暴君、その名は……。
「期末考査が再来週にある。来週から考査が終わるまでは部活が休止になるが、問題を起こさないように。」
朝のショートホームルームで、担任の小野寺教諭が簡潔に連絡事項を伝える。
教室からは各所から非難の声があがったが、小野寺教諭は一瞥しただけで声をあげた生徒を黙らせた。
『拳王』の二つ名を持つ小野寺修二教諭(37)は、細身の体系ながら元ボクシングインターハイ出場経験を持つという、ガチガチの武闘派だ。
寡黙な性格と細身の体で、一見すると文系の教諭に見られがちだが、あれは完全にカモフラージュである。
細身の体はヒッティング・マッスル(ボクサーが身につける、パンチを打つ際に必要な筋肉)で絞られたものであり、華奢に見えてその筋肉量は育ち盛りの高校生男子ですら全く歯が立たない。
過去、柔道部と空手部の生徒が喧嘩騒ぎを起こした際、大柄な柔道部員を後ろから羽交い絞めにして抑えつけ、そのまま体を浮かせて生徒指導室まで運んだ、という逸話がある。
時には恐れられるが、そのストイックな性格と圧倒的な強さのカリスマを誇る為、生徒からの人気は低くない。ちなみに既婚者であり、奥さんは小動物系の可愛さがある幼妻だった、という目撃情報がある。
日向もある機会に一度じっくりと話をした事があるが、親身にこちらの話を聞き、その上で教師・大人双方としての意見を忌憚なくくれる良い先生だった。
ともあれ、小野寺教諭は必要事項を述べた後、教室を退出し、入れ違いで数学の担任が教室に入り授業が始まる。
数学の担任が数式を板書している時、日向は背中を突かれた気がして背後をちらりと振り返る。
すると、顎を机に付けた状態で見上げている唯と目が合った。
左手には折り畳まれたルーズリーフが握られており、その先端で突かれたのだろう。
なんだろう、と思い、もう一度唯を見るとウィンクしたまま差し出してくる。
読め、という事なのだろうか。
紙を受け取り、教師の動向を気にしながらも開いてみる。
【おししょー、あたし勉強出来ないっす、試験やばいっす!おせーて♡】
脱力した。
確か自分は、料理に関して必要な時に助言する、という程度の認識だったのだが、一体いつから唯の学業全般にまで効力が及ぶ事になったのだろうか。
そうは思うが、無碍にする事も出来ず……仕方ないとばかりに日向はルーズリーフを一枚取り出し、シャーペンでささっと文章を書く。
【何が苦手?】
ルーズリーフの切れ端にそれだけを書き、椅子にもたれ掛かる振りをして後ろ手に紙を差し出す。
さっと紙が取られる感触がするのを確認すると、再び居住まいを正す。
再び教師が板書に戻った瞬間、また背中を突かれた。
肩を揉む仕草を真似しながら、後方へ指先を二本立てると、指の間に紙が差し込まれた。
手元で隠しながら開いてみる。
【ぜ・ん・ぶ ♡】
「……………。」
日向は授業に集中する事にした。
一時限目が終わり、軽く身体を伸ばしている日向に口を尖らせた唯が声を掛けてくる。
「ちょっとお師さんよぉ!なーんで返事してくれないんだよーぉ!」
「なんでって言われてもね……。」
眉間を軽く揉みながら、日向は低い声を出した。
問題点が分かれば解法が導き出せるが、問題点そのものが大き過ぎる場合は無理な話である。
「とりあえず、全部といっても得手不得手はあると思うんだ。特に点数が良くないものを三つぐらい選んで、そこを重点的に学習すればいいんじゃないかな。」
根本的な解決にはならないが、局所的に対策していく事で確実に底上げを図る事にシフトする。
その解答は唯には満足だったのか、今度は頷いてくれる。
