修学旅行編⑯:伸ばされた手。
定山渓の朝はとても冷え込み、外に出ると寝惚けた頭を一瞬で覚醒させる程の冷気を振り撒いている。
朝食会場では幽鬼のようにふらふらと歩き回っていた生徒達も、そのお陰かすっかりといつもの調子を取り戻して、今はバスの中から白い衣で覆われた山々を写真に収めたりしていた。
最後の宿泊は大きな問題も無く終わり、これから最後の目的地へと向かった後、夕方を過ぎればきっと自宅でいつもの日常へと回帰するのだろう。
その事実に幾らかの寂寥感と安堵感が同時に湧き上がり、ともすればこれが旅の醍醐味なのかと日向は頬を緩ませた。
日向達の修学旅行、そのラストを飾る場所はノーザンホースパーク。
北海道といわず、全国的に屈指のレベルで競走馬を輩出し続けるノーザンファームが運営する、馬と触れ合う為のテーマパークだ。
競馬ファンのみならず観光客にも人気のあるその場所は、北海道の雄大な自然を感じるのに最適な場所、そこに日向達は足を踏み入れた。
「……ここが」
ここが、北海道で訪れるべき最後の場所。
目の前には白銀の雪原と森林、そして一般の観光客だろうか、馬車に乗って楽しそうにしている家族連れの姿や、正にこれから引き馬体験をしに行くのであろう男女の姿が見受けられる。
銀色の世界に馬の鹿毛がくっきりと映えて、その口元から吐き出されるゆらゆらとした白い息が馬の生命力を如実に示しているようで、神々しさすら感じられた。
敷地内に建築物は多くなく、馬の厩舎と思われるものと、来客用のレストランや販売店らしきもの等があるだけで、前日行ったテーマパークと比べれば随分と落ち着いていると思える。
「あぁ、なんか好きだな……ここ」
テーマパークでありながらも、馬にストレスを掛けない事を念頭に設計されているのだろう。
騒音も無く、背の高い建物もない。けれど、人間にとっても不自由を感じる程ではない。
言うならば必要最小限、目的の為に無駄なものを削ぎ落としているような園内の作りは、日向にとって何か共感出来るものがあったのだろうか。
「珍しいな、日向がシンプルにそうやって褒めるのは」
「その言い方だと、まるで俺が何かを褒める時は面倒臭い事を言っているように聞こえる」
「間違っちゃいねぇだろ、そもそも日向がそんな興味持つって事が珍しいんだからよ」
隣に立った雅が首をコキコキと鳴らしながら言い、日向と同じ景色を眺めて息を吐く。
「まぁ、分からんでもない。こういう無駄な装飾が省かれた所って、潔いというかな。そういうものを日向が好むのも、また分からんでもない」
「素直に分かるって言えばいいのに」
「俺はお前ほどには達観してねぇんだよ、個人的にはもう少し遊び心があっても良いと思うぜ」
「それはそれで雅らしい、分からんでもないよ」
「この野郎」
雅に後頭部を小突かれる。軽いスキンシップなのは分かるのだが、現役スポーツマンの雅にやられると衝撃はなかなか凄まじい。
恨みがましい視線を向けた日向に、雅はカラカラと笑うとさっさと一人で他の生徒達が集合している場所へと歩き始めてしまったので、仕方なく日向もその後を追うように歩き出した。
ノーザンホースパーク内での全体行動は少なく、ポニーのショーを全員で観た後に昼食を摂り、その後は馬車体験や引き馬体験等のコースを時間内に限り自由に体験していく事になる。
ショーを行う会場へと移動すると、間もなく開演の時間となり、若い女性が一頭の小さな馬と共に現れて会釈した。
「うわぁぁ可愛い! あんな小さい馬がいるんだ……」
丁度、日向達の前方の席へと陣取った悠里が歓声を上げる。小さなポニーは見るからに可愛らしく、女子陣からは黄色い歓声が次々と巻き上がった。
「あれなら唯も乗れそうよね!」
「悪かったわね身長低くて! あたしだって頑張れば普通の馬に乗れるわよ!」
さり気なく笑顔で失礼な事を言い放った悠里へ、唯も笑顔で口角を引き攣らせながら答えた。
やがてショーが始まると、ポニーはその健脚を用いて障害を跳び越えたり、係員の女性と仲睦まじくじゃれ合う姿を披露する。
「上手いもんだなぁ、馬は頭がいいから人の言葉を聞き分けるというが、こうして見ると実際に言葉が通じているようにも思える」
秀平が雅の隣で顎に手を当てて感心した声を漏らす。更にその隣では、壮馬が目を輝かせて身体を前に乗り出すようにショーを凝視していた。
