この牙と爪は、誰の為の物なのか。
ぐっ、と目を瞑って衝撃に耐える姿勢を取った雅だったが、訪れる筈の衝撃は一向に訪れない。恐る恐る目を開けると、そこには仏頂面の唯が鞄を振り被った状態のまま止まっていた。
「……お、おう」
「あんたね」
ようやく発した一言に、唯の不機嫌な声が被せられる。
「ったく、こんな時期にやらかしておいて、呑気に帰宅だなんて……」
「そういうお前は、部活どうしたよ」
「体調が悪いので帰るって言っちゃったわよ」
そう言い張る唯の表情は、仏頂面ではあったが悪い顔色では無かった。揃いも揃ってお人好しが集まるものだと思う。
「堂々と言い張らずに真面目に出なさいよ……。んで、お前も事の詳細を聞こうとして俺を待っていたが、日向が居たから迂闊に声を掛けられず、かと言っておめおめと帰宅する訳にもいかず、俺が一人になった所を襲撃してきたという訳か」
チクチクとした言葉を嫌そうに語る雅に、唯は当初の勢いを失ってプイッと顔を背けた。
「いや、なんつーか。……暇だよな、お前」
「あ、さっきは思い直したけど、やっぱり本気で殴るね」
唯が再度、鞄を振り被る。律義に教科書の類は全て持ち帰っているのだろう、重そうな鞄がスッと引き下げられ、雅は慌てて両手を前に出した。
「どう、どうどうどう……! 分かった、分かったからそれを下ろせ……!」
本気で焦る雅に、唯が仕方なく鞄を下ろす。ようやく落ち着いてくれたかと安堵するのも束の間、唯は近くにある自販機を指差して「ん」とだけ声を発した。
「奢れと?」
「そう受け取って貰っても構わないわね。あたしは強制はしないけどね」
ボスン、と鞄を持ち上げて即座に下ろす唯に、雅は疲れたように肩を落とした。
自販機の傍で佇む唯の傍らに雅が屈み、二人で揃って缶のプルタブを開ける。同時にプシュっと心地良い音が響くと、先ずは一口。
「……っぷ」
可愛らしい曖気が隣から聴こえて、雅は顔を顰めた。
「俺が居る前で、どうしてそんなに堂々とゲップが出来るよ。もうちょっと女子らしくしなさいよ……」
「え、何それ、男女不平等。じゃああんた、今まで女子の前でゲップした事無いの?」
「いや、俺は女子の前だろうが我慢出来ないのなら屁すらも厭わない」
キリッとした顔で雅が言うと、今度は唯が疲れた顔をした。
そして、雑談は終わりとばかりに本題に切り込む。
「で、成瀬。あんた、こんな状況で何してくれたのよ。言っておくけど、私は新垣君みたいに話したい時に話してくれ、なんて甘い事は言わないわよ。気になるからすぐ教えて」
「しっかりと盗み聞きしていやがったな」
「う……い、いいじゃない、別に。何を話してるのか、気になったんだもん!」
むしろあの状況で気配を隠し切れた事に敬意を表したいと思った雅だが、全く隠れる場所が無かった訳ではない。それはそれとして、日向の事が絡むと途端に語尾が子供っぽくなる辺り、唯も相当素直になってきていると変な感心をしてみせた。
そこに突っ込むと今度こそ間違いなく殴られるので、あえて触れずに唯の意向に沿ってみせる。
「飲み物買おうとしたら他クラスの奴がくだらん事を話してて、それが癇に障ったから吊し上げた」
「予想外に頭の悪い回答が出て来たわ……」
頭痛がしたのか、唯は額に缶をくっつけると、数秒間そのままの体勢になった。
「あのね、あんたが一番男衆の中では新垣君に近いんだから。あんたの評判はそのまま新垣君の評判にも繋がるのよ。折角いい感じになって来たってのに、水を差してどうすんのよ」
「そうか? 帰り際にクラスの奴等には概ね好評だったぞ。何か知らんがやってくれたな的な感じで。まぁウチってほら、品行方正な奴が多いから、良い刺激物になったんじゃないかね。明日は取材の嵐になりそうだ」
「男子は本当にバカよね……!」
ガジガジと缶の縁を噛みながら唯は吐き捨てるように言うと、そのままズズッと中身を口に含む。一息吐いてから、再び雅へと視線を向けた。
「別にあたしは、あんたの事をそんなに深く知ってる訳じゃないけどさ。らしくない、っていうのは思った」
目線で、さっさともう少し詳しい理由を話せと促され、雅は空になった缶を自販機の隣にあるゴミ箱へと投げ入れた。
「まぁ、日向の事だけなら、慣れてるんだがな。つっても、高校に入ってからはほとんど無かったけど、あいつは中学の頃、それなりに目立ってたからなぁ。性格もいいし、運動も良し、顔だって悪くない。そりゃ、やっかみの一つや二つ、当然あるさ」
「なら、どうして……って、新垣君だけなら? あぁ、そっか」
