まだ大人になれたとは言えないけれど。
教室内の生徒達が疎らになった頃、噂の渦中である雅が欠伸を噛み殺しながら教室に姿を見せた。鞄が掛けられたままの雅の席、その隣の席に座ったままの日向に、雅は一瞬だけ驚いた顔をした後、半笑いになって声を掛けた。
「なんだまだ居たのか。早く帰らんと、また蕾ちゃんの機嫌が悪くなるぞ」
「おかえり。戻って来た時に誰も居ないと寂しがると思って、一応ね」
「生意気言っちゃってまぁ。……ほんじゃ、帰るかね」
「あれ、部活は?」
日向の前を通り、机から鞄を持ち上げて肩に担ぐ雅を見て、日向は首を傾げた。
「今日は直帰だと。まぁ反省しておけって事かね」
行こうぜ、と言う風に顎を教室のドアに向ける雅に従い、日向も席を立つ。
そのまま特に何も話し合う事もせず、二人は生徒用玄関を出て校舎を後にした。
「……また珍しい事をしたね。俺の覚えている範囲で、雅がこういう問題を起こす事って無かった筈だけど」
学校の敷地を出て一本目の横断歩道で信号を待つ間、日向が口を開いた。雅もまた、その問いが当然であるように自然な態度のまま「まぁなぁ」と返事をすると、疲れ切ったように溜息を吐いた。
「小野寺先生に、めっちゃ無言の圧力を向けられた。サバンナで猛獣と遭遇した時って、あんな気分なんだろな……」
「それは何というか、御愁傷様……。そんなに怒られるような事をしたの?」
視線の先にある信号が青に変わり、話を一度止めると横断歩道を進む。大して交通量の多くないこの道は生徒達が信号無視して渡る事も多いのだが、律義な日向に併せているのか、雅がルールを破っている所を、日向は見た事がない。
「あー、まぁ、ちょっと機嫌が悪くてな、向こうと少しぶつかっちまった感じで、そこまで大きい問題じゃねぇよ。頭冷やす時間ぐらい要るだろって事で、五限目は出れなかったけどな、お陰で補習の宿題が出るわ出るわ……」
「分からない所あったら教えるよ」
げんなりとした表情の雅に、日向は笑って答える。それ以上は特に言及する事もせず、気付けば二人が別れる交差点へと差し掛かっていた。
「……何も聞かねぇの? 理由とか」
「言いたいなら聞くけど、どうする?」
「はは、なんだそれ。まぁ、そうだな。想像にお任せしておく、どうせその内に誰かが噂で流すだろうし、答え合わせはそっちでやってくれ」
雅が面倒そうに吐き捨てる。実際、雅の中ではもう済んだ事なので、これ以上悩む事でもないと思っているのだろう。それが教師達が望む反省の姿であるかは別の話だが、日向自身は雅が理由もなく問題を起こす事はないと思っている。理由があったとしても、それを自制する事が出来るだけの人間だという事も。
つまり、そのラインを飛び越える出来事が何かあったのだ。
「あ、一個だけ教えて欲しい」
「あん?」
「理由は、小野寺先生には話したの?」
日向の問い掛けに、雅は一瞬言葉を詰まらせた後、バツが悪そうに「いや……」とだけ答えた。日向にとっては、それだけで十分な答えになる。
「そっか、分かった。……あのさ、雅」
自身に非があるのなら、それを素直に謝罪出来るこの親友が、恐らくは学校内の教師で最も信頼しているであろう担任にも伝えなかったというのならば。
その答えは、ただ一つだった。
「何かあったら、相談してよ」
「おお、どうした、急に」
雅は相変わらず笑いながら答える。
きっと、彼の中の譲れない一線を越える出来事というのは、自分達にまつわる事なのだろうと確信出来た。自惚れでなければ、という前提は勿論付くのだが。
「いや……日和とさ、話したんだ。これまでの事を全部。話して、その中には色んな失敗とか……今考えると何でもない事とか、そういうのが沢山あった」