「なるほど、特によくないもの三つか……。数ⅱと、生物と、数Bかなぁ。」
見事に理系に偏っていた。
それでも、数学は公式をしっかり覚えて行けばある程度は点数が取れる。
応用問題についてはパターンを覚えていくしかないが、センスが問われる文系よりは楽そうではあった。
「そうそう、その三つを集中的に、数学は公式を覚えていく感じで。」
「あ、その辺りは任せるから、まった後で話そうねー!」
日向の話を聞き流し、唯は他の女生徒達の元へと去って行ってしまう。
何がしたかったのかと、日向は呆然とその背中を見送った。
「………任せるから?」
最後の不穏な発言が頭の中でリフレインしたが、分からない問題は後回しにするという、試験の鉄則をここで適用した。
その後は特に何かしら追及がある訳でも無く、昼休みが訪れる。
日向がいつも通り弁当を広げていると、再び唯が声を掛けて来た。
「新垣君、こっちの机使いなよ。」
そう言って自分の机をトントンと叩いた。
「え……い、いや、自分の机で食べるよ?」
「いいからいいから、さっきの話もしたいしさー。」
唯は全く引くつもりは無いのか、既に自分の弁当を広げ始めている。
日向もこれ以上は無駄だと悟り、仕方なく唯の机に自分の弁当を置いた。
「……ほうれん草の和えもの、鯖の塩焼き…エビのフリッター、そして玉子焼き……。」
唯がじっと日向の弁当を覗き込み、つぶさに観察する。
日向は周りの視線が気になって仕方なかったが、ここで一つ違和感を覚えた。
「……あれ、芹沢さんとは一緒に食べないの?」
唯はいつも悠里と一緒に食べている筈なのだが、悠里が来る気配は無い。
彼女の席を見ると、そこに席の主は居なかった。
「あー、悠里はね、今日はパンらしいよ。買いに行ってる。」
「そうなんだ、珍しいね。」
「そかな?偶にパン食べてるよ。ふふん、最近仲良くなった新垣君でも、まだまだ悠里に関しては私の方が上だね!」
ふん!と得意気に鼻を鳴らし、胸を張る。
割とボリュームのある胸元が強調され、目の前の日向はそれとなく視線を逸らした。
「ま、ま、それは置いといて。試験の勉強ねー。」
日向の心境には構わず唯は話題を転々と変えていく。
悠里とはまた違ったイチニシアチブの取り方に、日向も付いて行くのでやっとだった。
「とりあえずあたしが、苦手ーって所を三つぐらいピックアップするでしょ?それで、日向君に教えて貰うでしょ?いい点取るでしょ?はいおっけー!」
「いやいやいやいやいや。」
いやいやいや、と心の中の反応がそのまま声に出た。
「おかしいでしょ、どう考えてもおかしいでしょ?あぁちょっと待って、それ以前にね、俺が恵那さんに勉強を教える事は出来ないんだよ。」
必死に主導権を取り返そうとする日向だが、展開が早過ぎて思考が追い付けない。
「どって?」
箸を咥えたまま目を見開く唯の姿は、何も知らなければ可愛らしいものだったが、言動そのものは凶器のようだ。放っておくと刺される。
「俺はね、学校が終わったらすぐ妹を迎えに行かなきゃいけないんだ。だから放課後に学校に残る事は無いんだよ。」
「なるほど、なるほど。」
「なので、この相談は残念ながら俺には受けられない、芹沢さん辺りに頼むといいよ。同じ女子同士だしね。」
「うんうん。」
「まぁ他にさ、何か手伝える事があれば、俺に出来る事ならやるから。それでなんとか。」
「はい言質頂きました!」
唯が急に右手の掌を日向に差し出す。
何か失言しただろうか、日向は一瞬で背中に冷や汗が流れるのを感じた。
「じゃあじゃあ、私達が新垣君の家で勉強すればいいだけだよね?」
「………ゑ?」
思わず漏れた声が旧字体のような不思議な発音になった。