そこまで言われると流石に唯も気付いたのか、面白くなさそうな溜息を吐いた。
「悠里とかの事を言われたの? それとも、日和ちゃんとか?」
二人とも、顔立ちが整っている分、校内でも目立つ部類の人間だ。そんな子達が日向と共に行動している事があれば、噂の一つや二つあるだろう。むしろ、学校祭準備期間の悠里のような行動を取れば、噂が立たない方が不自然だった。
それに対し、無用なお節介を言う輩も居て、それが雅の耳に入った……と、唯は思っていた。一瞬だけ、雅が迷う仕草を見せるまでは。
そのたった一瞬で、話に上がった人間が今の二人ではない事が分かる。けれど、その二人を除くとすれば、次に可能性が高いのは。
「……あたし?」
今度こそ、雅は苦い顔をした。本音では先程の一言で納得して欲しかったのだろう。
「あたしの事を言われたから、あんた相手に手を挙げたの? 馬鹿じゃん?」
「お前、とことん俺を貶めないと気が済まないのね。いや、別に礼を言われたい訳じゃないけど、もっとこう、小さじ一杯分ぐらいの感謝とかないの?」
死んだ魚のような目で雅が唯を見る。
「別に、お前だからって訳じゃねぇよ。芹沢でも日和ちゃんでも、俺と日向以外の奴を挙げられたら、流石に癇に障る。ただそれだけだ」
「なんで新垣君もあんたと同枠なのよ……」
「言ったろ、慣れてるって。加えて言うなら日向の場合は有名税みたいなもんだ、まぁそれを言っちゃえば他の奴等も同じようなもんだけどな」
雅の言い方に唯は少しだけ腹が立った。それではまるで、自分達は良くて他は駄目、と線引きしているようなものだ。けれど、唯がその事を口にする前に雅が続けた。
「ある程度強く見せないと、弱い所から崩される。一歩だけ譲ってやると、次からは二歩三歩と踏み込んで来やがる。そう思ったら身体が動いてた。結果的に迷惑掛けちまった事は確かだから、それはマジでスマンかった」
両掌を合わせて拝むように雅が謝ると、唯はそれ以上は追及する気分を削がれたのか大仰な溜息を吐いて鞄を持ち上げた。
「まぁ、理由については納得したわ。でもまぁ、確かに迷惑というよりは心配掛けた分の返済はきっちりして貰うけどね。……帰る」
そうして、あっさりと唯は雅に背中を向けた。雅もその変わり身の早さに、特に驚きはしない。
「明日、悠里もそうだけど、栁達にも謝っておきなさいよ。あっちも心配してたんだから……後、埋め合わせは全員があんたにジュース一本買わせる、くらいで済ませてあげる」
「全員って、その辺り全員かよ! 千円近く飛ぶじゃねぇか!」
バイトもしていない高校生にとっては千円というのは大金だ。
雅の悲痛な叫びで、唯は振り返り様に「べっ」と小さく舌を出したまま去って行った。
「あー、くそ……本当、やるんじゃなかったわ……」
魂が抜かれたように雅は大きく溜息を吐いて、それから自分も立ち上がると、これ以上は誰も後ろから来ないよな……と周囲を確認し、自宅に向けて足を進める。
あの時、教室を出てから今と同じように自販機の傍に居て、偶然聞いてしまった他クラス生徒の言葉を思い出す。
内容は本当につまらない、些細な事。誰それが何をした、とか。ゴシップの類、その話題の一つに。
(恵那って、軽そうだからさ。あの新垣が仲良く出来るんだったら、俺が真面目に告ったら付き合ってくれそうじゃね?)
それから始まる、品性が感じられない言葉の応酬を聞いて、身体が自動的に反応してしまっていた。
その割には、一瞬で相手の襟首を掴み上げ、引き寄せて重心を崩し、人形のようにふらつく相手の身体の、今度は後ろ脚を引っ掛けながら押して壁際に吊るした場面の事は覚えている。
自分と、そして日向の事ならまだいい。
だが、自分達が作ったこの聖域を、土足で踏み荒らす事だけは成瀬雅という人格が一切許さない。そう示威するかのように。
まして、それをネタにして、誰かの尊厳を踏みにじる等。
誰も彼もが、本心を隠しながら生きているとしても、その裏に尊いものもある。
誰にも知られず、ひっそりと育まれた唯の恋心もその一つだと、雅には思う事が出来た。
「まぁいいや、全員お汁粉でも与えて嫌がらせしてやる」
結局の所、今回の出来事は誰の得になる事も無く、最終的に千円分の出費がかさんだだけであったのだが、まぁ、それはそれでいいだろうと雅は一人ぼやくのだった。
サイドストーリー的な感じになりました。
なんとなく、今までの日向達の関係や成長を俯瞰して見られる回が欲しかったので……。
あ、でも暴力はいかんですよ、推奨している訳ではありませぬ故……(戒め)