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子守り男子の日向くんは帰宅が早い。  作者: 双葉三葉
【四章 結実の冬、足跡を残して。】
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彼女の望む景色、彼女が望んだ景色。

「あ、おかえりなさい!」

「うん、ただいまー!」


 お手洗いから戻ってきた悠里が席に着くと、日和は一見して先程と変わらぬ笑顔で悠里を迎えた。

 既にスマートフォンは元の画面に戻っており、そこに誰かが触れた形跡は傍目には何も無い。

 日和と悠里、二人とも一息吐くように少し冷めてしまったコーヒーを口に含むと、どちらからともなく身を乗り出して再び修学旅行の話へと戻っていった。


「私のスマホにはこのぐらいしかないけど、唯も沢山撮ってたし……日向君も色んな風景撮ってたから、今度一緒に見せて貰おうね」

「はい、楽しみです」


 一通りの写真を見終わると、悠里はそれをテーブルの中央から手元へと引き寄せる。

 その仕草を何となく視線で追いかける日和の脳裏には、つい先程見た日向と悠里の写真がフラッシュバックのように映り込んで、思わず日和は顔を伏せてしまった。


「……さ、寒いですね、ちょっと。温かいコーヒー、もう一杯飲もうかな……」

「ふふ、そうだね。私も、次はちょっと甘めのものを飲んでみようかなぁ」


 ―――訊きたい。


 写真の事ではない。悠里が、日向をどう思っているのか。

 本当は訊くまでも無い事ではある。例え悠里が人見知りのしない、誰にでも優しい女性だったとしても、ここまで異性との距離を詰める事はまず無いであろう。

 日向にだけ許すその距離が表すものは明白で、異性として悠里が日向に惹かれているのは分かりきった事でもある。


 ―――芹沢先輩は、日向君の事をどう想っているのか、訊きたい。


 面と言ってくれたのなら、日和も覚悟が決まる気がした。

 それが形振り構わずに突き進む前進の一歩か、それとも全てを諦め、悠里ならば許せてしまうという後退の一歩か。

 どちらにせよ、今は一歩を踏み出したい気分だった。


(わかんない……私は、日向君と一緒に居たい、けど。日向君が私と居る事で、また何かを失ってしまうのは嫌だ……)


 どうして自分はいつもこうやって、向こう見ずで走って走って、走り終わった後に振り返って後悔するのだろう。

 どうして、自分はもっと他の人達と同じように上手くやれないんだろう。

 悩むぐらいなら知りたくは無かった。我が儘で自己中心的になれるなら、そのままで生きていたかった。

 誰の事を気にする必要も無く、ただ日向一人を求めて行けたのなら、こんなに息苦しい事は無かったのに……と、そんな事を考える自分が最低に思えて。


(なにこれ……私、ほんと嫌な子だ……)


 目の前に座る悠里と目を合わせられず、きゅっとスカートの裾を掴んだ。


 このスカートも、自分には似合わないと知っていた。

 知っていたけれど、見て欲しかった。誰に、なんて言わなくても分かる。

 日向に可愛いと言われたい、新しい自分を見せたい。それと同じぐらいに、悠里に憧れた。

 日向の傍に居る、誰よりも女性らしい女性。可愛くて綺麗で優しい、自分には無いものを沢山持っている女性ひと


 だからこそ、本物を目の前にすると見えてしまうのだ。

 たった一つ、欲しいものに手を伸ばし続ける、醜悪とも言える自分の姿が。


 無性に泣きそうになって、泣きそうな自分も嫌いになりそうだった。

 強くあろうと決めた、強くなった自分で、日向の傍に居続けようと決めた。

 出来る事をやって、二番目に大好きだったテニスすらも後回しにして、ただひたすらに愛した人の背中を求めた。


 でも、その結果が。強くなって、見えるものが広くなって、だからこそ知ってしまった事実が、自分を打ちのめすなんて、思いもしなくて。


(もう、きっと……私が、日向君の傍に居るのは……)


「日和ちゃん」


 思考に埋没しそうになった日和に、悠里が優しく声を掛ける。

 テーブルに頬杖をついてこちらを見る悠里の表情は、冬の日差しに似て温かい、ふわりとしたものだった。


「日和ちゃんは、日向君そっくりだね」

「……え」

「一番大切な事が分かっているのに、他のものも大切にしたくて……強くなる度に、どんどん優しくなる。けれどその優しさを、あんまり自分には向けてあげられない……ちょっと、不器用な所」

