遠い風景、遠い背中。その手は、誰の為に。
修学旅行が終わった翌日の朝の事。
ピピ、ピピ、という電子音のアラームが部屋に響いて、ゆっくりと上月日和は目を醒ました。
「んぅ……」
布団の中から手を伸ばしてスマートフォンに触れアラームを消し、一旦布団の中に入り直す。
まだまだ肌寒い季節の中、体温で温められた布団の誘惑は抗いづらく、それは普段からしっかりしている日和でさえも例外では無かった。
一度目が醒めてしまったからか、瞼の裏に映る朝の陽光が眩しかったけれど、それでも目を閉じていると穏やかな睡魔が身体を包み込んでくれるようで。
「ふぁあ……」
もう、なんか色々と気分が重たい。今日は部活もないし、一日中こうしていようかなんて事を思い。
「…………っっ!!? い、今何時……?!」
唐突に思い出された今日の予定に、布団を跳ね上げるようにして身体を起こした。
◆
日向達が修学旅行から戻った昨日。
気付かなければ幸せだったかもしれない、けれど気付かなければ自分を許せなかっただろう事に直面した日和は、顔に貼り付けた笑顔を悟られないように日向達の帰還を歓迎した。
「おかえりなさい、皆さん」
泣きじゃくる蕾をあやしている日向と悠里、そしてそれを苦笑いで見守る唯と雅がそれぞれ日和へと視線を移すと、それぞれがふっ、と穏やかな笑みで頷いてくれる。
「ただいま、日和」
「日和ちゃん、ただいまー!」
「や、お土産買ってきたよーん!」
「もう空は飛びたくない」
それぞれが思い思いの挨拶をする中、日和は一人一人へと笑みを返して、ひくひくと身体を震わせる蕾の元へと身体を寄せた。
「つっつ、ずっと頑張ってたんです。でも、やっぱり寂しかったんでしょうね……」
「日和、ずっと見てくれてたんだよな。……ありがとう、本当に」
「いえ、私こそ。お陰で楽しい時間を過ごす事が出来ましたから」
それは嘘では無い。蕾と過ごした数日間、新垣家の一員となれた間の出来事は、日和にとっても懐かしさのある充実した日々でもあった。
しかしそれでも尚、日和では日向の全てを埋める事は出来なかった、それも事実だった。
「でもこれで、ようやく元通りですね……」
何気なく呟かれた言葉。何も他意は無い筈で、ただ皆の帰還を喜んだだけの言葉だったのに、何故か口にするとそれはどこか空虚さを伴っていて。
「うん。寂しい思いをさせた分、明日は沢山一緒に居てあげないとなぁ……」
事実、日向の視線は日和に向く事は無く、ただ自分の身体に顔を埋めて力一杯で抱きしめてくる小さな妹にと注がれていた。
唯と雅も同じくその光景を微笑ましく見る一方、ただ一人……悠里だけは何か言い表せぬ違和感を感じ、日和へと視線を向ける。
「日和ちゃん……?」
「…………あ、はい! どうしました? 芹沢先輩?」
呼ばれた事に一瞬気付けず、一拍置いてから慌てて返答をする。
悠里は変わらず心配そうな視線を日和へと向けたままだ。
「ううん、なんかちょっと、ぼーっとしてたみたいだから……平気? 風邪とか引いてない?」
言いながら掌を日和の額へと当ててくる。バスに乗っていたからか素肌を曝け出していた悠里の手は、ひんやりとしていて気持ちがいい。
そして、こんな自分にも優しく接してくれる芹沢悠里という女性は、日和にとっても十分に憧れる対象でもあるのだ。
だからこそ、日和は悠里と恋敵になる事を避けたかった。
友人としても好きで、女性としても憧れる相手。そんな人と日向を取り合う事になるのは怖かったし、自分には無い物を沢山持っている悠里に、日和はどこかコンプレックスを抱いていたのかもしれない。
「全然、平気ですよ。先輩達こそ、北海道はもっと寒かったと思うから、皆さん元気で良かったです」
「うん、凄かったよ……どこも雪だらけで、でも綺麗な景色が沢山あったの!」
出来る事なら、一緒にその景色を見たかった。
悠里の口調からはそんな想いが見て取れて、日和自身も話を聴いて本心からそう思う。
だからこそ、年齢という超えようも無い一線がどうしようもなく歯痒い。
