修学旅行編⑬:それはまた、いずれ。
昨夜に引き続き、若干の寝不足状態になりながらも朝食を摂り、時刻は午前十時を回る所。
小樽を出発したバスに揺られながら、日向はぼんやりと窓の外を眺めていた。
上手く思考が纏まらない中、すぐ前方からは昨日と同じく悠里が唯と二人で楽しそうに談話する声が聞こえてくる。
先程、朝食会場からバスに乗る前の集合場所まで、日向が悠里と言葉を交わす場面は幾つかあったものの、悠里の反応は至って普通であり。
「あ、日向君おはよう。ちゃんと眠れた?」
……と、普段通りの笑顔で接してくるものだから、日向としては『もしかしてあれは自分が都合のいいように聞き間違えただけなのかもしれない』と錯覚してしまうのも、仕方ないと言えば仕方ない事でもあった。
(……あれは告白された、って事……だよ、ね)
そんな事を考えつつ、ぼんやりと口を半開きにして窓の外で見送りをしてくれている従業員を眺めていると、段々と意識が遠のいていった。
どのぐらい時間が経っただろうか、誰かに肩を揺すられて日向は閉じていた目を開く。いつの間にか眠っていたらしい、開けた視界から見える窓の風景は先程のものとは随分と様変わりしていた。
「おぉ、起きたか。日向、降りるぞ」
「あれ……もう札幌なのか、本当に近いんだね……」
スマートフォンで時間を確認すると時刻はまだ十一時を少し回った所だ。
日向達のバスが止まった場所は、札幌市の中央にある大通公園。間近に巨大なテレビ塔が聳え立つ、札幌の観光名所の代表格だ。
今日は先ず、このテレビ塔に昇って展望台に行くのが最初の予定となる。
「ねぇ、あれ……公園の方で何かやってるのかな?」
前方の席で悠里が大通公園を指さすと、そこには煌びやかなイルミネーションに彩られた露店が並んでいた。
「えーっと……なになに。クリスマス……ミュンヘン市、ってのやってるみたいよ」
「ミュンヘンって、ドイツの?」
手早くスマートフォンで情報収集をしていた唯が答えると、悠里が唯のスマートフォン画面を覗きこむ。
「そ、なんか札幌と姉妹都市なんだって。それで、クリスマスの日まではこうして公園使って催しやってるみたいねぇ」
「へぇー……可愛いなぁ、行ってみたいかも!」
「テレビ塔見学の自由時間使えば、ちょっとぐらいは観れるんじゃない?」
唯と二人で楽しげに会話する悠里の顔を、日向は後ろの座席からそっと見る。
やはり悠里は今朝と同じく平常運転で、特に何か変わった所も一切見受けられない。
(俺だけ変に意識しても仕方ない)
日向は誰にも気付かれないよう、頭を軽く振って気持ちを切り替える。
悠里に対して何をどう言えばいいのか、どうするべきなのかも何も分からないが、変に意識してこの旅行を楽しめないのは、彼女の望む所ではないだろう。
行こうぜ、と隣で日向を促してくる雅に頷くと、日向は努めて平静な状態を装って施設の中へと足を踏み入れた。
展望台に上がると、施設の職員が簡単な街の歴史やこのテレビ塔の解説をしてくれている。
それを半ば聞き流すようにしながら、日向は360°のパノラマに広がる札幌の都市を窓越しに眺めていた。
眼下に広がる街並みは日向の住む街よりも広く、当たり前だが知らない風景しかない。
風景だけではない、この世界も、人の気持ちも、世の中には日向が知らない事の方が多い。
そんな当たり前の事を今更のように思い知らされると、まるで自分が生まれたばかりの子供に戻ったような錯覚を覚えた。
街並みに視線を取られていると、いつの間にか職員の説明は終わり、生徒達が窓の傍へと歩み寄って風景を楽しんでいる。
その光景から離れるように日向が数歩後ろに下がると、そこには丁度、小野寺教諭の姿が生徒達を見守るように佇んでいた。
「新垣、妹の為に写真を撮っておかなくていいのか」
「先生こそ、奥さんに写真撮っていってあげなくていいんですか?」
掛けられた言葉に日向がそう返すと、小野寺教諭は注視しなければ分からない程にそっと笑った。
「あれは私が撮った写真を見るよりも、自分が見た風景を直接撮りたがる。下手に写真を持ち帰れば、私の休日と給料が全て旅費に消えかねん」