「あう……」


 悠里の言葉を日向にそのまま当て嵌めるだけなら、日和も頷く事が出来た。

 けれど、自分には果たして悠里の言う優しさがあるのだろうかと問われると首を横に振る。

 日和がどう答えていいのか分からずに黙っていると、悠里は微笑みと共に目を細めた。


「昨日から日和ちゃん、ずっと辛そうだったから。きっと日向君の関係で悩んでるんじゃないかなーって思ったの。違ったら、御免ね?」

「あぁ、いえ……私こそすみません、ご心配をお掛けしてしまって……」


 悠里に指摘され、日和は申し訳無さそうに頭を下げる。

 わざわざ誘って貰っているのに暗い顔をして、誘って貰えた理由の一端も暗い顔をしているから、とは。

 情けないにも程がある。ふう、と息を吐いて気持ちを切り替えようとした日和に対し、悠里が続けた。


「ううん。そんな日和ちゃんを無理に誘っちゃったのは私だから、気にしないでね。日和ちゃんに元気になって欲しくて、っていうのも本当。だけど、もう一つ……日和ちゃんと、話しておきたい事があって」

「私と、ですか……?」

「うん。日和ちゃんって日向君の事が好きだよね?」

「ごふっ!」


 気分を落ち着けようと手つかずだった冷水を飲もうとしたのが仇になった。

 まさかのタイミングでまさかのテーマをよりにもよって悠里から切り出され、日和は気管支に入った水にゴホゴホと咳き込みながら、いよいよ混乱の極みに至った思考を必死にかき集めた。


「ご、ごめんなさい! ああぁぁこれ、おしぼり! おしぼり使って!」

「すすすみません! 芹沢先輩、お洋服汚れてないですか?! そっちまで飛んだ気がする!」

「大丈夫! 日和ちゃんの口から出た水なら大丈夫だよ!」

「それはそれで意味が分かりませんよ?!」


 ドタバタとテーブルの上をお絞りが飛び交い、お互いの服に染みが残ってないかをチェックし合う。

 一通りの流れを終えた所で、二人は席に座り直すと、口直しにとまた冷めたコーヒーを口にした。


「なんか、凄い話が凄い所で途切れちゃったね」

「ごめんなさいごめんなさい……」

「ふふ、大丈夫。なんか肩の力抜けてくれたから、むしろ良かったかも」


 悠里がそう言って微笑むと、日和にも自然に笑みが零れた。そうして頭がすっきりした為なのか、もしくは状況に対してもうどうにでもなれ、と自棄っぱちになったのかは分からない。


