修学旅行編 閑話②:変わらぬ居場所。
ひかりとの会話から三十分後、時刻は五時手前。
「……来ちゃった」
新垣家の前に立った日和は、難しい表情で門の前に立ち尽くしていた。
以前は自宅に帰るかのように立ち寄る事の出来たこの家だったが、高校に入ってからは数える程しか訪れていない。
(自分の家みたいに帰れた場所なのに……今はなんでだろう。此処に来る理由を探してる、ずっと)
それが日向に自分の想いを伝えた結果なのか、それに伴う空白の二年間の影響なのか。
少なくとも、前と同じようには振る舞えないのだ。
表札の下にあるチャイムを鳴らそうとして、戸惑う。
今日、この家に日向が居ない事は百も承知で、当たり前のように新垣家の家族もそれは心得ている。
そんな中で自分が顔を出して、どう思われるだろう。その先が想像出来ない。
「……やっぱり、帰ろう、かなぁ」
ちょっと庭からリビングを覗くようにして、明吏と蕾の人影だけでも確認出来れば、安心出来かもしれない。
それだけで満足しよう、訊ねるにしても事前に連絡を入れてからにしよう……そう思い、身体を翻そうとした途端、人の気配が家の中からではなく背後からやってきた。
「ひーよーりーちゃんー!」
「え、えぇ?!」
ダダダダッ、とアスファルトを駆けながら名前を呼ばれて振り返る。
視界に飛び込んで来たのはこちらに向かって両手を万歳に広げて駆け寄ってくる蕾と、その後ろから買い物袋を携えて歩いてくる明吏の姿だった。
「つ、つっつ、家の中に居たんじゃないの?!」
「どーん!」
日和の驚きを他所に、蕾が相変わらずのノンブレーキで突貫してくる。
思わず鞄を地面に置いて両手を広げた日和の腰に、蕾が飛び込んでくると冬の空気の中に春の温かさのような陽だまりの匂いが混じった。
「えへへ、おかーさんとね、かいものいってた! ひよりちゃん、あそびにきてくれたの?」
「え、えっと……うん、一応……そのつもり、だったんだけど……」
蕾の不意打ちに面食らった日和が戸惑いがちに答えると、蕾は日和の手を握って明吏へと振り返った。
「おかーさん! ひよりちゃん、あそびにきてくれたってー!」
蕾の声に釣られて明吏を見た日和は、咄嗟に明吏に頭を下げた。
急にこんな状況になり、どうしよう、なんて言えばいいだろう、ぐるぐると思考が回転する日和に対して、明吏はゆっくりと近付いてくると。
「日和ちゃん、おかえりなさい。さ、外はちょっと寒いから、温かいものでも淹れましょ」
特に動揺した様子も無く、ただニコニコと笑ってそれだけを言った。
(……おかえり、なさい)
いらっしゃい、でもなく。ありがとう、でもなく。
ただ、おかえりなさいと、一言だけ。
(あぁ、もう……駄目だ、本当に)
日和の身体を縛っていた緊張が、その一言だけで氷解した。
この家に寄る理由を探していたのは、何も日向と蕾の事だけではなかった。
きっと、自分はこの人達にも会いたくて、ずっと待っていたのだ。
こんなに長い間、家出してしまった自分を受け入れてくれるのか、まだ自信が持てなくて。
「……た、ただい……ま。明吏おばさん……」
たった一言を返すだけで、顔が紅潮する。高校生にもなって、何を子供みたいな態度をしているんだろうと思うものの、頭の中で描いたような大人の挨拶は全く出来ない。
そんな日和の胸の内を知ってか知らずか、明吏はただ笑って日和の頭を撫でた。
「ほら、中に入りましょ。ずっと此処に居ても楽しい事なんてないわよ」
「ひよりちゃん、はいろうー!」
先に門を潜った明吏に続いて、蕾が日和の手を引っ張る。
ただそれだけで、日和の足は新垣家の敷地へと自然に踏み出していた。
それからの一時間は、日和にとって目が回る程の忙しさだった。
明吏は日和と蕾へ飲み物を用意すると、早々に夕飯の支度に取り掛かってしまい、挙句の果てには「今日はトンカツにするけど、エビフライも付けちゃおう。何本食べる?」みたいに既に夕飯を御馳走になる事が確定していた。
