反転する世界
ふわふわとした意識の中、うっすらと目を開いた日向は、次の瞬間に電流が走ったように体を起こした。
(……やばい、寝てた!)
軽く仰向けになって落ち着こうと思っていた所、連日の練習による疲れが出たのかもしれない。
何時間も経っていたらどうしようと時計を慌てて確認するが、時計の針は思った以上に進んでいなかった。寝ていたのは十五分足らずらしい。
幼い子供が一人で一階に居るのだから、長い事一人にさせてしまうと何があるか分からない。
改めて考えると、こうして自室に戻った事すらも軽はずみな行動だったと、日向は自戒した。
「……戻るか」
寝入ってしまう前の蕾とのやり取りを思い出し、ほんの少しだけ気が滅入る。
歳の離れた妹相手なのだから、あぁまで強く言う必要は無かったかもしれない。練習が出来ない鬱屈した気持ちを子供にぶつけるなど、自分の情けなさに呆れそうになりながら日向は部屋のドアを開けた。
もしかしたら、一人きりで心細くて泣いているかもしれないとも思ったが、家の中は静かなものだった。
電源が入ったままのテレビの音声だけが、日向の元まで届いてくる。
「あれ、寝てるのかな……随分静かだけど……」
泣き疲れてそのまま寝てしまっている可能性を考えて、日向はそっと階段を降りた。
階段途中のカーブを過ぎると、階下に見慣れた模様があるのに気付き、そちらに目を向ける。
「……蕾?」
最初にそれを目にした時、日向は蕾が廊下で遊んでいるものだと思った。
丁度、階段の一段目に寄り掛かるようにして蕾が蹲っていたので、段差を使って玩具で遊んでいる途中にでも寝てしまったのかと考え、蕾を踏んでしまわないようにそっと近付いてみた。
「蕾、蕾? 寝てるの?」
伏せられた蕾の顔を確認する事は出来ず、万が一を考えて冷や汗が出たものの、背中が呼吸に合わせて上下しているのを見て、ほっと息を吐く。
とはいえ、このまま冷たいフローリングに寝かせたままでは身体に良くないだろうと思い、その小さな身体を抱える為にゆっくりと仰向けにさせた。
「ほら、寝るならちゃんとお布団行くか、ソファーにしよう、つぼ……」
呼び掛ける途中で、異変に気付いた。蕾の背中に当てた自分の腕の熱さと、蕾の呼吸が荒い事に。
なんだこれは、と焦る日向の腕の中で蕾の身体がブルブルと震えている。自発的に出せる震え方ではない。
「ちょっと、どうしたの……蕾?」
気が動転しながらも、日向は蕾の額と首元に手を当てて体温を確かめる。
「熱い……」
子供の体温など測った経験等無かったが、それでも今の蕾が平熱ではない事は分かった。
的確な数値を知る必要があると思い、蕾を抱え上げてリビングに行くと、薬箱がある棚へと向かう。
「体温計……確か、この辺りに」
自分の気を落ち着かせる為か、考えている事がそのまま口に出る。不器用に蕾を抱えながら、それでも落とさないように注意を払いつつ、片手で棚の中を探してようやく体温計を見付ける事が出来た。
すぐにソファーへと蕾を寝かせると、軽く胸元を開いて脇に体温計を差し込む。計測が終わるまでの数秒が、この時だけは数分続いているのではと思うぐらいに長かった。
やがて、ピピピ、と電子音が鳴ると日向は体温計を引き出し、その画面を見て絶句した。
「39度5分……」
予想よりもずっと高い熱は、自身の身に起きたのならば立っているのが辛い程の高熱だった。それが今、この小さな身体に降り掛かっている。
熱を測り終えた後、日向はすぐに母親へと電話を掛けた。何の経験も無い自分が手を出していい問題ではないと判断した結果だった。
数回コール音が鳴った後、明吏が電話に出てくれた。安堵する間も無く、日向は捲し立てるように電話口に向かって口を開いた。
「母さん、蕾が熱出してる。凄く熱くて、測ってみたら39度もあって!」
『ちょっと日向、落ち着いて。熱があるのね? すぐに帰るけど、他に何か症状はある? 吐いてたり、どこか怪我したり、そういう事は無い?」
「大丈夫だと思う。吐いた後は無かったけど、怪我は確認してない。俺、ちょっと部屋で寝ちゃってて、それで起きたら階段の所に蕾が居て……」
覚えている限りの事を明吏に伝えようと、必死に記憶を探る。
寝てしまう前、蕾は特に具合の悪そうな感じではなかった。
『日向、大丈夫だから。子供はね、急に熱が出る事もあるの。母さん急いで帰るから、傍で蕾を励ましてあげて』
「うん……」
『熱が出て寝てるだけなら、今すぐどうこうなる訳じゃないと思うから。あんたもね、そうやって急に熱が出た事があるんだよ。とりあえず急いで帰るから、何かあったらすぐに連絡頂戴、いいわね?』
「分かった、そうする」
明吏の力強い言葉に日向も落ち着きを取り戻し、返事をしながら頷いた。
そして電話を切ると、一度息を吐いてから自分に出来る事を考え、冷蔵庫に向かうと冷凍室に入れてあるジェルタイプのアイス枕を取り出し、洗面所にあるタオルで包んだ。
それを持ってソファーに向かうと、浅い呼吸を繰り返す蕾の首の下にそっと差し込む。
「……おにいやん」
「ん……ここに居るよ」
頭を動かした拍子に目が醒めたのか、蕾が消え入りそうな声で日向を呼んだ。
それと同時に、小さな手が日向へと差し出される。
心細いのだろうかと日向が手を握り返すと、蕾はその手を自分の頬へと寄せて、擦りつけるようにしてきた。
「ごめんなはい……」
「うん?」
「やなことして……ごめんなはい……」
嫌な事して、御免なさい。
喋れるようになってきたけれど、まだ流暢に言葉を言えない蕾の、謝罪だった。
一生懸命に日向へと伝えようとするその姿に、日向は自身の行動を恥じた。
「蕾、蕾……ごめん、ごめんな。具合悪かったんだよな、それを伝えたかったんだよな。気付いてやれなくて御免な……」
まだ自分の身体の不調すらも上手く伝えられない蕾は、感情で表現するしかなかったのだろう。
もしも此処に居るのが日向ではなく明吏や仁だったなら、もっと早くに蕾の身体に気付いてやれたのだろうか。
「俺は、蕾の兄ちゃんなのに……何も出来なくて、御免な」
自分の事しか考えておらず、自分のやりたい事しかやって来なかった、その結果がこれだと。
たった一人の妹の事さえ、自分はどれ程知っているのだろう。
蕾が産まれて、言葉を話せるようになってきても、一体どれだけの言葉を交わしたというのだろう。
こうして蕾が立てないぐらいにぐったりとしているのに、自分には手を握る事しか出来ない。
母の帰りを待ち、その後を委ねる事しか出来ない。
もし、これがもっと大きな病気だったり、怪我だったりしたのなら。
「もっと、色んな事をしてやれるようになるから……」
日向の言葉が理解出来たのかは分からなかったが、蕾は日向の言葉に、繋いだ手をぎゅっと握り直してきた。
「おにいちゃん……ここ、いて」
きっと、それは蕾が日向に初めてお願いをした瞬間だった。
原稿作業とかプライベートで色々でした、遅れてすみません……!