修学旅行⑰:足跡
観客席に囲まれた舞台の中、日向と唯が並んで掲げたフラフープを目掛けて一頭のポニーが軽く跳躍する。二つの輪が作る間隔はおよそ1メートル程だったが、ポニーはその隙間を気にする事なく軽々と跳び越えた。
「わ、すっご……!」
思わず驚嘆の声が出る唯と同時、観客席からは拍手と喝采が飛び交った。
その雰囲気に当てられたという訳でもないのだろうが、ポニーが舞台外周を軽く走り回り、続けて逆方向からもう一度フラフープの中へと飛び込む。
小さな身体のポニーを見て、日向はそれが跳ぶ瞬間まで、下手すれば失敗してしまうのではないかと一抹の不安を覚えていた。
けれどどうだろう、蓋を開けてみれば小型とはいえ馬の係累、その能力は想像を超えて遙かに力強い。
身体からは外気との気温差の為か汗が蒸気のように視界に映り、ブルッと首を振って吐き出す吐息は猛々しいという表現がよく似合う。
「はは……凄い」
直前に不安ばかりを感じてからだろうか。こうして唯に手を引かれて出たステージに対して、もし失敗したらどうしようとネガティブな事ばかりを考えていた事に気付く。
そしてその心配など杞憂であり、全くのお門違いであるという事をポニーはまるで体現するかのように、何の苦も無く軽やかに障害を跳び越えてみせた。
「あははは! 凄い、凄いなぁポニー! あたし、この子を飼いたい!」
そしてその勇姿が宙を舞う度に舞台を囲む観客席からは歓声が次々と上がり、隣でフラフープを構える唯もそれに応じるように笑顔を振り撒いた。
その姿は今さっきまで観客席で友人達と一緒に居たとは思えない程に堂々としており、ただフラフープを持ってポニーを導くだけの役割ですら、観る者を魅了した。
「新垣君、もっと笑顔笑顔!」
「え、笑顔って言っても、これでも笑ってるつもりなんだけど……!」
「そーんなんじゃいつものポーカーフェイスとあんま変わらないって! そうじゃなくて、蕾ちゃんに向けるぐらいの笑顔! ほら、観客席には小さい子も居るんだよ!」
二人が言い合う間にも、ポニーは外周を回って係員の女性と一緒に観客へのアピールタイムに入っている。その隙にと、唯がほんの少し間を詰めて日向へと微笑みかけた。
「もしかして、失敗するのが怖い?」
「そりゃ、ちょっとね……折角皆が楽しんでるのにと思うと……」
「自分がそれに水を差したくない?」
「そう……だね、そうなんだと思う」
この時間は、きっと他の誰かにとっても大事な思い出になる。
それを自分が壊してしまったらと思うと、どうしても腰が引けてしまうのだ。それは日向が今の時間を心地良いと思えるからこその思考であり、過去に日和という少女の思い出を打ち砕いてしまった事から来る、本人すら気付かない内の一種のトラウマ的な反応でもあった。
「失敗して笑われても、いいじゃん」
「……へ?」
「笑ってくれたなら、それでいいじゃん。ねぇ、新垣君。それが失敗だったとして、それに価値を付けるのは……その誰かだよ」
唯の言動は時に飛躍的でもあるが、それは恐らく唯自身がその過程よりも、結果や真理とも呼べる己の哲学へと一足飛びに辿り着いてしまうからでもある。
けれど今、唯はその過程こそを日向へと示そうと必死に言葉を考えて紡いでいた。
「ここであたしが転けて演技に失敗しても、それを笑ってくれる人が居るなら、成功なんだ。でもそれをあたしが失敗だと思ってたら、その人の笑顔まで消しちゃう事になる。だから、笑うの」
ポニーが外周を回り加速する。係員から最後のジャンプの合図が来る。
それを見て慌てて日向がフラフープを構え直すと同時、唯から告げられた言葉が、日向の耳奥に強く残った。
「失敗や間違いを決めるのは、いつだってその誰か。決して自分だけじゃない……自分だけは、自分を信じないといけないの。忘れないでね――」
日向の目の前でポニーが空中を疾駆する。跳躍する姿に目を奪われた日向には、最後に唯が付け足した一つの言葉を聞く事が出来なかったし、唯もまたそれを日向に聞かせるつもりは無かった。
『忘れないでね、日向君」と、愛しい誰かの名前を呼ぶ、その最後だけは。