「馬、好きなんだ?」
日向が壮馬へと声を掛けると、壮馬はハッとした顔で振り向き、恥ずかしそうに笑った。
「俺というか、父親がさ。競走馬が好きで、小さい頃からよくレースだけはテレビで観てたんだ。ほら……俺の名前、馬って入るでしょ。多分その影響かも……」
「成る程、言われたら確かにポニーのような雰囲気があるな」
「いやそこはせめてサラブレッドって言ってよ、お世辞でも……」
秀平の一言に壮馬は残念そうに肩を落とすが、本気で残念がっているというよりも、雰囲気に乗って演じてみせた、という感じだった。
この数日、最初はまだどこか他人行儀だった壮馬も、今は随分と打ち解けている。
旅で時間を共有する事で新たな関係が芽生えるというのは、日向にとっても喜ばしい事だった。
(新たな関係……)
ふと、前方でショーを観ながら楽しそうに目を細めている悠里を見る。
この旅で一番変わったのは、間違いなく悠里との距離だ。日向自身、これまでに悠里からは憎からず思われているとは感じてはいた。
ただ同時に、そこに男女の恋愛関係というものを挟まないようにも意識していた。
日向と悠里のスタートラインには、いつも蕾の存在があった。蕾が居たからこそ悠里は日向の傍へと歩み寄り、幾つもの時間を重ねる事になった。
そんな彼女に対して異性を意識し過ぎるというのは、どこか不誠実さにも似た後ろめたさを感じてしまうからだ。
(そんな事を言うと、きっとまた叱られるんだろうけど。……それに)
日和に対して答えを出せていないものの、自分の心の中にはまだ日和への恋心が消える事無く、あの日のままの姿で燻り続けている。
そして、もう一人……悠里からも告白を受けたという事実と、それを困惑しながらも嬉しい事として受け止めてしまっている自分。
この旅が終わった時、元の場所に戻って自分達はどんな風に変化していくのか。
もし、何かを決めてしまえば、他の何かが自分の両手から零れる水のように流れて行ってしまうのではないか、そんな漠然とした不安がチリチリと鳩尾のあたりで日向に不安を与えてくる。
答えを出す事も出さない事も、どちらも不誠実なようで、どこに進めば誰もが笑っていられるのか。
その明確な回答を導き出せない、そんな不安が時間と共に大きくなっている。
静かな不安に苛まれる中、視線を感じて日向がそちらを向くと、いつの間にか唯がじっと自分を見ている事に気付いた。情けない表情を見られたかと日向は内心慌てるものの、唯は何も言わずにただ日向を無言で眺めている。
穏やかな双眸はやんわりと細められ、まるで日向の内心を見透かしているようだった。
「はい、それでは次なんですけどぉ……次は、このフラフープで作った道をポニー君が跳んで跳んで跳びまくりますよ! そして、このフラフープを持つ人なんですけれど……今日は遠くから来てくれている学生さん達が沢山居るので、そんなお兄さんお姉さんにお任せしたいと思いまぁす!!」
女性係員の声に、会場がワッと沸いて拍手が響く。そんな予想外の展開に学生達は戸惑いながらも、場の雰囲気に当てられたのか同じく拍手で盛り上げた。中には腕を空に向かって突き出してアピールする生徒も居る。
「お、凄い元気のいい学生さんが居ますね、ありがとう御座います! そぉれでは、我こそはという学生さんいらっしゃいましたら、全員手を挙げて下さ~い! その中から、ポニー君に決めて貰う事にしましょう!」
続けて放たれた係員の声に、何人かの生徒が手を挙げる。自発的に挙げる者もいれば、友人に唆されて挙手してしまった者など、その理由は様々だろう。
どこか他人事のようにそれを見た日向が何気なく前方に視線を戻すと、悠里が自分の手とポニーを見て……それから、ちらりと日向を見た。
恥ずかしそうな、何かを期待するような、そんな視線で。
「…………あ」
その視線を受けて、日向は一瞬だけ目を逸らしてしまった。
逸らした瞬間に、しまった、と冷や汗が流れる。
悠里は何も悪い事をしていない、向けられる感情も嬉しく思える筈で、彼女に対して悪い印象など何もない。
けれど先程、自分の中にある不誠実さがちらりと顔を出し、それと向き合ってしまった日向は、今この瞬間だけは悠里と顔を合わせるのが怖いと思ってしまった。