その言葉は、裏を返せば晴香の要望には全て応えると公言しているも同然だったのだが、この教師が隠れ愛妻家である事は既に周知の事実である。知らぬは本人ばかりなりなのだが、あえて指摘する事も無いだろうと日向は出掛かった言葉を仕舞い込んだ。
「うちも同じようなものです。目線で連れて行けと訴えられると、どうにも弱くて。でもちゃんと撮って帰りますよ、見たものを全て残らず」
学生時代の修学旅行は一生の想い出であり語り草になるだろう。
その時に、この瞬間を鮮明に思い出す為には、写真というのは必須のツールだ。
何気なく発した日向の一言に、小野寺教諭はどこか満足気に頷いた。
「……正直な話をすると私は、この修学旅行に新垣……お前が最悪参加しない事もあるんじゃないかと思った事がある」
「俺が、ですか?」
「我が身を振り返ってみろ。学校行事どころか、学校そのものにまるで頓着しなかったお前だ。優秀な成績をキープ出来ていれば、他のものに必要性を感じた事は無かっただろう」
「ひ、否定はしません、というよりも出来ませんけれど……流石に俺も、修学旅行を欠席するなんて発想は」
「今だからこそ無かった、と言えるだろうが。だが、例えば以前にあったように、何らかの事情でお前の妹を誰か一人が見なければいけない、という状況になったらどうだ」
問われると、すぐに答えは出る。日向は自身をその候補に挙げるだろう。
今ならば両親と相談するという選択肢を取れるだろうが、以前であれば自分が残るという意思を固持したかもしれない。小野寺教諭が言っているのは、そういう事なのだ。
「……孤独というのは、感性を鈍麻させる。周囲との関係を絶てば、そこに自分の価値が無くなると思えてしまい、それはやがて必要性を欠如させる」
「まるで不登校生徒みたいだ」
「みたいだ、ではなく、そのものだな。危うかったぞ、お前は……本当にな」
鉄面皮である小野寺教諭から溜め息が漏れるあたり、自分が割と問題児だった事を痛感した日向が申し訳なさそうな顔をすると、それを見た小野寺教諭は澄ました顔になった。
「そんな手間が掛かったお前が修学旅行にちゃんと出てきた。出てきたと思えば、今日は何やらぼんやりと一人で居る時間をあえて作っている。さて、私が今どんな気分か、お前には分かるか新垣」
「……また何か変な方向に捻じ曲がったのかと、心配になりますね」
「そうやって正答を出してくる所は、優秀であって可愛げの無い所だな」
眉間の辺りを指で押え、小野寺教諭は疲れたように肩を落とした。
「問題が起きている訳ではなく、悩みがあるという事であれば無理に話せとは言わん。悩み答えを出すのも長期的に見れば新垣、お前にとっては重要な事だろう」
「……悩んでいるように見えました?」
それほど表情に出してはいない筈だったが、気付かれるという事は自覚が無いだけなのだろう。
ひょっとすると友人達にも余計な心配を掛けてしまっているかと思い、日向の中に申し訳無さが広がる。
だが、小野寺教諭は日向の問い掛けに首を横へ振った。
「実際にどうかなど、話を聞いてみるまで分からん。必要なのは、事実そうであった場合にこちらへ相談する選択肢を示しておくという事だ。……生徒相手にする話では無いがな」
小野寺教諭の言葉は、一見すると相手がアクションを起こさなければ何もしない、というものではあったが、不思議とそれに冷たさを感じない。
最後の最後に手を貸す、というのは相手の成長を願う故のものでもあるし、それが彼にとっての教育を体現したものなのだろう。蕾を相手にしている日向だからこそ、その心遣いの意味を強く感じられた。
だからだろうか、少しだけこの教師に弱音を零したくなった。
「深刻な悩み、という訳ではないんですけれど。なんというか、その……色んな事があって、一つ一つをしっかり考えないといけないんだな、って……」
日和の告白にすら答えを返せていない日向だが、今なら日和が何故答えを急がなかったのか、その理由が身に染みて分かる気がした。
以前よりは自分の願望や希望を前面に出せるようになったとは言え、それでも日向が自分の優先度を低く設定している現状が消えた訳ではない。
