修学旅行編 閑話:今更の事だけど。
日向達が北海道へ飛び立った同日の放課後。
上月日和は、友人の牧瀬ひかりと共に体育館への渡り廊下を歩いていた。
「部長が居ないから、体育館が使えない日は自主トレ……憂鬱になっちゃうね」
「仕方ないよ。大会もまだ無いし……でも休みにすると身体が鈍っちゃうから、軽く運動だけはしておかないと」
どうせなら休みたかった、と暗に伝えて来るひかりを宥めながら日和はいつもより人気の少ない廊下を見渡した。
二年生の居ない学校。日向達は今、日和からは遠い空の下に居るという現実。
ただの修学旅行の筈なのに、物理的な距離が離れているという実感は、日和にとって酷く落ち着かないものだった。
(……ほんと、私は弱いな)
ひかりの前でこそ平常心を保てているが、初夏から再会して今まで、こんな状況は無かったからだろうか。
日向達が出発する前までは何を思う事も無かった。ただ、楽しんできて欲しい、そう素直に思う事が出来た。
けれど、いざ日向達が居ない日常を目の当たりにすると、心細さがむくむくと育ってくる。
「日和ちゃん、どうしたの?」
「ううん、なんでもない。早く行こ」
「うん。……それにしても、やっぱり二年生が居ないと学校が広いね。兄弟が居る子達は家が広くっていいかも、とか言っていたけど……ね」
「そうなんだ……家が広い、か。私も一人っ子だから、よく分かんない」
ひかりの話に相槌を打ちながら、日和の脳裏を過ったのは一人の少女の姿だった。
(……つっつ、平気かな。明吏おばさんが家に居るって話だけど)
自分自身が寂しいのも勿論あるが、この状況で恐らく最も心細いのは蕾だろうと日和は思う。
親が在宅しているとはいえ、この二年間は日向がずっと傍に居たのだ。
いつも一緒に居る相手が僅かな間とは言え、決して手の届かない距離に居る。
果たして、それは蕾にどんな影響を与えているのだろうか。
「……気になってきちゃった」
無理に笑っていないだろうか、親に心配させまいと気丈に振る舞っていないだろうか。
親だけではない、蕾は日向に心配を掛ける事を一番避けようとするだろう。
その結果、胃腸炎を患わせて日向を送り出した一連の出来事も、まだそんなに前の事ではないのだ。
(……こんな時、こんな時に、私はどうすればいいんだろう。日向先輩の家に行って、様子を見に行って……でも、家族じゃない私が行っても迷惑になるかもしれないし、却って気を遣わせてしまっては意味が無いし……)
遠目から眺めて、大丈夫そうだったらそれで良しとする、というのも考えたが却下した。
そもそも家の外に出て来る保証が無いし、偶然そのタイミングで見かける事が出来たとして、そんな一瞬で見極められる程には日和は蕾と長く一緒に居た事が無い。
「あーもう……どうしよう、気になるけど、けど……」
「ひ、日和ちゃん……?」
頭をガシガシと掻いて唸る日和に、ひかりが怪訝な視線を向ける。
友人に自分が心配を掛けては本末転倒だと、日和が「ごめん、なんでもないよ」と軽く笑って首を振った。
日和の反応を見たひかりは、一瞬だけ考えた後、日和の手を取った。
「日和ちゃん。ちょっと喉が渇いちゃったから、売店いこ」
「ひ、ひかり? 今から飲み物摂るとお腹痛くなるよ?」
「いいからいいから。悩んでる時は糖分摂った方がいいんだよ」
ぐいぐいと手を引いて先程までとは逆方向へ歩き出すひかりに引っ張られ、日和の若干の抵抗も意味なく連れて行かれる。
やがて売店に辿り着くが、売店は当たり前のように閉まっている。この学校の売店は、基本的に昼食の時間帯しか開ける事は無いのだ。
ひかりはそのまま日和を自販機コーナーまで引っ張ると、二人分のスポーツドリンクを購入し、設置されていたベンチへと腰を掛けた。
「座って、日和ちゃん」
「うん……」
ポンポンと隣の座席を叩かれ、日和はおずおずとひかりの隣へと座る。
「はい、今日は私が奢ってあげる」
「あ、ありがとう?」
ひかりから差し出された缶を日和が受け取ると、手の中にひんやりとした感覚が訪れて、知らず火照っていた身体をゆっくりと冷ましてくれた。
「日和ちゃん、私ね、凄く後悔してる事があるんだぁ」
「……後悔?」
「うん。ここね、私のちょっとした想い出の場所なの」