どうすればいい、こんな露骨な避け方はきっと彼女を傷付ける。今ならすぐに顔を上げれば何事も無かったかのように悠里に声を掛けられる。
そう思っても、何かに縛られたかのように身体は一向に動こうとしない。
動いたとして、どうするのだろう。その手を取って、未だ何も言えない自分の気持ちを棚に上げて、彼女を満たす為に何かをするのだろうか。
いずれ自分は、誰と先を歩むのかを決める日が来るのだろう。それも、遠くない内に。
その答えは、きっとこうした日常のやり取りの中で育まれ、いずれ形を為す。
そしてそれが形が為すという事は、今のこの心地良い世界が崩れる可能性を孕んでいる事に繋がる。
何処に向かえば、自分達は自分達のままで未来を歩む事が出来るのだろう。
自分は果たして、どんな答えを出せばいいのだろう。
様々な事が一気に日向の頭の中を駆け巡り、今すべき事は一体何なのだろうとしかけた時だった。
強い力で、左手首が握られた。
「……あ?」
暗闇に沈みそうな視界が、それだけで弾ける。
反射的に掴まれた左手を見て、その腕を伝い視線を上げていくと、今度こそ目が合った。
「……え、な、さん……?」
悠里でも、雅でもなく。唯が、日向の手首を力強く握りしめる。
唯の右手は真っ直ぐに日向へと伸ばされ、振り返ったその視線は日向の事を真っ直ぐに射貫く。
何を……と日向が言いかけた所で、ふっ……と、その瞳が優しい色を帯びる。
落ち着け、と。ただ、視線でそう言われた気がして、日向の肩から自然と力が抜けた。
直後、握られた手が唯の手と共に、勢いよく空に向かって放たれる。
「はぁぁい! あたし達がやりまぁぁすっ!」
その場に居る誰よりも、係員のマイクを通した声さえも凌駕する声量で唯が吠えた。
あまりの声に、場内が一瞬だけシンと静まりかえった。
慌てたように係員の女性が笑顔を取り戻し、マイクを構えて唯と日向へ掌を差し出す。
「は、はぁーい! 元気良いお返事ありがとう御座います! それでは、丁度いいのでそちらのお二人にお願いしちゃおうかなっ! こ~ちらへどうぞ~!」
多少の動揺はあったものの係員もプロ根性があるのか、すぐに場を取り直すように朗らかな声と仕草を取り戻す。
指名された日向が状況について行けず困惑していると、唯が迷い無く立ち上がった。
そして自身の隣で呆然と見上げてくる悠里にペロッと舌を出す。
「へへ、ごめんごめん、こういう盛り上げは、やっぱりこの唯ちゃんじゃないとね。って事で新垣君借りて行くよ!」
「え、あ、うん……行ってらっしゃい……?」
若干不満そうな悠里に手を振って、唯はもう片方の手で日向を引っ張り堂々と舞台までの道を進む。
「え、恵那さん! ほ……ほんとにやるの、っていうか俺まで……?!」
為すがままにされていた日向が途中に言葉を挟むと、唯は歩調を緩めて日向の隣へ寄り添い、一言だけ告げた。
「大丈夫だから」
「……え?」
「大丈夫。あたしが付いてる。だから……心配しないで」
ただそれだけを言って、唯は再び日向の前を歩いた。
「あたしが、支えるから」
最後に放った言葉だけは、日向にすら届かない小さな呟きとなって冬の空気に溶けて消えた。
☆☆☆
「…………ったく、あいつは」
その光景を、成瀬雅は冷静さとやるせなさを含んだ表情で眺めている。
無意識の内に触れた右ポケットにはスマートフォンが入っており、そこには昨夜に交わされた雅と唯の会話が文字となって残されている。
『ねぇ、あの二人……何かあったよね』
その文章が届いたのは昨夜の深夜に及ぶ頃で、部屋の班員達が寝静まった頃に、雅自身もそろそろ寝入ってしまおうと考えていた時だった。
『俺はそう思う。何か芹沢から聞いたのか?』
『なーんも。聞いてないし、聞けないってば(笑)』
すぐに返信が来るのを見る辺り、向こうもリアルタイムで画面を開いているのだろう。
誰かと顔を合わせば口を開かずにいられない彼女がこんな事をするという事は、恐らく向こうも全員寝てしまったのだろう。
雅は少しだけぼんやりとする頭を首を振って起こし、画面に文字を打ち込んだ。
『小樽の後からだと思うが、俺も日向からは何も聞いてないから分からん』
『あ、やっぱりアレよね。そっかぁ、あんたも同じ事を感じたなら、間違いないかぁ』
『何があったと思う?』
『多分、悠里が告白したんじゃないかな』
「……マジか」
