人魚姫の話。
りはびりちうです。
彼が、この窓ガラスを隔てた向こうの人工芝で、子供のように跳ね回っている。
試合形式の練習をしているその相手は、彼の元コーチである結城さんだ。何度かお話した事があるけれど、とても大きくて豪快で、けれども人を気遣うような表情をする人だった。
きっとこれまでも、あんな感じで彼を……日向君を、支え続けてきたのだろう。辛抱強く、時間を掛けながらも決して甘えさせる事無く、折れた稲穂が再び大地に根付くまで、じっと。
もうじき春が来る。
私と日向君の時間が始まったのは、春を少し過ぎた辺り。こんなにも濃密な時間を過ごしていたのに、まだ一年も経っていない事に驚いた。
それだけの間で、私は輝くような時間を駆け抜け、そしてどうしようもなく一人の男の子に恋をするという、少女漫画の主人公みたいな経験が出来た。
今でも昨日の事のように思い出す。輪の外から傍観するような彼の表情や仕草を。
私が気にも留めなかった時間の中でも、彼はそれまでずっとそうしていて、小さな幸福の箱を抱え続けていたのだ。
だから、誓った、願った。
彼が置いてきてしまったものを、普通の高校生みたいな日々を、子供が持っていても許される筈の我儘を、その一つ一つが彼の元に戻ってきますように、と。
きっと、その願いは半分以上叶っている。
あんなに一人だった日向君は、今は沢山のクラスメイトに囲まれて笑っている。
遠巻きに見ていた日向君は、一歩を踏み出して皆の前に立ち、先頭を歩くようにもなった。
私の知らない、凄い才能を持った新垣日向っていう、テニスプレイヤーが戻ってきた。
どちらかしか選ぶ事の出来なかった彼が、今は蕾ちゃんという最愛の妹からのエールで、あのコートに立っている。
そして。
最後に残ったピースは、幸いな事に私にも嵌める事が出来そうなのだ。
『日向君が失くしたものを、取り返す』
そんな、今にして思えばお節介にしては不遜過ぎる私のエゴを貫き通す事が出来るのだ。
最後のピース。
本来ならば、彼の隣に居るべき人が、まだいない。
ねぇ、私は、愛っていう言葉の意味なんて知らなかった。
知らずにいた方が、もしかしたら幸せだったのかもしれない。
かつて日向君がそうしたように、私もまた、どちらか一つを選ぶのだ。
自分の幸せか、好きな人の幸せか。
正しさなんてどこにもない、私のエゴ、私の意地。
これが、私……芹沢悠里の戦いだ。
王子の幸せを願った人魚姫の話を、今ならば悲恋なんて思わない。
あれは、愛を貫いた一人の女の子の話なのだ。
始めよう、私の恋の結末を。