演舞が終わると、一仕事を終えたポニーがそれぞれの演者に礼をするように鼻先を下げながら近寄ってくる。それに付き添うようにしていた係員が、ポニーの身体に手を当てながら日向と唯へにこりと微笑みかけた。
「どうぞ二人とも。宜しければ撫でてあげて下さい」
「い、いいんですか……? 嫌がったりしないかなぁ」
「大丈夫ですよ、慣れていますから。ただ、少しだけゆっくりやって頂ければ」
係員の言葉に、少しだけ腰が引けていた唯はこくこくと頷き、そっと掌をポニーの首元へと伸ばす。
「うわ、凄い温かい……ほら、新垣君も触ってみて!?」
唯に促され、日向も唯の掌が置いてある近くへと自らの手を置いた。
「……ほんとだ、温かい」
「ね、凄いよねぇ。生きてるって感じがする」
暫く二人でじっと掌の感触を堪能するも、ポニーは特に機嫌を悪くする事もなく、静かに呼吸を繰り返しているだけだった。
呼吸する度に脈を打つような感覚は生命の鼓動そのもので力強い。
二人がゆっくりと手を離すのを見て、係員がポニーの真横にぴったりと付くとマイクを掲げて一礼する。
「は~い大成功でしたね、ポニー君も楽しそうに跳べたようでご機嫌で~す! それでは皆様、手伝って頂いたこちらの学生さん二人に、もう一度大きな拍手をお願いしま~す!」
よく通る声がマイクを通して会場に響き渡り、係員が右手をサッと挙げて日向と唯を差し出すと、観客席からは拍手が鳴り響いた。
「えへへ、なんか嬉しいねぇ、ただフラフープ持ってただけだったんだけど、楽しかったねぇ!」
「そう……だね、楽しかった。恵那さんに引っ張られてこなければ、こんな風に参加する事は無かっただろうから」
「うえっへっへ……むしろ、あたしが近くに居て無事で居られると思った? 甘い、甘いんだなぁ」
腕を組んだ唯が、にやにやと笑いながら日向を見上げる。
いつものからかい混じりの冗談でも飛ばされるのかと思い、日向が少しだけ身構えた時。再び、そっと手を差し出された。
「これで、ほとんどの行事が終わっちゃったね。戻ろっか、皆の所に」
「え、手を繋いで戻るんですか……?」
「そりゃそうでしょうよ! ペアで参加したんだもん、帰りもペアで帰ろうよ! どうせ最初もおてて繋いでここまで来たんだし!」
「あれは繋いだというか引っ張られたという感じでは……」
「あーもう細かいなぁ! ほら!」
衆目の面前で唯に手を握られると、唯はその手を大きく挙げて観客席へとアピールする。
拍手が一際大きくなった所で、唯が大きく一礼するのを見て日向も慌てて同じように一礼してみせた。
顔を上げると、観客席では悠里や雅達が何とも言えない、安堵と苦笑いが入り交じった表情でこちらを見ている。何かやらかすのかと相当肝を冷やした事だろう、日向にもその気持ちはよく分かった。
「恵那さん」
「うーん?」
「ありがとう」
「……うん。へへ……」
はにかんで笑う唯は、この道を逆に向かう時とはまた別のもので、あの思慮深く相手の奥底を見通すような瞳とも別の、年頃の少女のものだった。
恐らくどちらも本当の唯で、日向はどちらの唯にも救われているのだろう。だから、何に対しての感謝なのかは敢えて言わない。それでも唯の表情を見れば、きっと自分の気持ちは伝わっているのだと感じられる。
来た時と同じように唯に手を引かれ、日向は観客席へと戻る道を歩き出す。
途端、最初に唯に手を握られた時に感じたあの暗闇が晴れる感覚を思い出して天を仰いだ。
既に陽は高く、陽光が辺りの銀色を照らすように降り注いでいる。あれが赤く燃える頃には、小さな妹と共に家の中で今の事を語っているのだろうか。
長いようで短かった修学旅行は、もう間もなく終わりを迎えようとしていた。
☆
「柳、荷物は全員預けたか?」
「はい。大丈夫です、全員終わりました」
「分かった。では整列、点呼を取る」
身軽になった生徒達を見渡し、小野寺教諭が一人一人の名前を呼び上げて名簿にチェックを付けていく。返事をする生徒はそれぞれ気怠そうに、或いは終わってしまった時間を惜しむように返事をする。小野寺教諭はそれをいちいち正すような真似はしなかったが、代わりに。
