そして、今に至る。
僅か数日振りだというのに、何故こんなにも焦がれるのだろう。
仁が運転する新垣家の車、その後部座席に座りながら、日和は落ち着かない面持ちで窓の外に目を向けていた。
隣には同じく、普段通りに見えるがやはりどこか浮ついた様子の蕾が座り、膝の上に置かれている日和の手をその小さな手で握っていた。
傍目から見れば仲の良い姉妹に見えるだろうか。そんな事を不遜とも思わずに考えられる程には、この数日で蕾と日和の距離は以前よりもぐっと近くなった。
午前中の部活動を終えて午後。蕾のお願いと仁が駄々を捏ねた事により、日向が帰宅する今日は忙しいだろうと、寄る予定も無かった新垣家に召喚された日和は、挨拶もそこそこに家に上げられお茶を飲まされ菓子を出され、気付けば車に乗って日向達の出迎えに行く事になってしまっていた。
ちなみに蕾のお願いとは『いっしょにおにいちゃんのおむかえにいきたい』という可愛らしいものであるのに対し、仁の駄々とは『日向が帰ってくるからって日和ちゃんが家に帰るのは嫌だ』という、端から見れば意味の分からない言動である。
そういえば、と。
まだ日和と日向の時間が、出会った当初から地続きだった頃。お互いの家族で一緒に食事に出掛けた事があった。
毎日のように他所様の娘を預かってしまっている側と、毎日のように他所様に預ける形となっている側。
母親同士は割と普段から連絡を取り合っていたのだが、父親同士はそれが初対面で。
『娘さんをウチに下さい』
ちょっとだけ堅苦しくなってしまった場の雰囲気を和ませようとしたのか、それとも素だったのか。
仁が演技掛かった大真面目な顔で日和の父へと頭を下げると、何かを察したのか日和の父もまた腕を組み。
『ならばウチの娘がそちらに行くか、日向君がウチの婿になるか、せいぜい根比べしてみましょうか』
と、従業員の呼び出しブザーを押して、ジョッキになみなみと注がれたビールを二杯注文したのだった。
最終的にはお互いただの子供自慢になったのだが、同じぐらいに相手の子供を褒めるものだったし、それよりも嫁だの婿だのという単語が出てきたせいで、日向と日和は顔を真っ赤にしてろくに目線も合わせられなかった。お陰で楽しい筈の食事会もなんの料理が出てきたか覚えていないし、何より日向と暫くまともに話す事が出来なくなった。
これまで日和は父親と、同年代の女子達と比べても仲が良いと自負している所はあったが、この時だけは仁と酒を飲み合って馬鹿笑いする父親の後頭部を、自前のグラファイト製ラケットを使ってスマッシュしたくなったのを覚えている。
「あ、ついた! おとーさん、あれ! あのバス!」
「あぁ、丁度良かったなぁ。……でもって、こりゃ参ったな。駐車場がパンパンだわ」
物思いに耽っていた日和の傍で蕾が弾んだ声を出して指さすと、仁は辺りの駐車状況を目の当たりにして片手を頭に乗せた。
来客用の駐車場は元より、その途中の道路ですらも路肩がほとんど埋まっている。
「こりゃ駄目だな。……日和ちゃん、悪いんだけどさ、蕾と二人で日向を迎えに行ってくれないか。俺はそっちのコンビニあたりでコーヒーでも買って待ってるからよ」
「うん、分かりました。つっつ、いこっか?」
「悪いね。代わりに晩ご飯を奢るよ」
「気にしないで下さい、それにご飯を奢るって言っても作るのは明吏おばさんでしょう? おじさん家事なんて何も出来ないじゃないですか」
笑いながら仁へと少々皮肉の利いた返しを入れると、仁は気を悪くするどころか楽しそうに「バレてた」と白い歯を見せながら笑った。
蕾の手を引いて車を降りると、万が一にでも交通事故に遭わないよう、慎重に辺りを見渡しながら歩いた。
やがて校舎が近づくにつれ、蕾が手を引く力が徐々に強くなってくるのが分かる。
「こら、つっつ。気持ちは分かるけど、あんまり急ぐと危ないよ」
「う、うん……でも、でもおにーちゃん……」
「大丈夫、日向君はちゃんと待っててくれるから」
焦り手を引く蕾をやんわりと宥めつつ歩く。
途中、蕾が凍った路面に足を取られそうになるも、素早く日和の腕にしがみ付いて体勢を立て直した。
「えへへ……」
「もう……ゆっくり、転ばないようにゆっくりね」
今日を入れて四日。日和は蕾と今までに無いぐらいに一緒に過ごした
日向を取り巻く環境の中では、誰よりも蕾の事を早くに知っていた筈なのに、この四日間で蕾は日和に様々な表情を見せてくれた。
「はぁ、寒い。つっつ、平気?」
「うん、へいきー! くっつくとあったかいから、くっつくよ!」
何よりも自分への好意を隠さずに示してくれるのが、何よりも可愛い。
