問:『因果応報』という四字熟語の意味を答えなさい。
結局、悠里とはあまり話せない……というか朝方に機嫌を損ねたまま、話す機会が訪れず。
その日はそのまま下校して、蕾と一緒に家に帰ってきた。
後でメッセージでも送ってお詫びして、その後に条件の緩和を言い出そうと思っていたのだが。
「はんばーぐ、はんばーぐ」
日向が作ったハンバーグの種を、蕾が隣で丸く成形する。
蕾には少し高いキッチンも、折りたたみ式の足場を組み立てて、その上に立てば日向の胸元ぐらいまでには頭が届く。
ついこの前までは、自分の膝元ぐらいまでしか無かった身長も今はこんなに近くに感じる。
子供の成長は本当に早いなと、少しだけ寂しく思ってしまう。
「おにーちゃん、どうかした?」
手を止めた蕾が日向を見上げる。
何か表情に出ていたかと、日向は首を軽く横に振り、なんでもないよと答える。
蕾の手伝いを見守りながら夕飯を終え、蕾とお風呂に入る。
パジャマに着替えて、歯を磨いて……時刻は八時過ぎ。
日によっては九時を過ぎてから寝る事もあるが、今日は既に少し蕾の目がとろんとしている。
「もう寝ちゃうか?」
「ううん、まつ」
両親が帰宅するのは八時半から九時頃になるので、起きている時に帰って来る日は大体半々ぐらいだろうか。
帰ってきた両親に「おかえりなさい」を言うのは、蕾の楽しみの一つでもある。
ソファに座ってテレビを見る日向に、身体を半分預けるように蕾が寄り掛かる。
テレビを見たまま、日向は何となく口を開いた。
「なー、蕾?」
「うん?」
「兄ちゃんと二人でご飯食べるの、寂しくないか?」
「ううん、たのしいよ」
間髪入れずに返って来る返事。
目を合わせると、にっこりと笑ってくれるのが、可愛いらしい。
ずりずりと蕾が日向の身体を這い、膝の上にぽすんと収まる。
「蕾、今度な。ウチに皆が来て、お勉強して、晩御飯を一緒に食べるかもしれないよ」
トリートメントでサラサラになった蕾の髪を撫でながら、秘密を打ち明けるように囁くと、蕾の顔がパッと輝いた。
「ほんと!? みんなって??」
「悠里ちゃんに、雅に、この前モールで会ったお姉ちゃん覚えてるか?あの人だよ。」
「やったー! いつ?いつ?」
テンションが一気に上がったのか、先程までの眠そうな表情が吹き飛んでいる。
小躍りしそうな雰囲気になり、思わず大きくなる声量に日向は笑いながら人差し指で「しー……。」と潜めてみせた。
「来週の月曜日かな。母さんと父さんにも、家を使う事伝えておかないとね」
膝の上でご機嫌に身体を揺らす蕾を見て、自分一人ではここまで喜ばせる事は出来ないという事を、まざまざと実感する。
(とんでもない絡め手だったけど、恵那さんに感謝かな)
掛けられた迷惑と折半で、ほぼ相殺される感謝を心の中で送る。
やがて、ピンポーンとベルが響く音が鳴ると、玄関から鍵を開ける音と共に母親の声が聞こえてきた。
蕾がその音を聞いて玄関へ走り「おかえりなさーい!」の声を掛ける。
次第に父親も帰宅してくるだろう。
先程までの、二人だけしか居ない家の雰囲気から、ガラッと空気が変わる。
新垣家の短いけれど温かな一家団欒の時間は、蕾が寝る時まで続いた。
蕾を両親に任せ、自室に戻った日向はゴロリとベッドに寝転がる。
手元にはスマートフォンを握り、電源を押して画面をスリープから呼び起こす。
メッセージ履歴に映る『芹沢 悠里』の文字。
「謝らないとなぁ……」
言葉が口から出てしまったのは、そうしないと踏ん切りが付かないからだろう。
一体どう謝ればいいのかは分からないが、とりあえず必要なのは謝罪だ。
女性の機嫌を損ねた時、男子に出来る事は謝罪一辺倒のみ。
例え理屈として自分が悪くなくても、そんな事は些細な事。
謝って謝って謝り倒す。
父、仁の背中はそう日向に生き様を教えてくれた。
………思い返すと虚しさしかない父の背中を頭の中から振り払い、もう一度画面を見る。
ピコン
画面を触れると同時に通知が鳴ったので、少し心臓が跳ねた。
未読メッセージがあります、と表示されたシステムメッセージをタップすると、悠里とのチャット画面が展開された。
送信者:芹沢悠里
『起きてる?』
送信者:新垣日向
『起きてるよ、流石に品行方正でもまだ眠くはならないかな(笑)』
送信者:芹沢悠里
『あー!またそういう事言うんだ! 日向君って結構根に持つタイプ?』