「おお……そうか、ようやく話せたか」
「うん。凄い叱られた。一人で悩むな、抱えるなって。一人で抱えようとすると、どうしても視野が狭くなっちゃって、どんどん状況が悪化するんだ。誰にも迷惑掛けたくなかったり、一番いい方法を探したり、そういう事をしている内に……世界が狭くなる」
こうして改めて言葉にしても思う。特別な事ではない、こんな事は、例えば学校のいじめ問題や社会で仕事をする人の問題、あらゆる問題提起される所に、同じような文言は溢れている。
日向自身も、そういった言葉を目にした事があった筈なのだ。
「分かっていても、そうなってしまうんだ。ここまでは大丈夫、このぐらいなら大丈夫……自分の中で安全圏を作って、いつかそれが危険域に入っている事があっても、気付かなくなる。俺も、俺は大丈夫だと思ってたから、よく分かるんだ。きっと雅も同じなんだと思う……だって、俺がこうして『相談して』って言ったら、雅は『分かった』って言うんだよ。それはきっと、本心で……」
本心だからこそ、安心してしまう。安心して、いつか耐え切れなくなったら相談しよう……少し苦しかったら相談しよう、そう思って、それまでは耐えてしまう。
「俺達は、互いを良く知っているから……知っているからこそ、甘えてしまうんだって、そう思った。相手がきっと話してくれる、相手はきっと聞いてくれる……信頼出来るからこその、落とし穴なんだと思う。だからきっと、俺達はもっと言葉を交わさないといけないんだ。……言葉を交わしたいんだ、と……思う」
日向の言葉を、雅は笑わずに真正面に向いて聞いた。
たどたどしくも、一語一句を自分に刻むように話す日向の言葉は、二年という歳月の間を彷徨った日向が、ようやく辿り着いた一つの答えでもあるのだ。
「だから、やっぱり御免、さっきのは間違えた。雅が言いたい時に聞くなんて、それだけじゃ足りなかった。……そうするべきだと思った時は、訊くよ。だから、そういう時は可能な限り、話して欲しい」
全てを打ち明けろ、とは言わなかった。
人にはそれぞれ、隠しておきたい一面もある。例え相手が親友であっても、家族であっても、だからこそ話せない事というのは往々にして存在する。
きっと、歩み寄る事を努力する事、そんな当たり前の事が、きっと人と人の間には必要なのだ。いつか歩み寄ってくれる、ではなくて、こちらから歩み寄る事が。
「……日向、お前。変わったな」
「数々の苦難を経て……いや、苦難っていう程のものでもなかったけれどね」
「そうだな、半分以上は自爆だもんな。でも、そうだな、今の言葉はその通りだと思うぜ。まぁ、今は本当に大丈夫だ。別にお前みたいに追い詰められてる訳じゃないし、頭を冷やせば解決する程度のもんだから、心配すんな」
自爆、という言葉を強調して言う雅に、日向は言い返す事が出来ずに「うっ……」と息を詰まらせた。そして、心配するな続けられた言葉には、頷いて返す。
「それじゃ、お前は本当にもうそろそろ帰らんと、蕾ちゃんに俺がどやされるでな。俺も真っ直ぐ帰るから、気を付けてな」
「うん」
手を改めて手を振る雅に、日向も軽く手を振って返す。そうして今度こそ、親友達はお互いを振り返る事なく各々の帰路についた。
「日向君もまぁ、大人になっちゃってからに……いいねぇ、青い春だねぇ……」
雅が最初の曲がり角を曲がろうとした際、不意に後ろからダダダっと激しい足音が聴こえて振り返る。
「あん……? うおぉぉっ!!」
「止まりなさい! そして歯を食い縛れ、成瀬ぇぇぇ!」
振り返った雅の視界に飛び込んできたものは、両手で鞄を振り被ったままこちらへと駆けてくる唯の姿であった。