「いいな……」
知らず、日和の口からそんな言葉が洩れる。
それは旅行に一緒に行きたかった、という気持ちから出たものか。それとも、何気ない所作一つ一つに他者への思い遣りを込められる悠里に対してのものだったのか。
どうして、自分はこんなに自分の事しか考えられない人間なのだろうか、と日和は奥歯を噛み締めた。
その夜、日和が自室で寝る準備をしていた時の事だった。
ブルルッ、とスマートフォンが振動すると同時にお気に入りのBGMイントロが流れ、メッセージの受信を知らせた。
ドライヤーで髪を乾かしていた日和はその手を一旦止め、スマートフォンの画面を軽くなぞる。
そこに示されていた名前を見て、思わず首を傾げた。
「芹沢先輩……? どうしたんだろ」
グループチャットではなく個人メッセージで直接着ているメッセージを開くと、そこには意外な一文が書かれていた。
『今晩は、日和ちゃん! あのね、明日良かったら一緒にデートしませんか! お土産とか、写真とか一杯あるから、それを見ようかなって。日和ちゃんと二人でゆっくり話す事ってあんまり無かったし』
という内容のお誘いメッセージだった。
無論、悠里からのお誘いとあれば日和としては断る理由も無いのだが、それにしても自分と二人でというのは一体どうした事だろうかと若干の疑念も覚える。
「恵那先輩とかはいいのかな……?」
唯を含めた女子三人で会う事はこれまでに何度かあったものの、悠里と二人で出掛けた事は無かった。
なので、悠里が二人で、と指定してきた以上は何か理由があるのだろうとも思ったが、今の所思い当たる節は無い。
本音を言えば、明日は一人でゆっくりしたくもあった。けれど同じぐらい、修学旅行の話を悠里から聞いてみたくもあった。
(それに……一人で考えるより、誰かと話してた方が気が楽になるかもしれない、し)
昼間から小骨のように刺さっている、自分への嫌悪感。
誰しもがその時に最適な答えや、広い視野を持って行動出来る訳はないと、そのぐらいは分かっている。
けれどあまりに、自分のこれまでの言動は無責任だったのではないかと思ってしまう。
「どのみち……このままじゃ、何にもならないし、なぁ……」
正直、今のまま日向と顔を合わせて今まで通りに話せるとは思えない。
ならば此処は悠里に甘えて、少し気張らしさせて貰おう。日和は小さく頷いて、スマートフォンの画面を指先でなぞり始めた。
◆
「やばいやばいやばいやばい、やーばーいーよー!」
いつもなら休日であっても、遅くても午前八時には目が醒める。
なのでアラームは基本的に平日にセットするだけで、休日は一切鳴らない設定にしてあるのが仇となった。
悠里との待ち合わせは午前十時。そこから軽くお昼を一緒に食べて、という流れになっていた。
しかしベッドの枕元に置いてある時計が示す時間は既に午前九時を過ぎた所を指している。
集合場所は商店街になっているので、距離はそれほどでもない。走れば十分程度で間に合う計算なのだがそこは女子。色々と身嗜みには気を遣いたい年頃だった。
「ああぁぁ寝癖酷い! もー、なんですぐ寝癖つくんだろ! 寝る前にちゃんとドライヤー掛けてるのに!」
パジャマを脱いで下着姿になりながら、日和はわたわたとクローゼットの中から着る予定だった私服を取り出し。
「シャツ! 靴下!」
そのまま着ようとした所でハッとなり、箪笥からインナーを取り出す。危うく冬の寒空に軽装で飛び出す所だった。
とりあえずはと衣服を身に纏い姿見の前に移動すると、櫛を使って髪の毛を整える。
「………………よし!」
後は洗面所で軽く顔を洗って……そう思った所で、姿見に映る自分の姿を日和はもう一度眺めた。
パンツルックにハイネックのシャツ、そして手に持ったダウンジャケットにリュックサック。
悪くはない、悪くはない筈なのだが。
「芹沢先輩と比べると、なんかこう……男っ子っぽすぎる気がする……」
