天使の笑顔、650円(税抜き)
雅の言葉を聞いてから、日向はどこか上の空で昼休みを迎えた。
(この学校に、日和が居る……)
日向達の学校は進学校で、一部の部活動以外は全国大会に出場する事すら稀な所だ。
一方で上月日和という子は、ジュニアテニススクールに小学校の低学年から所属している。
実力は既に全国クラス、スポーツが強い私立高校なら相当な範囲で推薦入学出来る人材だった。
その日和が、この学校に来る必要はメリットは無い筈だ。
日向がそんな調子で弁当を突いている後ろで、悠里と唯は顔を合わせて食事を進める。
「……新垣君、どったんだろうね」
「さぁ……。朝はあんなに……あ、あんなに元気良かったのにね」
朝方のやり取りを思い出して、悠里は顔を背ける。
唯は悠里の態度を見て、箸をキセルのように咥えたまま眉をハの字に下げてみせた。
「あーはいはい、この夫婦はもう朝っぱらから。とりあえず旦那に直接訊いてみたら?」
「ちょっと! またそういう事を!」
「状況証拠が揃い過ぎてて、裁判で敗訴する要素が無いんだよなぁこれが……。まぁ、これ以上は野暮ったいから何も言わないけど」
そうして箸を手に持ち、再び弁当を突き始める。
日向は考え事をしていたものの、流石に抑えていない声量なので前方に居れば普通に耳に入ってくる。
ふう、と一つ息を吐いてから、後ろを振り向いた。
「御免だけど、聞こえてる……」
気まずい顔を向けるが、唯は素知らぬ顔だ。
「知ってる。いつまでも奥さんが話し掛けないから、あたしがこうして取り持ってやってんの」
しれっと答えられると、ぐうの音も出ない。
ここで面白い反応をしてしまえば唯の思うツボだと、日向はコホンと軽く咳払いした。
「もう……ほんっとに。それで、何かあったの?ひな……新垣君が悩むなんて、蕾ちゃんの事だと思ったんだけど。」
悠里は唯に文句を言おうとしたが、それよりも日向の言動が気になってしまう。
気を取られていたせいで自然と名前を呼びそうになり、慌てて髪をかき上げる仕草で誤魔化した。
「あぁいや。昔の知り合いが、この学校に居るって聞いて。それで、ちょっと懐かしくなってね」
日向の口から出た言葉は、決して嘘は混じっていなかったが、同時に全てでも無かった。
話したくなかった訳では無いが、わざわざここで全て曝け出すのも何か違う気がした。
「ふーん……?今まで会わなかった、って事は、年下とか?」
「うん。中学の後輩。時間が出来たら、其の内会ってこようかな、って」
「………散切り頭を叩いってみればっ、後輩女子のぉー影があるぅ?」
ぴょこ、っと耳を立てるように顔を上げた唯が、歌うように喋る。
咄嗟にそんな歴史用語が出てくるなら、このまま勉強会の件をお流れにしてやろうかと思ったが、蕾が凹んでしまうので我慢した。
「二年間全く会ってないから、挨拶ぐらいしておこうかな、って思ったんだよ。あぁ、それとそうだ。勉強会、ウチは使っても平気だってさ」
少し強引だが、このまま話題を引っ張っても仕方ないので、日向は唯の興味を他へ逸らす事にした。
視界の端で、悠里からチラチラと見られているのが分かったが、あれだけ夫婦だなんだの言われてしまうと目が合わせ辛い。
唯には責任として板挟みを買って貰う事にした。
「おー、ほんと!やったね!悠里があれだけ骨抜きにされる蕾ちゃんを、遂にあたしも愛でる時が来るのかぁ、たーのしみだなぁー!」
「あんたは勉強が中心でしょ!蕾ちゃんの相手はメインで私がやるんだから、ちゃんと勉強してよ?」
そしてじゃれ合うような二人の会話が再開され、暫く唯への説教が続き昼休みは終わりを迎えた。
六限目が終わると、日向はすぐに鞄へ学習道具を仕舞い席を立つ。
素早過ぎる動作に唯が目を白黒させた。
「新垣君もう帰るの?今日はとりわけ早いね」
「うん、今日はこの後、蕾と外食する予定なんだ。久し振りで舞い上がってるから、早く帰らないと機嫌が悪くなる。」
言いながら椅子を仕舞い、後部ドアに向かって歩き出す。
「それじゃ皆、また明日!」
帰る動作の中で、悠里へ一瞬目を向けると、しっかりと目が合ってしまった。
悠里は目線で『しょうがないなぁ。』と語るように目尻を下げて微笑む。
「日向君、また明日ね」
その言葉を背に、日向は教室から出て行った。
その背中を見送りながら、唯は呆れたような溜息を吐く。
「なんか最近、付き合い良かったから忘れてたわ。あの消え去るような下校風景。」
「うん。でも、日向君らしいよね。ちょっと安心するかも」
ガヤガヤと喧騒が立ち込め始める教室の中で、二人は肩を竦めて笑った。