ひかりの言葉に、日和は周囲を見渡す。何の変哲もない、ただのベンチと自販機、そして他の場所と代わり映えのない廊下の風景。これが、一体彼女にとってどんな想い出になるというのだろう。
「私、春過ぎに足やっちゃったでしょ? こう、ギプスと松葉杖なんて突いて。そりゃもう凄く目立っていた訳なのですよ、恥ずかしかったなぁ、あれ……」
「うん、見ていて痛々しかったし……捻った時、私も傍に居たもん。凄く腫れて痛そうで、次の日からひかりが松葉杖だったから、本当に驚いちゃった」
「ふふ、そうだよね。皆、不思議そうな目で見てくるし……本当、見世物になった気分でね。上手く歩けないし、邪魔そうにされるし、お陰で私……いっつも下ばかり見てたかも」
関係の無い上級生や男子生徒。全く知らない誰かからの視線に晒され続けた日々は、元々は明るい性格のひかりに影を落とした。
「……そんな状態で私、お弁当忘れちゃってさぁ。売店に買いに来たのはいいけど、お昼時の売店があんなに混むなんて全然思ってなくて、どうしよう……ってなって」
途方に暮れて、こうしてベンチに座って人の波が引くのを待っていた。
けれどその間も、通り過ぎる人間からは奇異の視線を向けられ、一刻も早く教室に逃げ帰りたかった。
「凄く迷ったけれど、結局日和ちゃんを呼んじゃって……日和ちゃんが来るまでの間、心細くて俯いていたらね、日向先輩が声を掛けてくれたの」
「そう、なんだ」
「最初は、ちょっと怖かったよ。いきなり声を掛けられて……でも、すぐ大丈夫だって分かった。雰囲気がね、温かいの。声が優しいとか、そういうのじゃなくて……私が入って欲しくない距離の、その少し手前で待ってくれている感じ。私が嫌がったり、それ以上怖がるなら入らないよ、って。それで、私の為じゃなくて自分が安心する為だから、って言ってくれて、結局頼っちゃった」
売店の方向を眺めながら、ひかりは当時の事を思い出すように目を細めた。
「でも上手く御礼言えなくて、お金も渡しそびれちゃって。それで、その後に先輩が来るまで、そわそわしながら待ってみたりして……そこから先は、日和ちゃんも知っての通りなんだけどね?」
その後に続くファミレスでの再会。日和の知らぬ間の出来事が繋がって線となるが、その一連の中でひかりが今も尚、後悔を引き摺る事とは一体なんだろうか。
「お金……は結局渡せたんだもんね? なら、一体何が……?」
日和の疑問に、ひかりは少しだけ寂しそうに笑った。
「その後にね。もっとね、もっと私から、先輩達に話し掛けに行けば良かったなぁ、って。そうしたら、私も……日和ちゃんや先輩達と、キャンプとか勉強会とか、色んな事が出来たのかなぁ、って」
「ひかり……」
「あ、変な勘違いはしないでね! ただ、ちょっとだけ……そういう事もあったのかも、と思うとね、羨ましくなったの。だって日和ちゃん、先輩達と一緒の時は本当に楽しそうで、前より可愛く笑うようになったから」
よっ、とひかりはベンチから立ち上がる。その動作は、既に過去の負傷を完全に忘れている程の軽やかなもので、だからこそ時間の経過を明確に示しているものでもあった。
「それが、私の後悔かなぁ。少しだけ頑張ってみたら、今頃は人生で凄く大事な経験をしていたかもしれない。そういう小さな決断って……きっと、毎日のようにあるんだよね」
言ってから、ひかりは照れたように笑った。
「だから、迷うぐらいなら、動いてみた方がいいと思うな。っていうか、日和ちゃんって元々そういうタイプでしょ? 私からしたら、なんで今更そんなに悩むのかなーって思うよ。どうせ悩んでる事って、日向先輩関係の事なのに」
「ど、どうせ……」
「どうせ、でしょ。私、日和ちゃんが悩み始める時に、それが日向先輩と無関係だった、って事に遭遇した事ないよ?」
む……と日和がひかりへ視線を送るも、ひかりは気にした風もなくドリンクを一口飲む。
そして空っぽになった缶を横にあるゴミ箱へポイっと投げると、伸びをするように立ち上がった。
「それで、自主トレどうする? やる? やらない?」
そうして片目で問い掛けてくるひかりへ、日和は唇を尖らせてみせるのだった。
戦略シミュレーションゲーム的には、選抜ユニットが居ない状況で、居残りしたユニットだけで自陣防衛をするシーンって結構ありますよね。
あれです(雑な説明)






