ファーストステップ
「梅干し、茎わかめ、これは何だ、ビーフジャーキーか」
箱の中身にあるゴムボールを一つ一つ取り出し、書かれている名詞を読み上げる恵子さんの顔は、今は能面のように冷え冷えとしたものになっている。
一方、至近距離でチラチラと視線を向けられる唯は半泣きの状態で直立不動の姿勢を命じられていた。私達は部屋の傍らで、一部始終を興味深く眺めている真っ最中だ。私達を振り回す側の唯が、この瞬間だけは逆に恵子さんに完全に手綱を握られているというのは、控え目に言って面白い。
「ガム……ガム?」
「あ、それはちょっと自信あった。実験も兼ねる新体験!」
「溶けるに決まってるでしょうが。小さな子供が居るのに、そんな悪戯ばかり仕込むんじゃない」
ピシャリと一喝され、唯は肩をシュンと落とす。しかし、なんというか、予想通りというか。よくもまぁこれだけ微妙なラインナップをポンポンと思い付くなぁ、なんて。
心底、あのまま唯の企画に流されていたらと思うとゾッとする。口の中で梅干しとチョコレートがコラボレーションする味なんて想像しただけで口元を抑えたくなる。
「後はまぁ普通だね。こんだけありゃスリルは十分でしょ」
検閲が終わった箱にゴムボールを残し、恵子さんは箱を唯に返した。受け取った唯が首を傾げて目をぱちくりさせた。
「え、やっていいの?」
「面白そうな事なら大歓迎、ただし悪ノリが過ぎるのはご法度っていつも言ってるだろう?」
「やった! ありがと、ママ!」
厳しそうな雰囲気から一転、唯に向かってウィンクする恵子さんに私達の肩からも力が抜ける。
「ただし……監督不行き届きという事でね、この馬鹿みたいなレパートリーはパパに身体を張って処分して貰う事にしようか」
「ちょ、ちょっと待ってよママ! それは唯ちゃんが用意したもので、僕は関与してないよ!?」
「だから監督不行き届きだって言ったでしょうが」
「えぇー……」
「ま、それはおいおいという事で」
肩を落とす純基さんを華麗にスルーして、恵子さんが私達を見渡してからにっこりと笑う。口元から覗く八重歯が唯そっくりだ。
「急に水を差してごめんね。それから、ようこそ我が家へ。馬鹿な事をやらかすおっさんと娘だけど、まぁそこさえ無ければ普通に楽しい事しかしない奴等だから、安心して楽しんでいってね」
「やった、ママありがと!」
「あんたね……最初からこういう事はママに話しておきなさいって。あんたとパパだけで進めて真っ当な状況になる訳無いでしょうが」
「うへぇ……ごめんなさい……」
母親からのお叱りに、唯が再び肩を小さくする。その背後で純基さんの背中が煤けている気がしたのだが、多分気のせいではないだろう。この家のヒエラルキーも他の家と変わらず、お母さんの立場が圧倒的に強いのだ。
兎にも角にも、その後にようやくリビングに聳え立つチョコレートファウンテンでのフォンデュが始まった。最初は味見がてら、一人一人が好きな果物なんかを銀の串に刺してチョコレートで出来た滝の中へと潜らせてはその味を堪能し、一通り済んだ所で唯の発案である闇鍋ならぬ闇フォンデュが開始された。
順番をジャンケンで決めた所、一番最初は言い出しっぺの唯が当たり、目隠しをしたまま椅子に座って日和ちゃんから謎の食材を口に突っ込まれている。
恵子さんの選別によって食べても激マズいと思われる物は一通り取り除かれたが、それでも視覚が効かない状態で他人の手によって口に物を入れられる、というのはそれだけで結構な恐怖なのだろう。唯は終始、手をばたつかせたり、口の中に食べ物を入れられた後も「あふぁふぁ」と咀嚼する事に抵抗したりと忙しい様子だった。
それから、その次の日和ちゃんの番になり、食べさせる相手が日向君だった。
笑いの絶えない和やかな空気の中で、目隠しをした日向君が唯の誘導で箱の中に手を入れて、ボールを掴んで日和ちゃんに渡す。日和ちゃんはそれを見ると一度頷いて、食材の入った皿へと向かって指定のものを銀串に刺し、フォンデュする。
「それでは、失礼します……」
少し屈んだ日和ちゃんが日向君に向かってそう話し掛けると、日向君は落ち着いた様子で頷いてから口を開けた。
どんな時でも平静な彼の事だから、きっとこんな時でも唯みたいに慌てたり怖がったりはしないんだろうなと思っていたけれど、本当に、何も怖がっていなくて。
反対に、日向君に物を食べさせてあげている日和ちゃんの方が恥ずかしそうにしていた。
「うん、普通に美味しいけど……なんだろうこれ、グニュグニュしてる?」
「ヒントは無しですよ?」
「果物じゃないね……チョコレートで風味が飛んでるから意外と難しいな。んー……これは、グミかな」
日向君の回答に日和ちゃんがうんうんと大きく頷く。日和ちゃんが食べさせたのはその通り、果汁を入れたフルーツグミだ。本来ならばそれで正解で良いと思うのだが、そこに唯の声が割り込んだ。
「へいへーい、グミな事なんて食感ですぐわかっちゃうからね、何のフルーツのグミか当ててみてよ!」
「この状況でそこまでハードル上げるんですか」
「ちょっとぐらい困ってくれないとあたしが楽しくない!」
唯の我儘に、日向君は一度肩を落としたものの、真面目に吟味しようとしたのかモゴモゴと口を動かし始めた。
「んー、分からない。日和、もう一ついい?」
「はい、どうぞ」
「ありがとう。……あぁ、うん、匂いだけに集中すれば分かり易い、これは桃のグミだね」
日向君が改めて回答すると、唯は「うっ……せ、正解」と苦々しい声で呟いた。それから「やっぱりある程度安全圏にある食べ物だとなぁ、簡単に当てられちゃうんだよなぁ……」なんて事も言っていたが、楽しく食べる事が出来ればそれが一番だ。
「流石ですね」
「日和が意地悪をしないでくれて助かったよ」
目隠しを外した日向君が、目の前に居る日和ちゃんと軽くハイタッチのように手を合わせた。
不自然さがまるでない自然体の二人。心から信頼を寄せている事が分かるやり取り。
こうして改めて見ても、外から俯瞰して見ても、お似合い過ぎて何も言葉が出ない。
「 」
私も皆に向かって何かを喋りかけたが、変な事に自分でも何を言ったのかさっぱり分からないのだ。多分、周りの反応を見るに「凄いね」とか「私の時も変な物が当たらないといいな」とか、きっとそんな……当たり障りのない事だろう。
だって、知らなかった。こんな些細な事で自分の胸が痛むなんて事は、知らなかったのだ。
耐えられるとも思っていた。自分の好きな人が幸せになれる、その道標に自分がなる。きっとそれはもっと温かくて、尊いものだと思っていたのだ。
間違っていたのは、自分自身に対する評価そのものだ。
与えたいと思う気持ちが強ければ強い程に痛感する、心のベクトルは一方通行の矢印ではない。
向かう先はどちらにも……両端についていて、その矢印の先端は自分にも突き刺さる。
離れようとすればするだけ、刃先の返しが自分の身を破るのだろう。
(お父さんが、好きだった曲に……そういえば、あったっけ)
一つ分の陽だまりに、二つは入れなくて。
知らなければいけない事が、1と0の間。
だとすれば、恋愛というのは0を1にする為の行動で、愛情というのは1を0にする為の行動なんだろう。
MTGでは因果応報という和訳でした。