気持ち。
「おにいちゃん」
蕾に呼ばれ、その目を見る。真っ直ぐに日向へ向けられた瞳は、神社を出てからはあまり向けてくれなかったものだ。
ひょっとしたら、これからどんどん蕾の視界から自分が居なくなるのではないかと、そんな妄想さえしてしまった。
その蕾が、今はしっかりと日向を見てくれている。
「これ、つぼみからの、プレゼントです」
思えば、この一年で随分と蕾の滑舌も良くなってきた。舌ったらずな感じが抜け、言葉がはっきり聞こえる。
小学生になればもっと友達との交流が増え、きっと随分と話し上手な子になるだろう。
「俺に……?」
「うん、おにいちゃんに……」
テーブル越しに紙袋を手渡される。蕾の上半身をすっぽりと隠してしまうぐらいの、大きな紙袋。
ショップのロゴに見覚えがあるから、それは日和自身が購入したものだと思っていた。でも、そうだ。そういえば、蕾は両親へのプレゼントを買うのではなかっただろうか。蕾の手にはそんな物が無かったという事さえ、日向は意気消沈して気付けていなかった。
「つっつが、日向先輩に買ってあげたい物があるから……って。確かに、それを選ぶにはつっつ一人だと難しいし、私が最適だったんですよ」
開けてあげて下さい、と日和が穏やかな笑みで頷く。
その隣では、緊張した面持ちの蕾が拳をぎゅっと膝の上に乗せながら日向をじっと見詰めていた。
カサリと音を立てながら、紙袋の中を取り出す。出てきたのは長方形の箱で、それが何なのかは一目で分かる。
「これ……」
膝の上に箱を乗せ、その蓋を取り外した。
「うそだろ……」
見覚えのあるメーカーロゴ、品番が書かれた札に英語で書かれている品名にも覚えがある。全く同じではないけれど、時代が進めば物も進化するので当然だった。
「テニスシューズだ……」
今、日向が愛用しているモデルの最新作。家にある物は、二年前から使い続けている為にそろそろガタがきてしまっているものの、余計な出費は抑えようとそのまま使用していた。
もし新しく買い替えるとしたら、日向はこのシリーズを選ぶ事だろう。そしてそれを知る者は、この中では日和という同じテニスプレイヤーで日向のバディを務めていた彼女一人しかいない。
だから蕾は日和を頼った。自分では分からない日向の世界に、蕾からの翼を届ける為に。
「なん、で……」
頭が真っ白になる。予想すらしていなかった。
蕾とテニスは、かつて日向が天秤に掛けたものだ。どちらかを取れば、どちらかを手放さなくてはいけなくなる、それほどのものだった。
成長し、大人になり、自分が出来る事を増やしてようやく今、取り零した片方に再び指先を引っ掛けられた、そういうものだ。
その片方である蕾が、こんな贈り物をしてくれるなんて、ありえないと勝手に思っていた。
「こんな……だって、もっと、欲しい物だってあったんだろ……?」
まだまだ子供の蕾だ、観ているアニメのグッズや玩具にも欲しい物は沢山あるだろう。
誕生日やクリスマス、そういった祝い事でしか買って貰えないような物が、お年玉を使えば手に入れる事だって出来たのだ。
それらよりもずっと高い、軽く一万円を超えるようなプロ選手モデルのテニスシューズを、蕾は手に入れてきた。
「いいんだよ、俺の事は……。自分の物に使ったっていいんだよ、これから沢山遊んだり……勉強したり……友達と遊んだりするのに、必要なものなんて沢山ある……あるのに……」
振り絞るような日向の声に蕾は首を横に振った。日向の言葉をほとんど否定した事が無かった蕾の、微かな反抗だった。
「だって、おにいちゃんは、ずっとそうしてくれたから」
ハッとなって蕾を見る日向に、蕾は続けてはっきりと口にする。
「つぼみのために、おにいちゃんはじぶんのほしいもの、ぜんぶがまんしたから……」
その顔は、もう既に幼児のものではない。自分の確固たる意志を持ち、望みを叶えようとする、一人の少女の顔だった。
「だから、こんどはわたしが、おにいちゃんにかってあげるの。だって、これがあれば、おにいちゃんはもっとたのしいでしょ……?」
「……ぅあ、あぁ……っ」
込み上げるものを抑える暇も無かった。
友人の前でとか、後輩の前でとか、妹の前でとか、そういう外聞を取り繕う事も出来なかった。
ポトリ、と。抱えた紙袋に、水滴が落ちる。一滴落ちてしまえば、後は続け様に二滴、三滴と落ちていく。