「折角の楽しい時間が終わって残念な気持ちは分かるのだが、もう少ししゃんとしなさい。紛失物等が起こるのもこういう時なのだし、あぁ……そうだ、一つ言い忘れていたが、私は時間に厳しい。故に点呼の時に返答が無かった場合、容赦なく施設内の迷子呼び出し放送を掛けて貰う事にしている。楽しい修学旅行の思い出が一つ増えるな」
その直後から、生徒達の点呼は軍隊もかくやというレベルでハキハキしたものになった。
手荷物を持って機内に乗り込むと、日向は手荷物を頭上の手荷物スペースへと押しやり着席する。同じく手荷物を収納し終わった雅だったが、席に着く前に胸元で十字を切り始めた。
雅が神仏の類いを信じているとは思いもしなかったが、恐らく本人は藁でさえ縋るものがあればそれでいいのだろう。
「……席、変わろうか?」
「いや、いい……この為に最後のバスでは寝なかったんだ。今の俺はいつでも寝られる。寝られるという事は酔わないって事だ、そうだろ?」
「そ、そうだね……」
何故飛行機でフライトするだけなのに、そこまで事前準備が必要になるのかは日向には分からなかったが、きっと当人には当人なりの苦労があるのだろう。
雅の場合、乗り物酔いというよりも飛行機そのものに対して恐怖心があるので、眠ったからといって何か変わる訳でも無いのだが、わざわざそれを指摘しなくてもいいだろうと日向は曖昧に頷いた。
「という訳で俺は素早く寝る。着地するまで起こさなくてもいい。離着陸の時が一番嫌なんだ、出来れば夢の中で過ごしたい。お前だけが頼りだ、日向。決して誰も俺に近付けさせるなよ」
特に誰とも言わなかったが、誰の事を指しているのかは明白である。
やらかしそうな人物に目を向けると、当の唯は疲れているのか、既に座席に座って寛ぎモードの真っ最中である。これならば席を立ってこちらにまで侵略してくる事は無いだろうと日向が安堵すると、唯の隣に座る悠里が手を振ってきた。
応じるように日向が手を振ると、悠里は満足したように、にっこりと笑って座席へと背中を預ける。
この旅行に出るまでは、ああいった仕草一つ一つも日常の中に溶け込んでいた。
思えば、悠里のような眉目秀麗な女子から日常的にあんな事をされているなんて事は、他の男子から見れば羨ましい限りなのだ。
そして今は、あの動作の中に自分への好意があるという事を日向は知った。
(行きと帰りで、随分と見え方が変わったなぁ……)
戻った日常の先で、これからどんな未来が自分達に訪れるのか、それはまだ定かではない。
けれどもう、向けられた好意から目を背けずに向き合おうと思える。
何かに答えを出そうとすれば、それは決定的な破綻を呼び起こすかもしれない。この平和な時間を再び壊す事は耐えられない。その思いはまだ日向の中に燻っている。
でも、それでも。
この出来事から自分が目を逸らし、いっそ平穏に埋没したいと逃げ出すという事は、想いを告げてくれた二人の勇気を失敗だったと断じてしまう事にもなってしまう。
それだけは、絶対に無いのだと。そう胸を張って受け止める為にも、前を向かなければいけない。
『間もなく離陸致します』
アナウンスが機内に流れた後に、ぽーん……という静かなブザーが鳴る。
隣でガクガクと青白い顔をする雅に微かに笑いかけてから、日向は窓の外に目を向けた。
ゆっくりと上昇を開始する機体と同時に視界に映る世界は徐々に空へと近づいてゆく。
自分達の街とは違う風景、一面に白い雪原と、遠くに街並みが見える。
つい先程まで、あの中を皆で歩いた。
真っ白い雪の上に、足跡を残した。
それもまた、時間が経てば新たな雪に埋もれ、春になれば溶けて無くなってしまうだろう。
けれど、忘れる事は無い。その足跡が決して一人だけのものではなかった事も。
あの雪景色の中で告げられた想いも、背中を押してくれた人の想いも。
「帰ろう……蕾の元に」
そしてまだ続く冬の物語を、春へと繋げる為に。
家で待つ妹が、一体どんな顔で待っていてくれているのか。想像すると、ふっと笑えてしまって。
その時を待ちわびるように、そっと両目を閉じた。
長きに渡った(渡ってしまった)修学旅行編、とりあえずはこれで終わりになります。
この後は蕾のお出迎えシーンから、そうですね……恐らく、最終章となるのか、最終章への布石となるのか。
相変わらず、私にも分かりません(いつもの)