アクティブな日和の好みではあるし、普段からこんな感じの装いで出掛ける事も多い。
防寒に機能性、共に良しの上月日和真冬仕様、ではあるのだが。
「昨日の芹沢先輩、なんか大人の女性って感じで綺麗だったな……」
日和とて悠里の私服を全て知っている訳ではないし、お互いに好みや雰囲気が違うタイプの人間だ。
自分がどう背伸びしても悠里のような女性らしさを出す事は出来ないし、悠里が自分のようなダウンを着ているのを想像しても微妙な感じがする。
きっと女子の自分から見ても可愛い格好をしてくるだろう、そう思うと自分ももう少し女性らしさを意識した格好の方がいいかもしれない。
「あー、うー……あーん……」
迷えども時間は刻々と迫り、悩んでいる時間はあまりない。衣服選びをやり直すか、それとも先輩相手に遅刻など言語道断と体育会系気質でこのまま突っ込むか。
くっ、と口を噛み締めて姿見の自分に問い掛けても何も答えてはくれない。
そもそも女の子らしい格好なんてもの、日和にとっては今まで大して考える必要も無い問題だったのだ。
「芹沢先輩なら、少しぐらい野暮ったい服でも笑わない……っ」
よし、このままで行こう、と足を部屋のドアに向けて踏み出した時。
(でも、女の子として負けちゃったらもう……)
一瞬だけ頭の中に過った謎の敗北感。踏み出した足に思い切り急ブレーキを掛けてクローゼットへと振り返り。
「……やっぱり変える!」
と、威勢よく衣装クローゼットの取っ手へと手を掛けたのだった。
それから小一時間ほどが経過した、商店街の喫茶店にて。
しょんぼりと肩を落とした日和は、対面に座る悠里へと身体を縮こまらせながら頭を下げた。
「遅刻してすみません……」
「い、いいよいいよ! 遅刻って言っても十分ぐらいだし、私も集合時間早く設定し過ぎたかなぁ、って思ってたもん!」
小柄な日和が更に小さくなって大変申し訳無さそうにする姿を見て、悠里は慌てて手をぶんぶんと振りながら顔をこくこくと何度も頷かせた。
何度かお互いに謝罪の応酬をし、喫茶店の従業員がお冷やをテーブルに置いた辺りでようやく二人は落ち着いた。
「服装なんて全然気にしないでいいのに……って思ったけど、それすっごい可愛いね……」
「うっ……」
「日和ちゃんの私服姿っていつも動きやすそうなのが多いけど、今日はなんかほんと……可愛い、可愛いしか言えないぐらい可愛い……」
悠里が「はぁ……」とうっとりしたような声で眺める日和の姿は、パンツルックから一転してスカートを履いていた。
膝上までの青いスカートに、流石に素足は怖かったのでタイツを履いて、上はハイネックの白いセーター。
黒と白のコントラストに冬に合う青色のスカートは、一見すると運動部で身体を動かしているよりも図書館で本を読む文学少女のようでもあった。
「あ、あああ、ありがとう御座います……というか、ですね。いや、これは私が読み間違えただけなんですけれど……」
「うん? なになに?」
今度は逆に日和が悠里の姿を視界に捉え、自分の馬鹿さ加減に頭を軽く抱えた。
「芹沢先輩、ダウンジャケットなんて着るんですね……」
「うん、着る着るー。暖かいよねぇ」
「あ、はい……そうですね……」
にこにこと笑顔で答える悠里とは対照的に、日和の口からは魂が抜けるような溜息が洩れた。
今日の悠里のコーディネートは、日和の予想とは全く正反対のパンツルックにダウンジャケットという、なかなかにラフな格好になっていた。
ロングヘアはロールアップされており、いつもは温和な印象の悠里とはまた違う印象を与えている。
尚且つハイカットのブーツにショルダーバッグと、大人っぽさも損ねていない。
「日和ちゃんに合わせようとして、こんな感じになったんだけど……変じゃないかな?」
「全然変じゃないです、凄く素敵です……ほんと素敵です……格好いいです……」
つまるところ、お互いにお互いの普段着に合わせようとした結果、いつもと真逆のスタイルになったという話だった。
「ふふ、ありがと。日和ちゃんも本当可愛い……ね、ね、写真撮ってもいい?!」