そんな状態の自分が答えを出した所で、それはきっと未だ少なくない本心が隠されてしまったままの答えなのだろう。
そして、日和はそんな日向からの答えを望まなかった。
無理に言葉を引き出そうとすれば、それは過去の再現になるという懸念も勿論あっただろう。
「……これも、生徒に話す事ではないのだが」
そう前置きしてから、小野寺教諭が腕を組んだまま遠くを見るように視線を上げた。
「私の妻は、あれで酷く自己評価が低い人間だった。恐らく、他者に尽くすという行為を繰り返す内に、自己に対する執着が薄れていったのだろう。……先程の、学校云々という話にも似ているがな。だが、その周囲に居た人間にとっては真逆だった。彼女の生き方と芯の強さは、少なからず傍に居るものにとっては勇気とも言える感情を与えたものだ」
話を聞きながら、日向は学校祭で言葉を交わしたあの小さな姿を思い出す。
長く会話をした訳でもない、それなのに、彼女の言葉には不思議な力があった。
『出来るよ』
あの言葉の一つ一つには、彼女が歩んできた歴史そのものが刻まれていた。
願望や憶測ではなく、確かな経験として、彼女は日向に言葉を託したのだった。
「新垣、悩める時に存分に悩め。捻り出された答えにこそ、新垣日向という個人の意志が宿る。お前も、晴香も……お前達のような人間というのは、時にそうやって他者の価値観すらも変質させてしまう程、強い意志を持つ。私がそうだったようにな」
小野寺教諭はそう言うと他の生徒の様子を見に行くのだろうか、日向の傍から離れるように右足を踏み出した。
「お前達は本来、そうやって他者との交わりで自己の価値観を進化させ、やがて社会に旅立つ。お前が他者から影響を受けて自身を変質させていくのと同じく、自分もまた誰かに影響を与えて変質させている。その変化をより良い方へと導くのが、私達教師の役目だ」
恐れるな、と。小野寺教諭は最後にそう付け加えると、言い忘れた事があったかのように振り返る。
「ついでに、これは余計なお節介かもしれんが……私がこうして気に掛けたぐらいだ、お前の友人達も同じように気にしている事だろう。ここからはしっかり班で行動し、友人を安心させてやれ」
小野寺教諭が軽く視線を促した先に、慌ててきょろきょろと周囲を見渡す悠里の姿があった。
どうやら、日向が気付いていないだけでずっと悠里は日向の事を気にしていたらしい。
「若いな」
ふっ、と微かに笑いながら立ち去る小野寺教諭の背中を見送りながら、あの担任は本当はどこまで気付いているのだろう、と背筋に冷や汗を掻いた。
小野寺教諭が居なくなると、日向は視線の先で挙動不審になっている悠里の元へと歩み寄った。
どうしてか、先程までの普段通りの悠里よりも、今の慌てている悠里を見ている方が心が落ち着くのが分かる。
(そっか……昨日の事で、自分だけが考え込んでいたと思っていたから、か)
悠里としてはあんな事を言った手前、日向の前では気丈に振る舞っていたのだろう。
加えて言うのなら、他の友人達の手前で露骨に態度に出せば色々と勘繰られてしまう。なので必要以上に普段通りに接しようと思っていたのかもしれない。
そんな中、小野寺教諭が言うように日向がどこかぼんやりと気落ちしたように一人でフラフラしているものだから、自分が変な事を言ったせいで日向が困っているのではないかと思い、遠目からチラ見を繰り返す不審人物になっていた。
やがて意を決したように悠里が日向へと歩み寄ると、室内では暑いであろうマフラーで口元を覆い隠すようにしながら、日向にだけは聞こえる声量で口を開いた。
「あ、あの……日向君、ちょっとお話……いい?」
「うん、俺も少し、悠里と話がしたかったから」
「そう……なんだ。あの、それじゃ、こっち……」
言うなり日向の手を掴み、ぐいぐいとエレベーターのある方へと引っ張っていく。
衆目の中でこんな事をすれば余計に目立つのではと思ったりしたが、観光客と学生が入り交じるこの中では然程珍しい光景でもなかったのか、幸いにも周囲の視線が日向達を捉える事は無かった。
「もしかして、外に出るつもり?」
「ふふ、うん。あの光景、近くで見たいの。あんまり時間は無いけど、写真ぐらいは撮れると思うから」
