一歩ずつ先へ。
今朝の目覚めは、いつもより少し調子が良かった。
時計を見ると時刻は7:45を指している。
日向にしては珍しく、少し寝坊したぐらいの時間だ。
冷たい水を顔に掛けて眠気を飛ばした。
リビングでコーヒーを啜る仁と目が合うが、お互いに何も言わない。
隣で食パンを齧る蕾の頬に付いたブルーベリージャムを拭き取る。
「蕾、今日の晩御飯は何がいい?」
「んー、んー……まっぴーせっと…」
少し寝惚けているんだろうか、と思ったら蕾が見ているテレビのCMで、近所のファミレスチェーン店が期間限定のコラボレーションメニューを宣伝している所だった。
子供向け映画とのタイアップなのだろう。
「まっぴーセットは兄ちゃん作れないな……」
「うー……あれがいい…」
変なタイミングで聞いちゃったか、と日向が頭を抱えていると、キッチンから明吏が出てきてエプロンを畳みながら二人に声を掛ける。
「あら、なら…たまには外食してみたら?」
「え、いいの?」
新垣家はあまり外食する事が無い。
家族全員が揃う時間は遅めだし、休日は明吏が作りたがる。
日向自身、夜に蕾を外出させる事に抵抗がある為、なんとなく行くのが憚られるのだ。
「いいわよ。あのね、ウチはそんなに食費ガンガン削らないといけないぐらい切迫してる訳じゃないの。余計な心配する必要は無いわよ」
苦笑いしながら日向へと頷く明吏に、日向はバツが悪そうに顔を背ける。
「いきたーい!まっぴーせっと!まっぴーせっと!」
「ほら。この状態で行かない、なんて事を言い出したら、蕾、今日は一日ヘソ曲げちゃうわよ」
久し振りの外食に浮かれる蕾を見て、日向は頷くほか無かった。
「でも遅くならない内に帰ってくるのよ。蕾は、ちゃんとお兄ちゃんの言う事聞いてね」
「はーい!おにーちゃんはやくかえってきてねー!」
「俺がこれ以上早く帰ると、六時限目に早退する事になるけどね」
そうして一日の予定が決まり、蕾に見送られて日向は家を出た。
疎らな通学路も、校舎が近付くにつれて人が多くなっていく。
そんな中で、前方に見知った後姿を見つけた。
日向は少しだけ歩調を早め、その後ろ姿に近寄って行く。
二人連れ立った女子生徒は、仲良く談笑しながら登校している。
悠里と唯だ。
いつからか、日向は悠里の後姿を遠目からでも分かるようになっていたのだ。
こうやって今日を積み重ねて、人間関係は変化していくのだろう。
その変化を恐れてしまうぐらいに、自分はこの数年で弱り切っていたのだろうか。
情けない自分に溜息しか出てこなかった。
名前を呼び合う、たったそれだけの事に対して、昔の事を思い出して。
失敗した事を今に重ねて、勝手にダメージを受けて。
(情けないを通り越して、どんなナルシストだよ…)
ふっ、と肩の力を抜く。
余計な事は考えない、やれる事をやっていこう。
そう決めて、日向は歩みを速めた。
二人の背中に追いつく。
一瞬だけ横に並ぶと、二人の視線がこちらを向いた。
「お、おはようひ……新垣君…」
「おっすー、新垣君。おっはよー!」
「おはよう、恵那さん。悠里も、おはよう」
日向は挨拶の返事を一言ずつ落し、歩調を早めて彼女達を追い抜いた。
顔を前に戻す前に、一瞬だけその表情が呆気に取られたのを見る。
少し離れた所で、後ろから二人の話し声が聞こえてきた。
「うおぉ……新垣君かっけー。堂々と名前呼び捨てしていった……。なにあの振り切れっぷり」
「………………………」
「おーい悠里、おーい。お願い歩いて。お願い、遅刻するから!早く!」
「……もー、なんで急に名前を呼ぶかなぁ!」
あんまりな不意打ちに、悠里は顔の火照りを向かい風で鎮めるように唯を追って走り出した。
三時限目は体育の授業で、日向は雅と連れ立って校庭に移動する。
今日の種目は長距離測定で、グラウンドを延々と走り続けるだけの非常に地味な授業だった。
準備体操を追えて、順次スタートする。
元々は運動していた日向だったが、高校に入ってから帰宅部での生活が続き、体力は当時より格段に落ちている。
それでも標準以上の心肺能力はあるので、上位グループギリギリに喰らい付いて走り続けた。
「……日向」
フッ、フッと呼吸を繰り返しながら、隣に並んだ雅が声を掛けてくる。
額の汗を払いながら、日向が視線を向ける。
「雅、珍しいね、調子悪い?」
雅の身体能力は学年でもトップクラスで、この男が先頭をぶっちぎりで走っていないのは珍しい光景だった。
「いや。今日は練習だしな、測定の時にタイム取れりゃいいよ。……それより、お前…なんかあったのか?」
「何かって、なんか変だったかな」
息を整えながら、二人揃ってコーナーを曲がる。
「いや、なんか、吹っ切れたっていうか……、今日は雰囲気が違うなと思ってさ」
雅の指摘に、日向は「あぁ」と納得する。
流石に旧友は伊達じゃないらしい、本当によく気が付く男だと思った。
「ちょっとね、若気の至りについて、反省して悟りを開いた」
「なんだそれ」
少しふざけた返事を寄越す日向に、雅はプッと吹き出す。
「日和ちゃんの事か?」
流石に、そこまで見抜かれるとは思っていなかった。
少しの間、無言で走り続ける。雅は、重ねて訊いてくる事は無かった。
「うん」
「そっか。……ちょっとは、解決したか」
そのまま二人揃ってゴールラインを割る。
ゆっくりと息を吸って、最後の生徒がゴールするまでは少しの休憩となる。
「うん。いつかまた会えたら、ちゃんと話をしたいな、って思うぐらいには。俺がした事を許してはくれないかもしれないけど、やっぱりさ。大事な後輩だったから。」
今の自分なら、きっと話せる事もある。
そう思いながら、軽く伸びをして身体を伸ばす日向を、雅はただ黙って見つめていた。
「日向、お前。知らないのか」
「ん、何が?」
「…………そうかお前、特急帰宅組だもんな。そりゃ、入学式から今まで会わない事もあるのか。」
「だから何が……って、………え」
雅が何を言おうとしているのか、日向は気付く。
心臓がドクンと一度大きくうねりを上げる。
「日和ちゃん、居るぞ。この学校に」
本日、日刊ランキング2位になりました……。
数日前まで細々と活動していたのに、突然の状況で光栄過ぎて手が震えますが、初志貫徹で書きたい物語を書き続けようと思います。
応援して下さる方々には本当に感謝を。読んでくれる方が居るから、もっと書こうと思えます。