「ごめん……ごめん……なんだこれ、なんなんだ……」
片手で顔を隠すが、それぐらいでは止まってくれなかった。嬉しさも寂しさ、きっと全ての感情がごちゃ混ぜになっている。
こんな喫茶店の中で、皆の前でらしくもなく感情を露わにしてしまっている。
「日向君、『ごめん』より……きっと、蕾ちゃんが聞きたい言葉は、別にあるよ」
諭すように悠里が言ってくれる。
「そうですよ、日向先輩。人から贈り物を貰った時、まずは何て言えばいいのか、ちゃんとお兄ちゃんが実践しないと……つっつが拗ねちゃいますよ」
日和が隣の蕾の肩に手を置いて、茶目っ気交じりにそう言った。
あぁ、そうだ、こういう時に何て言うべきかは、自分がずっと蕾に教えてきた筈なのだ。
だから意地を張ろう、このまま泣き崩れているだけではなく、妹が最高の贈り物をしてくれた事に対して、兄らしく意地を張って正しい答えを返そう。
一度、天井を向いて息を吸う。少しだけ落ち着いた気持ちを纏めて、目の前に居る蕾と向き合った。
「……ありがとう、蕾。大事にする、大事にするから」
「だいじにしないで、ちゃんとつかって!」
一瞬で叱られた。実用的な返答を期待する辺り、蕾は確かに日向の妹だった。
「分かった、大事にするけどしっかり使う。ボロボロになるまで使うよ」
「うん。それで、またてにすしてねー!」
「うん。またやるよ、沢山やる」
「おにいちゃん、すごいつよいもんね!」
「そうだな、兄ちゃんは凄い強いから、そうそう負ける事は無いぞ」
「にほんいち?」
「そ……それは、ちょっと、どうかな……?」
いつものようなやり取りが戻ってくる。
家に居る時みたいなバカなやり取りも、友人達は黙って笑顔で見守ってくれた。
腕の中には、妹からの温かな贈り物がある。新しい道を歩き、新しい足跡を付ける為に最適な答えを蕾がくれた。
「あ、俺も我慢してたけど、もう無理」
「は? なんであんたが泣くのよ」
「だってさ、ねぇ……こんないい話ある?」
日向の隣で雅が眉毛をへの字にしながら、目元を袖で拭っていた。
それを唯に窘められ、その姿を見て悠里と日和が笑う。馬鹿みたいなやり取りに日向と蕾も顔を見合わせて笑った。
そんな日向達の元へと店員がやって来る。騒ぎ過ぎてしまったかと背筋を伸ばした日向達に、店員の女性は静かな笑みを浮かべた。
「こちら、店長からです。何やらお祝い事のようだから、と。宜しければ、召し上がって下さい」
女性はトレイに乗せたティーポットと、それから五人分の新しいカップをテーブルへと乗せる。
「え、え、いいんですか、そんな……? むしろ騒がせてしまったようで、御迷惑をお掛けしていないかと……」
「いいんです。ウチの店長、こういうノリが大好きな人なので……宜しければ、今後も御贔屓にして頂ければそれで。あ、お嬢さんの分は新しいココアをお持ち致しますので」
「何から何まで……ほんとすみません……」
恐縮しきりな日向に、店員の女性は笑みを浮かべてから、そっとカウンターの方へと指を差した。
日向達がそちらを向くと、カウンターの奥からは店長らしき壮年の男性が、こちらに向けて親指を立てているのが見える。
かなり茶目っ気のある店長さんのようだった。
「あんな感じなので、どうぞ。皆さんの分はカモミールティーとなっております、気分が落ち着きますので、ごゆっくりとお召し上がり下さい」
そう言い残し、女性店員は優雅な足取りで去っていった。
突然の出来事に日向達は無言でその背中を見送り、それから顔を見合わせて――。
「……ぷっ、ぷふっ。こ、こんな事ってある……!?」
「ドラマとかで見た事はありますけど、まさか自分が体験するとは思っていませんでした……」
「だよね! 小粋なマスターの計らいってやつでしょ、実在したんだ……」
笑いを堪え切れずに噴き出す唯と、謎の感動に包まれている日和が口を開く。
「……ああいう生き方もいいな。俺も目指すかな、喫茶店の店長」
「雅がやるなら喫茶店より居酒屋の方がいいよ、そっちの方が無難そうではある」
「おにーちゃん、これもうのんでいいの?」
「あ、蕾ちゃん。蕾ちゃんにはココアのおかわり持ってきてくれるって。これは飲めるけど……蕾ちゃんには、まだあんまり美味しくないかもね」
悠里が五人分のティーカップにカモミールティーを注ぐ。
ふわりと柔らかな香りが辺りに広がり、今が真冬の真っただ中である事を忘れさせてくれた。