下駄箱で靴を履き替える時に周りを見ると、まだ生徒の数は疎らでほとんど帰宅している者はいない。
確かに、この生活をしていれば後輩が入学していたとしても、なかなか顔を合わせないものだな、と自嘲してみせた。
(それはそれ、だ。今は先にやるべき事を優先させよう)
気持ちを切り替え、日向は帰路を急ぐ。
いつもより少し速足になるのは、蕾の笑顔が早く見たいからだ。
そうして祖父母の家に着いた途端、蕾が飛び出してきた。
「おーかーえーりー!」
ロケットのようなダイブを受け止め、体温を身体で感じる。
温かいものが心のささくれを溶かしてくれるようで、日向の身体から力が抜ける。
奥から祖父が、日向の荷物を持ってやって来た。
「今日、外で食べて来るんだって?さっきからこの調子で、全然落ち着かないんだよ。気を付けて行ってきなさい。」
笑いながら話す祖父から蕾の荷物を受け取る。
「それから、これ。どうせならデザートに美味しいものでも食べなさい」
差し出されたのは五千円札だった。
「いいよ、夕飯代なら母さんから貰ってるから。こんなに貰ったら余っちゃうし」
「それなら、日向が持ってなさい。高校生なんだから、何かと必用になる時があるだろう?」
固辞しようとした日向だが、祖父が一度出したお小遣いを引っ込めた試しが無い。
それに、あまり甘えないのも却って気を遣わせてしまうと、つい先日に父との会話で思い知った。
「なら、ありがたく」
日向が金札を受け取ると、祖父は満足したように頷いた。
「それじゃ、行ってきます」
「いってきまーす!」
蕾に手を引っ張られ、祖父母に挨拶をして玄関を出た。
飛び跳ねる蕾を宥めながら、二人は商店街にあるファミレスへと到着する。
入店時間が早かった為か、店内に人は疎らですぐに席へと案内された。
「まっぴーせっと!」
「分かってるよ。他に食べたいのとかあるか?」
席に着くなり注文をする蕾に笑いながら、日向はメニューを見せる。
蕾はメニューに噛り付くようにした後、ストロベリーパフェを指さした。
「まあ、そうなるとは思っていたけどね。ちゃんとご飯食べてから、最後に食べるんだよ。いいね。」
「はーい!」
元気のいい返事をする蕾の目の前に、店員を呼ぶ為のベルスイッチを置く。
ポチッと小さい指先が押すと、ブザーが鳴って店員がやってくる。
日向が店員へメニューを注文すると、蕾は身体を左右に揺らしながら笑顔で待っていた。
こんなにいい顔をしてくれるなら、もっと機会を増やしてもいいのかもしれない。
日向がそんな事を考えていたら、蕾は白い歯を見せながら日向へと顔を向けた。
「きょうはゆーりちゃん、いないねぇ」
何の事だろう、と思ったが、この前行った駅前の事だと気付く。
(そう考えれば、短期間に二度外食している事になるのか……)
ひと月前までは、ここまで日常が変化するとは思わなかった。
本当に、あのスーパーで悠里と出会った時から、加速度的に日向の日々は過ぎている気がする。
それとも、これが本来の日常なのだろうか。
誰かと過ごす時間が増えたとしても、蕾と過ごす時間が減った訳じゃない。
むしろ、蕾の笑顔は以前よりも柔らかくなった気がする。
以前は出来なかった、誰かと交流しながら蕾との時間を大事にする事も、今ならば出来る。
前出来なかったことは、出来るようになった今、やればいいのだ。
程なくして、二人分の料理が運ばれてくる。
希望通りのマッピーセットが目の前に置かれた蕾の口角がくいっと上がり、幸せそうな顔になる。
「いただきます」
「いただきまーす!」
礼儀正しく手を合わせ、二人は食事を始めた。
食後に蕾のストロベリーパフェが運ばれ、日向は腹ごなしのコーヒーを啜る。
時折、クリームだらけになる蕾の口元を拭いてやり、寒くならないように軽く背中を擦るのも忘れない。
「はい、あーん」
イチゴとクリームを載せたスプーンを、蕾が日向へ差し出す。
「あー…」
口を開くと、ひょいっと放り込まれる。
「おいしい?」
「甘い」
むふん、と得意気な顔になった蕾の頬をつんと突く。
兄バカだろうが、今更だった。
そんな風に、ゆったりとした時間を過ごしていると。
「日向……先輩……?」
不意に、自分を呼ぶ声が聞こえた。
後輩キャラと言えば、ひかりちゃん忘れてませんか、って言われそうですけど。
大丈夫です、ちゃんと今後絡みますから……。
店員呼ぶブザーをわざわざ目の前に置くのは、あれを勝手に押すと子供は怒ります。
子供と一緒にファミレスに入る時は、必ず押させてあげましょう……。