これは日向と悠里が猫可愛がりするのも頷ける、とここに至ってようやく日和は根本を理解する事が出来た。
日和にとっては春から通い始めた通学路も、今となっては随分と馴染んだ。
見えてくる校門の中には、玄関前に大きなバスが数台止まっており、今は丁度そのバスから生徒達がぞろぞろと降りてくる頃合だった。
「あ、ほんとタイミング良かったみたい。つっつ、もう少しで日向君、降りてくるよ。……つっつ?」
校門を潜った先、他の保護者達が遠巻きに見守る集団の合間から、日和は日向が居るであろう場所の辺りを指さして腰元にしがみつく蕾へと視線を向けた。
けれど何故だろうか、蕾は先程よりも幾分か落ち着いて……むしろ、テンションが下がった状態で日和にしがみついている。
「どうしたの? 日向君、帰ってくるよ?」
「うん……」
蕾の事なので、喜色満面の笑顔で日向を出迎えると思っていた日和だったから、蕾の態度に困惑してしまう。
もしかして、子供には少し辛い寒さだったのだろうかと、屈んで蕾の身体を包み込んであげようかと思った時だった。
「つっつ……?」
僅かに細められた蕾の目元が、ほんの少しだけ潤んでいるのが見えた。
そしてそれを見られた事でか、まるで悪い事をしてしまったのを見咎められた子供のように、蕾は日和の肩口へと顔を押しやって表情を隠した。
「ど、どうしたのつっつ、お腹痛い?!」
「…………いたくない」
ふるふる、と小さく首を横に振る。他にどこか痛い所でもあるのか、もしかして足を滑らせた時に捻ったのだろうか、と問い掛けても、蕾は同じように首を横に振った。
そんな事をしている内に、生徒達は解散の指示を受けたのか、一人また一人と散り散りにそれぞれの保護者の元へと歩き始める。
そしてその中に、大きなボストンバッグと紙袋を幾つも抱えた日向がゆっくりとこちらへと歩いてくる姿が見えた。
「あ、ほら、つっつ! 日向君が来たよ、ほらほら!」
まだ僅かにぐずる蕾を立たせ直すと、くるりと日向の方へと身体を向けてやる。
蕾の瞳が日向を捉えたのか、ふらついた頭はある一点でぴたりと止まり、蕾の手がゆっくりと日和から離れた。
たどたどしい足取りで日向の方へと一歩踏み出す。
大好きな兄の元へ行った蕾は、満面の笑みでおかえりを言うのだろうか。それとも、この数日間の出来事を日向に教えるのか、それとも北海道の話題をせがむのか。
どちらにしろ、これでいつも通りの光景が戻って来たと、そう思った日和の視線の先。日向が蕾の姿を確認して笑いながら手を挙げようとした所で、固まった。
「……?」
蕾の背中越しに見える日向の反応に戸惑う日和だが、その間にも日向の顔は段々と困惑したような表情になる。
一体どうしたのだろうかと日和が蕾に近寄ろうとして。
その背中が、呼吸に合わせて上下しているのに気付いた。
「……ど、どうしたの?!」
「つっつ……?」
日向と日和の声が、蕾を挟んでほぼ同時に発せられる。
日向が立つ場所から後方にいる悠里達もその様子に気付いたのか、何事かと揃ってこちらを見ていた。
そして、日向が蕾へと一歩を踏み出そうとした時。
「………………ぅぁ、うああぁぁあ!」
タッ、と雪を蹴り飛ばすようにして、蕾が前へ前へと走り出す。
それに気付いた日向は咄嗟に荷物を地面へと放り、腰を低くして身構えた。ほとんど、反射的な行動だっただろう、日向が手に持っていた紙袋からは菓子折りが飛び出し、雪を被った。
「おに……おにいちゃん……!」
先程、日和の肩口に顔を押し当てていた時とは比べ物にならない、本気の泣き声が辺りに響く。
日和がようやく二歩目を踏み出そうとした辺りで、蕾は日向の腕の中へと飛び込んだ。
何も言わずに蕾を抱き締める日向だったが、それでも蕾は一向に泣き止まない。
辺り一面に響く蕾の泣き声は、他の生徒や保護者達の目を十分に引いてしまった。
けれどこんな状況だ。泣く子供へ五月蠅そうな顔を向けてくる者はおらず、むしろどこか微笑ましいものを見るような視線で二人を見ている人がほとんどだった。
「蕾、蕾。ごめんな、迎えに来てくれてありがとうな」
ぽんぽん、と日向が蕾の背中と、そして後頭部を優しく叩く。しかしやはりというか、蕾が泣き止む気配は無く。仕方なく、日向は屈んだ腰を落ち着けるようにすると、そのまま蕾をあやし続けた。
「あ……あぁ、…………」
日向の後方から、悠里達が揃って駆け足で寄って来るのが見える。
悠里が蕾と目線を合わせるように屈んで頭を撫で、雅と唯が揃って腕を組んで苦笑いを零しながら周囲へと頭を下げている。
後は、自分もあそこに行って同じように。そう、今までと同じように蕾を一緒にあやしてあげれば、今までと同じ筈だった。