「はい、私は……日向先輩、日向君が好きです」


 気付けば、先程の悠里の問い掛けにそう答える事が出来ていた。

 一体これを聞いてどうするのだろうと日和が悠里の顔を見ると、その悠里は顔を真っ赤にして明らかに視線を泳がせていた。


「め、面と向かって宣言されると照れるね……!」

「訊いてきたのは芹沢先輩じゃないですか、私は答えただけですよ?」

「あはは……そうだよね、訊いたのは私だもんね……」


 何故そんな事を、とは日和は問い返さなかった。

 悠里が自分にそんな事を訊く理由なんて、もう他に幾つも見当たらない。

 まるでそれが、自分への死刑宣告でもあるかのような気持ちで、日和は最も可能性が高いものを……いや、既に確定している事項を確認する為に、口にした。


「……芹沢先輩も、日向先輩の事が好きですよね?」


 問い掛けて、胸が痛くなる。それが相手の心に踏み込んだ気まずさなのか、それとも別のものなのかは判断出来ない。

 日和の言葉に悠里は驚く事も無く。一拍を置いて、真剣な表情で日和を見詰めた。


「日和ちゃん、お願いがあるの」

「お願い、ですか?」

「日向君の昔の話を……聞かせてくれない?」


 それも、ある段階で予想は出来ていた。

 日和が悠里と日向の関係を羨ましく思うと同じく、日和と日向の間にも他者では理解出来ない何かがあるのだと悠里は感じている事だろう。

 そして、悠里が日向に踏み込もうとするのなら、それは知らなければいけない事実の一つでもある。


 例えそれが、今までの生活で断片を集めて既に一つの真実に行き着いていたとしても。


「ごめんね、どうしても嫌ならいいの。でも……私は日和ちゃんの口から聞きたかった」

「日向先輩からではなく、ですか?」


 日和にはそこだけが分からなかった。

 日向の事を知りたいのなら、日向に対して踏み込む事こそが彼との距離を詰める最善の方法でもある。


「うん。日和ちゃんの口から。私の知らない日向君が、昔はどんなのだったのか……とても、大切な事なの」


 訊けば恐らくは日向は答えてくれるだろう。それをはぐらかされる程に、もう悠里と日向の間に距離感は存在しないと悠里は信じている。

 けれどそれでは足りないのだと言う真意が、日和にはまだ見えなかった。

 でもそれでいいのかもしれない。ここで自分は全てを悠里に託し、また家族以上恋人未満の関係を日向と続ける。

 それは本当に望むべきものとは違うけれど、進む未来としてはまぁ悪くはない。

 彼の傍にはこんなに可愛くて綺麗な恋人が出来るのだ。幼馴染みとして、他の全てを捩じ伏せてしまえば祝福出来る。


「……分かりました。ですが、これはあくまで私視点の話です。実際に日向先輩とは答え合わせをしましたが、それでも全てが正しいとは限りませんよ」


 だから、そう前置きして。

 一つ一つ、日向と日和、そして蕾の、三人の物語を語り始めた。



 全てを聞き終えた悠里が、一体何を思ったのか。

 ことり、と音を立ててカップを置いた日和の目の前で悠里は一度目を閉じて窓の外に視線を向けた。


「実はね、前に私……日向君の名前をウェブで検索した事があるの」

「え……じゃあ、日向先輩が有力選手だったって事も、知っていたんですか?」

「ううん。それを知ったのはその時」


 何故日向の名前を検索ワードに入れていたのかと咄嗟に質問したくなった日和だったが、水を差す事はせずに耳を傾ける。


「日向君、あんまり自分の事は話さないから。いつか話して貰おうって思っていて、でもそうなる前に、色んな事を知ってしまって。ほら、日和ちゃんとの試合の時もね、中学生の子達が日向君を見て騒いでたから」

「あぁ、うん、そうですね。結城コーチのスクールでは、日向先輩は下級生の憧れでしたから、知ってる子が居てもおかしくないと思います」

「高校じゃあ、ただの妹大好きーな甘々お兄ちゃんなのにね?」


 言いながら二人で、彼女達が今見ている日向の姿を思い描いて、笑った。

 笑い終えてから日和は「でも」と、悠里の胸元にまで視線を落とす。


「そんなあの子達の憧れを。日向先輩の未来を……もっと、もっと大きい舞台で、もっと沢山の人に……もしかしたら、世界にだって届いたかもしれない、その可能性を閉じたのは……」


 私かもしれない。


 もしもあの時、今の自分のように蕾を思いやる事が出来たなら。

 一人では無理でも、二人ならばもっと多くのものを掴めたのかもしれない。


 それを自分が独占しようとして、その選択を日向に迫って。

 彼は、選んだ方の対価として全てを差し出した。

 親しかっただろう友人も、それまでの人生を費やしたテニスも、その年頃にあるべき自由な時間も。

 そしてあまつさえ自分はそんな日向との過去を、さも克服して大人になった思考で俯瞰して見られるようになりましたよ、としたり顔で、二度目の失態を犯したのだ。


『もう一度、自分を選んではくれないか考えてくれ』と。


「だから、芹沢先輩が日向先輩を……日向君の事が好きだっていうのなら、私に気を遣う必要なんて何もありませんよ」


 口にして、思った以上に自嘲めいた響きになっていた事を悔いる。

 こんな事を話してから言ったって、むしろ気にしてくれと言っているようなものだ。

 相手の同情を誘っているようで、そんな自分が情けないと日和はいよいよ悠里の目を見れなくなった。


「好きだよ」


 そんな日和に、悠里の言葉が突き刺さる。


「好きだよ。私、日向君の事が好き」


 あまりにも真っ直ぐに放たれた言葉が、日和には眩しい。以前は自分もあんな風に真っ直ぐな好意を口に出来た。けれどもう、今は。


「そう、ですか……うん、良かったです。日向先輩もきっと芹沢先輩に惹かれてると思います。私なんかよりずっと、芹沢先輩の方があの人を幸せに出来る……」


 言葉にしながら、胸に一つ一つナイフを突き刺している気分だった。

 他の誰かに取られてしまうのは悔しい。けれど、悠里が相手なら。自分には出来なかった事を日向と知り合ってすぐにやってのけた悠里ならば、日向も蕾も、丸ごと幸福の中に包んでくれる事だろう。


