父と子と。
寝苦しい夜だった。
夏場の暑さに、外は雨が降っている。
時計を見るとまだ午前一時を回った所だ。
何か冷たい物を飲もうと、日向は部屋を出てリビングへ向かう。
途中、蕾の部屋を覗くと、蕾はタオルケットを蹴飛ばしてぐうぐうと寝息を立てている。
起こさないようにゆっくりと部屋に入り、髪の毛をそっと払う。
頬を触ると柔らかくすべすべの肌が押し返してくる。
くすぐったそうに、身を捩る姿が愛くるしくて、額に軽くキスをして部屋を出た。
リビングに入ると、仁がテレビを見ながら晩酌をしている。
明吏の姿は見えないので、既に就寝したのだろうか。
「眠れないのか?」
ソファーの裏を通って台所に行こうとすると、仁に呼び止められた。
「うん。喉乾いて。」と相槌を打つと日向は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いだ。
なんとなく、日向もリビングのソファに座る。
横から見える父の顔は、三年前には見られなかった白髪があった。
「学校は、どうだ」
簡潔な一言だったが、響く声色は優しい。
「うん、楽しいよ。最近、特にね」
日向の答えに、そうか、とだけ父は答えて日本酒を煽る。
それだけを聞くと、父は何を話すでもなく、ただ黙ってテレビに視線を向け続けた。
「父さん」
「ん?」
何故だろうか、今日は少し、父と話をしてみたくなった。
「俺が、蕾の保護者みたいな役割してるのって、おかしいのかな?」
「おかしくは無いさ」
間髪入れず、仁は返答する。迷いのない言葉だった。
「高校生で、まだ自分の進路もこれからで、社会的にも子供で。そんな俺が、背伸びして蕾の親代わりみたいな真似をするって。ひょっとしたら、凄い滑稽なんじゃないか、って思って」
そこまで日向が言うと、仁は身体を正面に向け、日向の方を向く。
「どうして、そう思った?」
「他の事も上手くやれない、中途半端にしか出来ない、そんな俺が蕾の世話焼きをするなんて。もしかしたら、蕾の事を俺は他の事が出来て無い言い訳にしているんじゃないかって。そう思った」
ふむ、と仁は一度目を瞑って黙る。
そして、ふうっ、と一度息を吐いて。もう一度喉を日本酒で湿らせた。
「なぁ、日向。俺と母さんは、お前には本当に感謝してるんだ。お前が蕾をしっかり見てくれているお蔭で、俺と母さんは心配なく働きに出られる。そりゃ、他所の家から見たらな、もしかしたらウチの事を子供を放り出す酷い家庭だと思われているかもしれない。でもな、こうして助け合っていくのが、俺の家族の在り方なんだと胸を張って言える」
仁が、真っ直ぐに日向を見て、ニッと笑って見せた。
その笑顔は、蕾が笑う顔とよく似ている。
「だけど同じぐらい、俺も母さんもお前が心配になる時がある。子供の世話をするのは、そりゃ大変だ。学業と両立なんて、そうそう出来るもんじゃない。一人暮らしの社会人が家事をするのと似てるがな。やれない奴は本当にやれない。その点お前は、よくやってくれてる。本当に、よくやってくれてる」
言葉の一つ一つに力が籠っているのを感じた。
初めて聞く、父の言葉に日向は心が揺れていくのを自覚する。
「そんなお前が、本当に倒れそうになった時、やりたい事を見つけた時、何か愚痴をこぼしたくなった時、少し疲れて休みたい時。なんでもいい、其の時は俺達が無条件で日向を最優先で動こう。俺と母さんはな、そう決めてるんだ」
心のどこかで、自分の独りよがりなんじゃないかと思っていた。
蕾の世話をするのは、結局は自己満足で、本当は両親に迷惑ばかり掛けてるんじゃないかと。
だけど、父はその答えを正面から否定した。
言葉からは、自分への絶対の信頼を感じ取れる。
「なぁ日向、お前達の年齢の時は、少し何かを間違えたり……やり残した事があったり、そういう時に『もうそこでお終い』にしちゃうもんなんだよ。でもな、それはお前達がほんの十数年しか生きてないからだ。だから、たった一度の間違いなんかを、もう二度と修正出来ないものみたいに捉えちゃうもんだ」
手の平の麦茶の冷たさを感じながら、一言も発せられなくなった日向はただ、父の言葉に耳を傾ける。
父親として、男として、大人として、日向に向き合ってくれている。
「長い目で見てみろ。今出来ない事があったとして、それがなんだ?前に出来ない事があったとして、それがどうした?出来るようになったらやりゃあいい」
そうしてまた日本酒を煽る。
普段より饒舌なのは、お酒が入っているからだろうか。それとも、本当はずっと言いたかったのだろうか。
「俺が三十前の時、本当は別にやりたい仕事があった。でも俺は、そこで『この年齢になったらもう無理だ』と諦めた。俺が三十を超えた時、同級生が転職して自分のやりたい仕事に就いたのを知った。……いや、今は仕事に不満は無いからな?リストラも無いからな?安心しろよ?まあでも、そういう事だ。本当に終わるのは、自分で無理だと思った時だ。本当の限界なんてもんは、思ったよりも随分と遠くて、いくらでも挽回出来るチャンスはあったんだ。俺達は、そういう事すら知らない若造の間に、そういうものを知ったつもりになっちまった」
恐らくこの言葉の本当の重さを、今の日向が知る事は無いだろう。
仁も、そして日向も、その事を頭のどこかで理解していた。
それでも、今この時に必要な言葉なのだという事も分かった。
「日向。お前はまだ、何にも悩んでいないんだ。何に悩めばいいのかを、悩んでいるんだ」
そうして、一層強い視線で日向を射抜く。
「今やってる事に疑問を覚えるぐらいなら、とことんやってから振り返って見ろ。どこかで間違えてるんだったら、俺と母さんが死んでも引っ張ってやる。子供は子供らしく、やりたい事を好きにやってりゃいいんだ」
そういうと、仁はごろんとソファーに横になってしまった。
話は終わり、とばかりにテレビへ視線を戻してしまう。
日向は立ち上がり、部屋へ引き返す。
「ありがとう、父さん。おやすみ。」
そう一言だけ残し、階段を上る。
(一度の失敗は、それでお終いじゃない。何に悩んでいいのか、悩んでいる、か)
胸元のノイズは、今は聞こえない。
寝苦しい夜でも、今ならぐっすりと眠れそうな、そんな気がした。
こういう回、このタイミングでは早過ぎるんじゃないか?と思いましたが。
でも、それは多分作者としての都合なんだろう、と改めました。
日向君の問題は、今に始まった事ではなく、仁が感じている父としての想いも、今に始まった事ではありません。
恐らく初めからずっと引っかかり続けて、タイミングを失っていたものが、偶々この時に出てきた。
そういうものだと思ってます。