スマートフォンの画面越しでも、悠里の表情が浮かぶようで思わず笑ってしまう。
きっと今頃、ムッとした表情でメッセージを凝視している頃だろう。
送信者:新垣日向
『ごめんごめん。丁度今さ、謝ろうと思ってて。メッセージ来て驚いた』
送信者:芹沢悠里
『謝る、って何を?むしろ私が謝ろうと思ってたんだけど』
文字を入力し、送信ボタンを押すのが少しだけ恥ずかしい気持ちを抑えつつ、日向は画面を触る。
送信者:新垣日向
『その、悠里の事を名前で呼べなくて』
送信者:新垣日向
『人前は厳しい!』
既読マークが付いて、少し時間が経つ。
どうしたのか、少し不安になった時に返事が届いた。
送信者:芹沢悠里
『う、うん。私もなんかあの時は、あれだけ言ったのに!ってイラッとしたけど。よくよく考えたら、教室のど真ん中で男子から名前を呼び捨てにされるとか、事案以外の何物でもなかったと思いました。』
メッセージの後に『反省』とついた猿のスタンプが送られてくる。
送信者:芹沢悠里
『だ、だからそのね』
と、メッセージがそこで途切れて、三分ほどが経過する。
不意にスマートフォンが着信を告げる。
先程より、大きく心臓が跳ねてしまうのが分かった。
何故このタイミングで?!と慌てるが、とりあえず着信ボタンを押して電話に出る。
「も、もしもし?どうしたの?」
『あ、こ、こんばんは……御免なさい、突然、えーっとね……』
チャットの途中で電話が入ると、どう挨拶していいのか分からない。
お互いしどろもどろになる中で、悠里が少し震えた声を出す。
『ま、周りに人が居ない時だけでいいから、名前……』
その声は酷く儚げで、こんな事を言う為にも悠里が勇気を出してる事が分かった。
自分からお願いしようと思っていた提案が、向こうから出てきた事に安堵する。
「うん、分かった。気を遣わせちゃって御免ね、ありがとう」
悠里の慌て振りに、逆に日向は冷静さを取り戻し、落ち着いた声を出す事が出来た。
『ん……別に、気を遣った訳じゃないんだけど、……んー?』
「俺も明日からどうやって声を掛けていいか分からなかったから、そう言ってくれると凄い助かるよ。」
『あ、うん、あー?うーん?ま、まぁとりあえず、何か解決したなら良かったわ……?』
「それじゃ、また明日ね、悠里」
『あ!?うん、また明日、日向君。お、おやすみなさい』
通話が終了し、日向はほっと一息吐く。
これでとりあえず、今日拗らせてしまった悠里との件が落ち着いた。
女子の名前を呼ぶのはまだいいが、学校の人目がある所で、というのは敷居が高過ぎる。
あらぬ誤解を周囲に撒き散らす事になる。
うん、と日向は胸に走るノイズを無視するように、デスクに向かった。
試験も近い、復習を済ませなければいけない。
デスクのラックから、教科書と参考書を取り出す。
行動と裏腹に、頭の中では別の事を考えてしまう。
考えないように、無理矢理に数学の公式を頭に描いたが、ノイズが消えない。
名前を呼ぶ行為。
親しい事を示す、その意味。
『日向先輩』
チクリと、胸が刺す痛みを訴えた。
『私、好きです。先輩の事』
今と同じ、初夏の日差しが夕焼けに染まる中で、その言葉は日向の胸に刻み込まれている。
『どんな答えでも、後悔しません。だから、お返事を考えて下さい』
(そうだ、俺は、答えを出さないといけない場面で)
自分自身が、どういう気持ちを抱いていたのか、自分と向き合わないといけなかった場面で。
精一杯勇気を出して、自分に向かい合ってくれた女の子に応えないといけない場面で。
『先輩は……日向先輩は、私の事は、何も考えてくれてないんですね』
参考書にカツカツとシャーペンの先が当たる硬質な音が聞こえる。
指先は驚く程早く、正確に文字を白い紙へと書いていく。
思考はクリアになっており、自動的に文字の羅列は増えて行く。
けれど、ノイズが消えない。
ふと、部屋の片隅に視線が吸い込まれた。
使わなくなって久しい、大きなラケットバッグが目に留まる。
傍にあるメタルラックには、一本のトロフィーが置かれていた。
【第16回 チャレンジジュニア杯 ミックスダブルス部門準優勝 新垣日向・上月日和】
『もう一本、いくよ、ひより』
『はいっ!一本先取!』
もう今は聞こえてこない筈の、ボールが跳ねる音が、どこかで響いた気がした。
昨日に引き続きポイントとブクマ数の増加に驚いております。
ほんと皆さん、ありがとうございます、楽しんで頂けましたら幸いです。