「後生ですからそれだけは何卒ご勘弁です」
目をキラキラさせてスマートフォンを取り出した悠里を片手で制し、こほんと咳払いをする。
先程から店員がちらちらと注文を伺いたそうにこちらを見ているので、というニュアンスをそれとなく悠里に伝えると、悠里も「あ、そうだねぇ」と立ててあったメニューを開いて日和によく見えるように差し出した。
「それじゃ、修学旅行のお土産&お土産話お茶会、始めましょっか!」
「ふふ……はい、お願いします」
二人で揃って好みのコーヒーと軽く甘いものを選び、店員へと伝える。
程なくして品物が運ばれてきた辺りでは、すっかり日和も肩の力を抜いてリラックスしていた。
「あ、それでね。これが……私からの、日和ちゃんへのお土産ね」
雑談が一段落した辺りで本題の修学旅行へと話題は移り、丁度いいタイミングと悠里が早速お土産の紙袋をテーブルの上に置いた。
「何がいいかなーって考えたんだけど、日和ちゃんはこういうの好きかなぁって」
「ありがとう御座います、嬉しいです。……開けてみても、いいですか?」
「どうぞどうぞー! そ、そんなに高いものじゃなくて申し訳ないんだけど……」
恥ずかしそうに眉を下げて笑う悠里に頭を下げ、日和は紙袋を覗くと、中には購入店のロゴが入った袋が入っている。
「ノーザンホースパーク……あ、最後に行った馬の所ですね」
「うん。凄かったよー、後で写真も見せてあげるね」
悠里と会話を続けながら袋に手を入れると、中には二つほど品物が入っている。
その中の片方、ふさふさする手触りのものを取り出して、掌に乗せて歓声を上げた。
「うわぁぁ可愛いっ!」
「だよね! それすっごい可愛いよね!」
「競走馬ですよね、名前書いてる……オルフェーヴル、っていうんだ。凄い馬、なんですか?」
「ううん、知らない!」
「知らないんだ!?」
「け、競馬分からないから……でもその子が一番可愛くて、ほらキーホルダーにもなるんだよ!」
悠里が指さした所にはチェーンとリングがあり、チャリチャリと微かな金属音を立てている。
「これなら、バッグとかにも付けられるし可愛いかなぁって。あ、もう一つはクッキーだから、ご家族と一緒にどうぞー!」
「ほ、本当にありがとう御座います、嬉しいです……」
競走馬の小さなヌイグルミを眺めて思わず頬を緩ませる日和に、悠里もご満悦と言った面持ちでほくほくと笑顔になる。
「ふっふ、でもね……日和ちゃん、後からきっともっと凄いお土産来るから、期待していてね」
「え……? あ、ええっと、もしかして……?」
「うんうん、日向君からね。凄い頑張ってお土産探したんだよ、絶対気に入ってくれると思うから!」
「は、はい! それは、その……楽しみ、です……」
ぐっ、と親指を立てる悠里の気迫に思わず日和が頷くものの、口に出して楽しみと言い切るのも恥ずかしいし、ちょっとがっついているようには見えないだろうか。そんなモヤモヤで口から出る言葉はもにゃもにゃと小声になってしまう。
「あ、しゃ、写真見せて貰ってもいいですか!? 私、北海道ってまだ行った事が無くて……」
恥ずかしさを打ち切るように悠里にお願いすると、悠里は笑って「勿論。見よう~!」とスマートフォンをテーブルの上に置く。
でもその前に、と悠里がちらりと脇に避けてある小皿を指さして。
「先に……これ食べちゃわない? 私、朝ご飯抜いてきちゃってて……」
「……ぷっ、ふふふ……はい、いいですよ。先ずは腹ごしらえしましょうか。私も朝ご飯食べていないので、コーヒーだけだと辛いです」
二人で顔を合わせて笑い合って、フォークを手に小皿へと手を伸ばした。
それからおよそ十五分、悠里の説明を聴きながら二人は写真を一枚一枚、吟味するように眺めていた。
北海道の美麗な風景から、バスの中での様子。男子には見せられない、部屋の中でのちょっとした写真。
その一枚一枚がカメラを構えている悠里からの視点のもので、日和は自分も修学旅行に参加していたような錯覚を覚える。
