った後、雅は隣の日和の横顔を覗いた。
「いいの? 日和ちゃん。明日来なくて」
そして先程から気になっていた事を訊いてみた。
「いいんです。私が参加するのは、なんかフェアじゃありませんから」
「とことん体育会系だよね。見た目と違って」
変に律儀な日和に、雅は苦笑いを溢す。
「それに、もうちょっと時間が必要なのは本当ですし。……そこまで時間を掛けるつもりもありませんけどね?」
挑むような視線を日向が消えた方向へ向けて、日和が笑う。
「なんかさっき、関係をやり直すみたいな事言ってた気がするんだけど……聞き間違いだったかな?」
先輩と後輩に戻るというのは、そういう事じゃなかったのだろうかと、雅は頭の中で反芻した。
「いいえ、聞き間違いじゃありませんよ」
後ろに手を組みながら、日和は上半身だけをくるりと雅へ反転させる。
その顔には、先程の喫茶店で日向に見せた悪戯っぽい表情が戻っていた。
「戻るんですから、また一緒に歩きだしたら、私が日向先輩を好きになるのは当たり前じゃないですか」
あまりにも堂々と宣言された雅は、この先の日向の受難を思い描いて、お腹を抱えて笑うのだった。
帰宅した日向を待っていたのは、和室で並んで大の字に寝る父と妹の姿だった。
変な所で親子というか、細部まで寝る姿勢がそっくりだ。
面白かったので、とりあえずスマートフォンで一枚撮影しておく。
「しかしこれは……どうしようかな」
蕾のリクエストを取りに戻ったのだが、これでは聞けない。
とりあえずと台所に居る母に声を掛ける事にした。
「母さん、この二人は何時から寝てる?」
日向の声に、キッチンで何やら調理を行っていた母が頭を上げて時計を見た。
「んー、お昼過ぎぐらいだから、一時前かしら。多分そろそろ起きるけど、どうしたの?」
「明日の夕飯支度の献立。何を食べたいか訊いておこうと思って…」
明吏は「あぁ、そういう事ね」と頷いて、冷蔵庫を開ける。
「常備野菜はほとんどあるわよ、よっぽど変なものリクエストされなければ、何とかなるんじゃない?」
「……変なものって、例えば?」
「パエリアとか」
パエリアを頼む五歳児は居ない。
そもそもパエリアを蕾が知ってるとは思えないので、除外する。
と、思った所で、パエリアをリクエストしそうな人物に心当たりがあった。
「母さん、ナイスアドバイス」
「なによ、パエリアでナイスって言われるってどういう事よ」
日向の返事に明吏は笑い出した。
「いや、一人だけ危険人物がいるから……」
そう言って日向はスマートフォンを取り出し、連絡先の一つにメッセージを入れた。
送信者:新垣日向
『こんにちは、急だけど明日、食べたいもののリクスエトってある?恵那さんが自分で作る事になるものでもあるんだけど』
暫くすると、スマートフォンに通知音が鳴り響く。
送信者:恵那唯
『ガパオライス』
・・・・・・。
日向はスマートフォンから目を話して、天井を見上げた。
気を取り直して、もう一度メッセージを送信する。
送信者:新垣日向
『正気?』
送信者:恵那唯
『そこは本気って言って欲しかったな、って返すまでが一連の流れだよね?』
送信者:新垣日向
『正気?』
送信者:恵那唯
『二度も来るとさすがに心が折れるよ……?』
仕方なく、一度ブラウザを起動してガパオライスと検索してみる。
レシピを見た日向はもう一度天井を見上げた。
送信者:新垣日向
『恐ろしい事に、割と簡単だったよ。ナンプラーがあれば何とかなっちゃう……』
送信者:恵那唯
『え、ナンプラー?! なにそれ、強そう!」
送信者:新垣日向
『タイで使われてる魚醤らしいよ。タイで魚醤って言っても鯛じゃないよ、タイ。まぁ恵那さんにとってはどっちでもいいよね……』
送信者:恵那唯
『新垣君、なんか面倒臭くなってない? あたしに対する心の距離をビシバシ感じるよ?』
日向はそっと画面を閉じた。
そしてその後、昼寝から起き上がった蕾を連れて、ナンプラーを探しに商店街へ買い出しに出るのだった。
ちなみに我が家で出た一番の難題は、テレビに映ったトルティーヤを見て『これたべたい』でした。
ドラムにお肉をロールする所から始めなきゃいけない……。
もう少しで、自分で決めた第一チェックポイントの10万文字になります。
最初の頃に書いた文と比べたら、幾分かマシになっていると思いたい…です。
気付けば大勢の方の前で、公開練習のような形になっておりますが、何卒温かい目で見守り下さい……平に、ひらに……。