メッセージを確認し、雅は思わず眠っている日向へと視線を向けた。
どう返せばいいのか雅が悩んでいると、唯からのメッセージが次々と送られてくる。
『悠里、なんか急に可愛くなったっていうか、まぁ元々超可愛いんだけどさ!!』
『新垣君も微妙に悠里との接し方が違うし。一番の決め手は悠里が新垣君と二人で抜け出した事なんだけどねー。あそこまで積極的にやるって事は、どっか吹っ切れた事があったのかなーって』
『んで、そんな事って言ったらもう答えは一つしかないでしょ』
サバサバとした文面からは、唯の本心は一切透けてこない。
元々、自分を隠すのが妙に上手い唯を相手に、文字だけのやり取りでは雅と言えど相手の心理を掴むのは困難だった。
『それでさ……って成瀬、聞いてる? もしかして新垣君が起きててコレ読んでるって事無いよね!?』
『ねぇよ、心配すんな』
『ちゃんと反応すれー』
『お前がいちいち速過ぎるんだよ、もうちょっと落ち着けよ、人生単位で』
ようやく軽口の応酬が始まり、いつもの空気が戻ってくる。
その事に安堵感を覚えつつ、雅は一つ、訊いておくべきだろう事を文章にしたためた。
『で、お前はどうするんだ。芹沢がそこまでやれたんだ、お前も少しは素直に行っていいんじゃないか?』
『駄目だよ』
即答だった。
『ここからでしょ、悠里も、新垣君も……日和ちゃんも』
「あいつ……」
雅もそれは分かっていた。今の日向を取り巻く環境が、急激に変化しようとしている事も、それが決して悪い変化ではない事も。
ただ、同時にそれは危ういバランスであり、何かの切欠一つで崩れ去ってしまう事も。
『悠里も、それは分かってる。分かってて一歩踏み出して……日和ちゃんも、多分そう。でもね、一番大変なのは、新垣君なんだよ。二人分の想いを受け止めて、何か答えを出さないといけない。全部を選ぶ事が出来ない彼は、きっとどこかで自分を責めると思う』
だからこれ以上、日向に負担を掛ける事は絶対にしないのだと、言外にそう告げるような。
正しいとも間違っているとも言えないその決意に、雅は返す言葉を持たない。
過去に日向が自分を責めようとした時、たった一人で彼に寄り添って見届けた雅には、それを否定する事は決して出来なかった。
『だからこそ、あたしと成瀬、あんたの出番でしょ?』
「そりゃ、元から俺はそのつもりだけどよ……」
日向と蕾、そして悠里が出会って、そこに日和が再び戻ってきた日から雅はいつかこんな時が来るのではないかと予想していた。
傍観者として、日向の傍でその日常を見守っていくだけの日々は、雅にとっても掛け替えの無い時間になり、雅自身の意志で守りたいと思う程に拠り所になっていた。
『お前は、そうまでする必要無いだろ』
だが、唯は少しだけ立場が違う。
ほんの少し、悠里と唯のどちらかが最初に日向と言葉を交わしていれば、今の状況はまるきり違うものになっていたかもしれないのだ。
ただそれだけの違いを、画面の向こうに居る彼女は静かに受け止め、たった一人で口を閉じる事を選び、更には日向の後方支援をしようと言っているのだ。
『もう十分だろ、お前はここまで芹沢の背中を押し続けた、それでいいじゃないか。後は自分の事を優先させてもよ』
日向の事が好きだと言ったその顔で、日向が誰かと結ばれる事を望むのだ。
それも、決して誰も傷付かずに居られるように。
『あたしの幸せは、そんなに小さくないよ』
だが、それすらも足りないと彼女は言い続ける。
『新垣君の事が好きだから、あたしはあたしが必要とされる形で、その想いに応える』
それが恵那唯の戦い方なのだと、胸を張って言うのだ。
『迷っても悩んでも、新垣君がその答えに胸を張れるように、あたしが支える』
それは、お伽噺の英雄に救われるお姫様ではなく、隣で立って共に戦う騎士の道を進む事だ。
或いは、その言動は常識に捉えられない魔法使いのものか。
ならばもう、仕方が無いと雅は諦めたように息を吐いた。
この少女は既に道を決めて、無謀な戦いに挑もうとしているのだ。
「まぁ、じゃあ……しゃーねぇよな」
せめてその願いが成就した暁には孤独な思いをしなくて済むように、自分だけはその姿を理解してやらねばいけないと。
雅はいつもの困り顔で、暗闇の中で煌々と光る画面を眺めていた。
なんとなく文章がくどくなってるような、そんな感じが……。