「いいなぁ、皆さん凄く楽しそう……ふふ、恵那先輩のこれ、涎出てますよ。本人に見せたら怒られるんじゃないですか?」
「うん、それはね、いっくら起こしても唯が起きなかったから悪いの。ほんと朝食会場に間に合わない所だったんだから……」
場所は遠く離れていようとも、そこでの営みは日々と変わらず。
だからこそ、その中に入れなかった日和としては若干の寂寥感と、そして何も変わっていないという安堵感があった。
「あ、ちょっと私、お手洗いに行ってくるね。コーヒー飲みすぎちゃったみたい……」
「はい、行ってらっしゃい」
途中、悠里が席を立つと、日和は一人窓の外に目をやる。
今日も雪が降っている、けれどそれは北海道の雪とはやっぱり違って、路面にはアスファルトの黒色が斑に残っている。
(日向君達は修学旅行が終わって……来年には受験に向けて勉強して、私より先に卒業する……)
学年の違いを憂いた事は幾度とある。けれどそれはもう仕方の無い事だと自分を納得させてきたものの、寂しさを完全に消し去る事は出来なかった。
だから必死に、隣に立とうとした。学年が違う日向の隣に立つ為には、日和には相応の理由が必要だった。
中学生でトッププレイヤーとなった幼馴染みの少年の隣は果てしなく遠く、日和にはその裾を掴んで引き離されないようにするのが精一杯だった。
『置いていかないで、傍に居て』
必死に歩めど離れる距離に焦燥を覚え、掴んだ手は彼の足を止めてしまい、最終的にラケットすらも奪う事になった。
「馬鹿だなぁ……」
あの頃に日向にとっての世界は、きっとテニスだけなのだと思っていた。
テニスなら、自分の居場所がまだある、入り込める余地がある。ぐんぐんと大空に羽ばたく日向に置いて行かれないように懇願した、その想いは届け方を間違えて。
あの頃の日向に、もう一つ大切なものがあるという事を知っていれば、或いは。
三人で歩む未来も、あったのだろうかと考えて、悔やんで。その答えに首を振った。
(……相手にされなかっただけで、何も聞かずに酷い事を言った私だもん……つっつの事を聞かされていたからって、そこで何かが変わるって訳じゃない……)
最初から、自分可愛さの人間が一人居ただけ。
「どうすればいいんだろうね……」
誰に宛てるでもなく、一人呟く。店内に響くイージーリスニングが日和の声を掻き消して、そもそも聞かれる可能性のある相手はまだ席に戻ってきていない。
ふと、テーブルの上に視線を戻すと、そこには変わらず悠里のスマートフォンが置いてある。
サムネイルが並ぶ画面の中、その一点にある写真を見つけて日和の視線はそこで止まった。
彼には珍しい、結構アップになっている写真。
あ、と息が詰まった。
頭から背中に氷柱を差し込まれたように、ひんやりとした感触が走る。
思わず手を伸ばす。これは勝手に見てはいけないもの、そう分かっているのに、指先がその一点に伸びて止まらない。
見ない方がいい、見たら後悔する。ここからでもそれが分かる。
色んな写真があるのだ、きっとこういう写真もあるだろうとは思っていた。
心の何処かで覚悟はしていた。でも確かめずには居られない。
自分の知らない彼が居る、それがどうしようもなく切なくて、怖くて、知りたい。
本当に僅かな逡巡の内、指先がそのサムネイルに触れると、画面一杯に一枚の写真が表示される。
日向と、その隣に居る悠里の、二人だけの写真。
二人ともはにかんだ笑顔で、どこか照れてるような。『今』という時間を目一杯に楽しんでいる、そんな気持ちが伝わってくる写真。
だから、きっと、彼女なら。
彼女なら、日向を、蕾を。その全てを含めて、丸ごと幸せにしてしまえるのだ。
「…………う、っく」
ピシリ、と胸元に鋭い痛みが走る。
あぁ、この痛みは覚えている。自分は知っているものだと日和は気付いた。
きっとこれは二年前、日向と離れてしまった時に感じた痛みと、同じものだった。
重かったりコメディだったり、大変だなぁ皆……(他人事)