「私と悠里が新垣君の家行くでしょ?悠里が蕾ちゃんだっけ?妹ちゃんと遊んであげるでしょ、その間私は新垣君に勉強教えて貰うでしょ?はーいおっけー!共同での試験勉強対策!これってもう学校生活の醍醐味だよね!!ついでに新垣君、あたしの為に晩御飯作って!お師匠の料理をご相伴に預かる約束も解決、すげーあたしって天才か………!」
唯からの怒涛の発言に、日向は途中で口を挟む事が一切出来ない。
何故か頭の中に、動画サイトを見ている時に出てきた、格闘ゲームで対戦相手が画面端に追い詰められ、そのままラッシュでKOされる光景がフラッシュバックした。
「ちょ、ちょっと待っ―――」
「おー悠里帰ってきた!おーい悠里ー、今度新垣君家で勉強会するよー!」
日向が抗議しようとした瞬間、教室に戻ってきた悠里に唯が声を掛ける。
悠里は戻ってきた途端に呼ばれる自分の名前にビクッと驚いた後。
「は?」
と口をポカンと開いた。
「ちょ、ちょっと待って恵那さん、ほんと恵那さん!」
「あはは、ほんと恵那さんだって!はーい恵那さんだよー!何か問題あった?」
「そりゃそうだよ、女子が家に来て勉強とか、ちょっと色々あるよ!」
「あーそうか、流石に女子だけだと体面マズいのか。よーし成瀬、お前も来るんだ!」
クワッ、と斜め前方に居る雅へ突然叫ぶ。
雅は今までの流れを、自分の席から呆然と眺めていたのだが、唐突な命令に「は?!俺?!」と狼狽える事しか出来ない、それはそうだろう。
「は!?何??これ俺どうすればいいの日向?!」
雅も混乱しているのか、手に持ったドリンクのキャップを開けたり閉めたりしている。
面白い混乱の仕方だったが、今はそれどころではない。
「い、いや流石にそれは……。」
と言いかけた時に、今まで場を散々乱していた唯が、ふっと朗らかに笑った。
「きっと、楽しいよ。」
先程までの口調とは違い、少し大人びた声。
本当に嫌なら、断っても構わないよ、とでも言うように、突然選択権を渡されたような気分になる。
「それにさ、皆で遊びに行ったら、蕾ちゃんも喜ぶんじゃない?あたしはまだ一回しか会ってないけど、成瀬は何度も会ってるんでしょ?」
「あぁ、まぁ……日向ん家は結構遊びに行ってたからなぁ。この前も……。」
言って何かを思い出したのか、雅は苦笑いを返してくる。
「いいじゃん、偶にはさ。夕飯作り、あたしも手伝えるしさ。いつも二人で食べるより、偶には大勢で食べる!ウィンウィンだね!」
いきなりかき回されて、主導権を手放されて、最後に蕾の為だよと迫られる。
出鱈目で滅茶苦茶で、見事な交渉術に日向はもう笑うしかなかった。
「わかった、分かったよ。その代わり実行は来週の月曜、それまでに恵那さんはある程度は自分で進めて、少しでも弱点を自分で理解してくる事。うちの準備もあるし、そこだけは譲れない。いいかな?」
せめてもの日向の反論に、唯はウィンクで答えた。
「おっけーおっけー!さっすがお師匠さん、話が分かるねぇ。」
そんな話をしていたら、昼休みも残り十五分を切っている。
日向は手付かずだった弁当を口に含み始める。
そして、完全に状況に流されるままだった悠里は席に座る事も無く、立ったまま手の中にあるクリームパンを見つめて、ふと視線を上げて唯を見た。
「………あの、私の意見は?」
「案ずるより産むが易し!」
口をモグモグさせながら、空になった弁当箱に蓋をして唯が言い放った。
つい最近まで、ほんの数人だったブックマの方にも楽しんで貰えたらいいなーと思っていた作品ですが
さっき見たら50を超えておりました、ポイントも更に増えてました。。
少しでも楽しんで貰えているのなら幸いです。