「そっ……か……」
けれど、今はそれが出来ない。日和の脳裏に過ぎるのは、蕾と共に過ごしたこの数日間の事だ。
蕾が可愛くて、頼られるのが嬉しくて、確かな絆を紡いだ。だからこそ、それが出来ない。
日和が僅かの間でも歩んだのは、日向がこれまでずっと歩んできた道の一端だ。
二年もの間、日向はずっとああして蕾の傍に寄り添い、見守ってきたのだ。
これから先……日和がそうあろうとする事を望めば、日和もまた日向と同じように蕾を見守ってあげられるだろう。それが出来るように、なってしまった。
だから、今度こそ、日和は理解した。
今までのように理解したつもりではなく、実際に経験して、理解したのだ。
「私……私が、日向先輩に突きつけた選択肢って……」
つまりは、そういう事だったのだと。
それは二度目の告白ではなく、二人が別の道を歩む事になった時の出来事。
上月日和が新垣日向に想いの丈を打ち明けて、手を繋ぐ事を望んだ時の事。
何故あの時、自分が三人で手を繋ぐ事を選ばなかったのか。
何故あの時、日向が何も答えられず日和の手を取れなかったのか。
家族のように過ごしたこの数日間は、日向に比べて遠く及ばない。
日和は蕾の本当の家族ではない、だけれど本当の家族のように、姉妹のようになれるかもしれないと本気で思えた。
だからこそ、理解出来た。日向が何も選べなかった、その本当の理由を。
分かった気でいたけれど、何も分かっていなかった。
もしも自分がその立場になった時、自分がどんな答えを出せるのか……日和もまた、その問いに答えられないだろう。
その上で、自分は分かったような振りをして、二年の月日で大人になったと思い込んで。
(日向君が、どんな気持ちでその間を過ごしてきたか……私は、何も)
孤独にさせてしまった。
孤独になって尚、日向は蕾と確かな絆を築き上げた。
その一つの結晶が、今目の前にある光景だった。
笑って迎えると思っていた蕾が泣いた。たった数日の間でも、最愛の兄が手の届かない所へ行ってしまっている、その寂寥感を爆発させたように。
大丈夫な訳が無かったのだ。蕾にとって、日向という兄の存在はそれ程までに大きくなっていた。
我慢していた訳ではないのだろう、少なくとも共に過ごした間の蕾は、その素振りをあまり見せなかったし、自然だった。
強くあろうとして、決して心配かけまいとして、蕾は蕾なりのエールで日向の旅行を喜んでいたのだ。
そんな二人の世界を、理解してもいなかった自分が。
二度目の告白をした自分が……あまりにも、情けなかった。
「ちゃんと……ちゃんと、考えられるように、ならなければいけないのは……」
これまでの事を思い出す。
一体自分は、どれだけの時間を知らず日向から奪っていたのだろう。
どれだけ、日向に甘えていれば気が済んだのだろう。
相思相愛だったと思っていた。今でもその気持ちに変わりはなく、そうあって欲しいと強く望んでいる。
「私だ……」
大切なものが、幾つかあって。
それを望む時、同じぐらい幾つかの答えがあったとして。
日向が視野狭窄に陥ったのと同じく日和もまた、他に在った筈の答えを取り零してしまった。
そして、その取り零した筈の答えを見つけられないまま、日和はもう一度賽を振ったのだ。
どうして、私はあの時、三人で一緒に居る事を望まなかったのだろう。
どうして、私はあの時、好きな人が大事にしているものを考えてあげられなかったのだろう。
どうして私は……あの時。
全部分かっている振りをして、もう一度告白なんてしてしまったのだろう。
考える事を全て、日向に丸投げして。答えを全部、日向に背負わせて。
今もまだ、答えを背負わせたままにしている。
目の前には、温かな光景が広がっている。
誰もが皆、誰かを思いやり、優しさを分かち合っている。
あの中は幸せで、満たされて、大好きな人が居て。
その中でもし、自分の幸福だけを考えている人間が居たとしたら。
「それは……私だったんだ」
日和を呼ぶ声が聴こえた。
目の前で、最愛の人が自分の名前を呼んで手を振っている。
戻らなくてはいけない、あの輪の中に。じゃないと、あの人達はきっと自分を心配してしまう。
だから、と。日和は顔を上げ、足を一歩前に踏み出す。
雪が降り、僅かに積もった雪は、やがて溶けて消えてしまうだろう。
叶う事ならば、この降り注ぐ雪のヴェールが、自分の泣き笑いのような顔を少しでも隠してくれますように。
じゃりっ、と薄い雪の上を歩くと、足跡が残った。
誰にも気付かれず、ひっそりと付けられた足跡を残して日和は歩き出した。
「おかえりなさい、皆さん」
こうして、修学旅行は終わりを迎えたのだった。