そこから二人でエレベーターに乗り込み、地上に出る。室外に出た途端、忘れかけていた寒気が襲ってくるものの、昨日の夜に感じた程の寒さではない。
手袋越しに握られた悠里の手は、布越しでも分かる程に温かくなっている。
その感覚が、昨夜の事が未だ何も終わっていない事を示唆していた。もしくは、何も始まっていないか。
公園中央に向かって一帯を取り囲む露店の隙間を通り抜け、ミュンヘン市の中枢へと足を進める。
ログハウスをイメージしたかのような茶色い露店を抜けると、そこには別世界が広がっていた。
「うわぁ……可愛い!」
歓喜に染まる悠里の声を隣で聴きながら、日向も白い息を感嘆と共に漏らした。
規模はそれほど大きくなく、露店の数で言えば二十そこそこだろうか。
中央にクリスマスツリーを模した大きな建造物があり、雪を模しているのか、それは緑ではなくクリアな素材を使われているようだった。
透明な幹と枝葉に、カラフルなLEDが散りばめられている。一見して派手なように思えるが、意外な程にこの場の雰囲気とマッチしている。
露店ではグリューワインという温めたワインや様々な種類のソーセージを売る所もあるようで、その一角を見渡した悠里が日向の袖をくいくいと引っ張った。
「ひ、日向君! 外国人さんが居るよ、お店番してる!」
「本当だ……ミュンヘンとの合同企画って事は、ドイツ人なのかな?」
「そうかも! あそこの髭のおじさん、本当にサンタクロースみたいね!」
悠里が白い髭を携えた壮年の男性を見ながら言う。
クリスマスソング調のジャズミュージックが会場内に響き渡り、モコモコとした厚着で寒さを凌ぎながら温かいワインを呑んでホッと息を吐く人も居れば、恋人同士で腕を組みながら露店にある工芸品や絵はがきを見て頬を緩ませる人も居る。
市に訪れる人も、それを出迎える人々も、等しく足取りはゆったりとしており、それら全てが纏まってこの場の雰囲気を作っているのだと分かる。
「日向君、あと時間、どれぐらい……?」
「残り十分だから、五分ぐらいしたら戻らないといけないかもね」
「五分、五分かぁ」
つまらなさそうに悠里がぼやく。お伽話の中に出てきそうなこの場所だ、出来る事ならばもう少し長く佇んで居たいだろう。
目の前にある光景を焼き付けるように目を閉じた悠里が、そのまま頭を日向の二の腕に寄り掛からせるようにして寄せてくる。
「ね、日向君。一つだけお願いしてもいいかな」
「……うん」
「五分間だけ、私の為に時間を下さい」
そう言って、悠里は日向の右腕を引き寄せ、抱き締めた。
「変な事を言って、困らせちゃったり……きっと、驚いたよね」
「……うん、驚いた」
「ふふ、そうだよね。ごめんね……」
謝りながら、悠里が心地良さそうに日向の肩に頬を乗せた。
今更、悠里が言う好きという言葉がどういう意味か、確かめる必要も無い。
だとすれば、今自分がすべき事は何なのだろうかと考えて、日向は俯いた。
その思考を読み取ったのか、悠里が日向に困ったような表情を向けると。
「えい!」
「……ぐ」
軽く鼻を摘ままれて、日向の口から変な声が出る。
「考え過ぎる癖は、よーくないぞー!」
「……ふひはへん」
「謝る癖も、よくないなー!」
「…………ど、どうしろと」
悠里の指先から逃れた鼻を撫でながら、日向は眉尻を下げて情けない声を出した。
「いいからいいから、今は私から愛の告白を受けた、っていう事だけを理解して下さいな」
にんまりと笑った悠里が、楽しそうに日向の腕にしがみつき直す。
「あ、愛の告白って、いやまぁ……そう、なんだろうけど」
「すぐに答えを貰いたい訳じゃないの、ううん。今はまだ、答えは欲しくない」
いつかの日和のような事を、悠里が言った。
どうして二人とも、そんなに自分に対して寛大なのか。これでは自分がただ不甲斐ないだけではないか、そんな事を考えていると。
「私は……日向君から、答えを貰うより先に、ちゃんと話さないといけない人が居るから……」
その言葉は日向にというより、まるで独り言のようでいて、視線は遠くを眺めていた。
い、色々ありました(事後報告)