「あ、ご飯まで頂く訳には……」
「日和ちゃん帰しちゃうと、お父さんが後で面倒臭いのよ。日和ちゃんの家には私が連絡しておくから、それまで蕾の相手していて貰える?」
ぽかん、と呆ける日和を他所に明吏はすぐに受話器を取ると、慣れた手付きで日和の家に連絡を入れてしまった。
自分の母親と会話しているのだろう、明吏が弾んだ声で日和のご飯の件や、それとは別に世間話で盛り上がるのを遠目に聴いていると、今度は蕾から袖を引っ張られる。
「ひよりちゃん! なにしてあそぶー? なんでもいいよ! ひよりちゃんやりたいの、やってあげる!」
ふんす、と鼻息を荒く蕾が力強い笑みを浮かべたのを見て、日和は遂に笑い出してしまった。これでは、まるで蕾が日和の遊び相手になってくれているみたいなもので、立場が逆転してしまっているのだ。
「ふふ……うん、そっか、そうだね。それじゃあね……つっつ、トランプしよっか。つっつはトランプ、何が得意?」
「とらんぷ……んー、しんけんすいじゃく! まえにやったことあるよ!」
「しんけ……神経衰弱ね、それにしよっか。つっつ、覚えるの得意なの?」
「うん! たくさんれんしゅうしたから、とくいよ! だから、きょうはひよりちゃんは、にまいめくっていいからねー」
どこかお姉さん風を吹かせて言う蕾を微笑みながら見つつ、日和はテーブルに置かれた紅茶を一口飲むと、ふう、と息を吐いて目を細める。
その表情に、もう気負いのようなものは感じられなかった。
それから夕飯の時間までを蕾と一緒に過ごしていると、玄関からドアを開ける音が響いてくる。その音を聴いた蕾がバッと立ち上がり、玄関まで一目散に駆け出していく。
「おとーさん! きょうね、ひよりちゃんといっしょにごはんだよ!」
「おぉ、蕾、出迎えてくれたのか、ありがとなぁ……ってなあああにいいい!」
日和が反応する間もなく、玄関から蕾の大きな声と、芸人みたいな反応をする仁の声が聴こえてくる。
日和は立ち上がり、自分も仁の出迎えと挨拶に向かおうとした矢先、開けっ放しのリビングのドアから蕾と仁が中へと飛び込んで来た。
「おおお日和ちゃん! いらっしゃい! あぁいい、いいから座ってなさい」
「お、おじさん……おかえりなさい、お邪魔してます」
「邪魔なもんかよ、いやぁ日和ちゃんから『おかえりなさい』が聞けるとはなぁ、久し振りに早く帰宅して正解だったなぁ」
上機嫌に鼻歌を歌いながら、仁はネクタイを外すとそのままダイニングテーブルの席へと腰を落ち着けた。
その姿を見計らい、明吏がテーブルへと料理を並べ始める。
「あ、私も手伝います」
日和が手伝いを申し出ると、明吏は笑顔で頷いて受け入れてくれる。
たったそれだけの事が、お客様扱いされていないという実感を得られて、嬉しかった。
「日和ちゃんが手伝ってくれるの、久し振りねぇ……」
「……はい」
明吏と肩を並べて食器を出し、お茶碗を手渡して炊き立ての白米を入れて貰い、それをテーブルに運ぶ。
最後に手に取ったお茶碗は、日和にとっても馴染み深いものだった。
「はい、日和ちゃんのお茶碗。もっとペンペン盛にする?」
「おばさん、私もうそんなに大食いじゃないです」
「あら、そうなの? 残念だなぁ、日和ちゃんの食べる姿が可愛くて、私もっと見ていたかったのに……」
小学校の高学年から中学生に移り変わる時期、日和は小さな身体を成長させようと食事量を増やしていた事がある。
それはひとえに、日向との身長差を埋めたかった為でもあったのだが、結果的にそれは半ばで潰えてしまった。
「おかーさん、ひよりちゃん、はやく! おなかすいたよー!」
一瞬だけ思考に耽る日和の背後から、蕾の焦れたような声が聴こえてきて、日和と明吏は目を合わせて苦笑いを零した。
日和と、新垣家のお話。
明吏と仁にとっても、日和は娘のようなものです。
家出娘が帰って来た、もしくは家を出た娘が帰省してきた。
そんな感覚、かも。