 後は自分が、この想いを抱えてゆっくりと消化していけば……そう、思って。


「そんな事、無いよ。日和ちゃんは……日和ちゃんだって、日向君を幸せに出来る」

「でも、私は……!」


 優しくかけられた言葉を、反射的に遮る。

 そうする事が出来るなら、許されるなら、もう一度日向の隣で生きていたい。

 あの頃のように、自分の半分が彼だったように。彼の半分が自分だったように、二人で一人のように生きていきたい。


「私も芹沢先輩も日向君の事が好きで!! でも、二人分の気持ちを日向先輩に、背負わせたら……!」


 二度と繰り返してはいけない、最大の過ちがそこにある。


「もう一度、日向先輩に二つから一つを選べって、そんな思いをさせる事になるじゃないですか……」


 日和と蕾を選ぶ事を強制した過去の日和が居て、今の日和が自分と悠里を選べと迫る。その時、彼はどんな事を思うだろう。

 悩んでくれない程に日和に無関心であれば良かった。二年の歳月の間に『昔はお互いにお互い好きだったね』と言えるぐらい、綺麗な過去になっていれば良かった。


 でも分かる分かってしまう。日向が自分を見詰める瞳が、あの頃と変わっていない事に。

 だからこそ日和はもう一度、日向に告白出来たのだから。

 細い糸が今に繋がっている事を、実感してしまったから。


「私はもう、無理です……日向君から何かを奪うのも、捨てさせるのも……もうしたくない、もう嫌なんです……でも、それでも……」


 堪えきれない涙が遂に手の甲へと落ちる。

 泣かないと決めた筈だったのに、よりによって悠里の前で涙を流してしまった事が、とても情けなくて。でもこんな気持ちを託せる相手が、他に居ない。


「それでも……ただの幼馴染みでいいから、傍に居たいんです……」


恋愛感情ではなく、執着だと言われるかもしれない。

どんな形でもいいから傍に置いて欲しいなんて、重たい女だと思われるかもしれない。


日向が何かを捨てるぐらいなら、今度は自分が全てを捨ててでも日向の傍に居続けようと。

日向が、蕾のお兄ちゃんである事を選んだと同じように、日和は日向の幼馴染みの上月日和で居る事を受け入れる。

そう思って、全てを吐き出した日和を。


「人を好きになるって、辛いね……」


その目元を、悠里のハンカチがそっと拭ってゆく。

テーブルの上に身を乗り出した悠里の、優しい手つきで目元を覆われる。


「やっぱり、日和ちゃんってどこか日向君にそっくりだよね」


ふふ、と笑う声を出す悠里がどんな表情をしているのか、日和にはまだ見えない。目元には相変わらずハンカチが押し当てられたままだったから。


「でも、そんな二人の優しさが……誰かの為を想ってする事が、悲しくて寂しい結末になるのは、私は嫌だな」


その言葉には真摯な感情が込められていて、囁いたような声なのに何処か強い。

ハンカチが取られ視界が広がると、悠里が日和の顔を真っ直ぐに見ながら微笑みを浮かべる。


「芹沢先輩……?」

「お腹空いたね! ほら、もうランチの時間だよ、ご飯食べよう!」

「こ、この状況で……ですか?」

「こんな状況だからこそだよ! お腹が空いていたら良くない事ばっかり考えちゃうの、だから美味しいもの食べて幸せな気分になりましょう!」


それまでの空気を全て蹴散らすように、悠里がメニュー表を取り出す。

押し付けられるままにメニュー表を受け取った日和も、仕方なくそれに目を通し始めた。

程なくして、何を食べようか真剣に迷い始めた日和に悠里が口元を綻ばせる。


「な、なんですかぁ……」


 視線に気付いた日和は、悠里の目から逃れるようにメニュー表に顔を隠した。

 さっきまで泣いて弱音を吐いて、その挙げ句に悠里の絆され、今はこうして食べ物の事を考えている……というのは、よくよく考えれば大変恥ずかしいかもしれない。


「ふふ、ううん。はー私も色々考えたらお腹空いちゃった、何にしよっかなー」


 そんな日和の気持ちを知ってか知らずか、悠里もメニュー表に書かれたランチの一覧を眺め始める。

 けれど、その視線が文字列を追わず、どこか遠くの景色に思いを馳せるようなものだった事に、日和は遂に気付く事は出来なかった。

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